原稿

会の名称 福教大同窓会(城山会)・文化講       演会
日時    2010213日(土曜日)
会場    ニュープラザ(久留米広又)
題名    ふるさと久留米のご維新



あいさつ

文化講演会に呼んでいただき感謝致します。
本日お話しする「ふるさと久留米のご維新(いっしん)」では、主に久留米絣の井上伝と、久留米縞織りの小川トク、それに久留米かすりと久留米縞を全国ブランドに押し上げた商人・国武喜次郎を中心にお話ししたいと存じます。

 もちろん、維新後の久留米を形つくった先人は他にも無数います。例えばこの地・広又村の庄屋の息子であった赤司喜次郎もその一人です。維新前後に、入院先で見舞いにもらった花が気になり、後に赤司広楽園を開業します。世界中にその名を知られた「久留米つつじ」は、喜次郎の熱心な商い心から生まれたものだといわれています。
久留米つつじ:久留米つつじの生みの親は、久留米藩士の坂本元蔵。坂本の「新種」を育て上げ久留米の産物にしたのは、初代赤司喜次郎。赤司の家は代々広又の庄屋。

 私は現在、ホームページを活用して、「筑紫次郎の伝説紀行」「久留米絣の井上伝物語」「久留米縞織物の小川トク伝」「くるめ商人(あきんど)物語、国武喜次郎の巻」「九重高原開拓史・大河を遡る」などを発表する活動に明け暮れています。定年後の余生をより豊かにしたかったためです。

  私のサラリーマン生活(民放のRKB毎日放送)の中で、東京支社勤務が長くて、その時の経験が、今日のライフワークに直結しています。全国から集まってくる同業者が、寄っては話すことが「お国自慢」でありました。北海道の大雪原や東北地方の暮らしから生まれた素朴な民話、沖縄での本土復帰にかける民族意識のことなど。皆は、方言丸出しで熱っぽく語りました。

  「古賀さんは?」と、話題をこちらに振られて困ってしまうのです。

  「悠々流れる筑後川」とか、「広大な穀倉地帯の筑後平野」、「世界に誇るゴム産業の町」「博多と久留米の豚骨ラーメン」などを並べてみます。しかし、筑後川より大きな河川は日本国中にいくらでもあります。穀倉地帯にしてもしかり、ゴム産業にしても、それ以上に余所にはたくさん、誇れる産業があるのです。ましてやラーメンなど。

  悔しいけれど、自分のふるさとにかける思いの足りなさを露呈してしまったのでした。

  そろそろ中年の域を脱出しようかというとき、東京から福岡へ。再びふるさとの筑後の地にも足を運ぶようになりました。そこで45歳にして初めて車の免許を取得して、「ふるさと巡り」を開始したのでした。わがふるさとを心に刻み込むためにと、デジタルカメラをぶら下げて、筑後川を上ったり下ったり。不慣れなパソコンに挑戦したのも、ホームページを活用して「ふるさと情報の発信」を考えたからでした。

僕がかつて経験したような、遠隔地に住んでいて、具体的なふるさと自慢に不自由している同胞に情報を提供することで、自分の定年後のやる気を奮い立たせたかったのです。

筑後川とその流域について

源流&上流

 筑後川の源流は、大きくは阿蘇外輪山と九重連山に仕分けすることができます。写真:阿蘇外輪山・立岩水源(南小国町)
国土交通省の認定でいう筑後川の源流は、熊本県南小国町の東方、田の原川の「清流公園・雀地獄」だそうです。硫黄の臭いがプンプンの池の底から、無限の伏流水が噴出しています。やまなみハイウェーの瀬の本高原の近くです。田の原川を下ってくると、阿蘇の2神(高橋の宮・火の宮)を祀る「両神社」が建ち、そこで大観峰付近を起点とする「志賀瀬川」などと合流して、杖立川と名を変えます。
志賀瀬川周辺の万願寺には、阿蘇神に仕える野生化した女の話が伝わっています(万願寺おトラ)。また両神社の周辺では、阿蘇の農業を切り拓いたと伝えられる阿蘇神と恵比寿神を大切にお祭りしています。深い山の中だったその昔、人々には神を怖れ、自然を敬う習慣が身に付いていたようです。写真:九重の硫黄山、水源の一つ(九重町)
両神社のすぐ近くの水辺には、大けやきの根元からこんこんと湧き出る水源があります。地元民は、そばに恵比寿神を祀っています。神からいただいた水を、きれいなままで下流の人々に送り届けようとの心づかいがよくわかります。

九重高原

九重連山を水源とするのは、玖珠川系の湧水群です。すぐ近くには、東に流れる大分川の水源があります。飯田高原は、西と東に流れる一級河川の分水嶺なのです。
連山の麓には、広大な飯田高原が広がります。「長者原」の由来である朝日長者を祀る社は、千数百年昔にこの地を支配した頃の長者の屋敷跡だそうです。写真:朝日長者を偲び、豊作に感謝する団子祭り
最近人気の「日本一の大吊り橋」を渡っ た先の北方(きたがた)地区の「甲斐」と名乗る一族が、「私らが長者の子孫」だと言って、毎年秋の収穫後に団子を持ち寄って「団子祭り」を開催しています。
長者が支配した「千町無田」の由来は、長者が驕り高ぶった末に鏡餅を的に見立てて矢を射ったために、まったく五穀や野菜が育たなくなったからだと伝えられます。
明治期に、この地を開拓した筑後の農民の話を書いたのが私です。(大河を遡る/九重高原開拓史)

中流域(日田盆地)

杖立温泉を駆け下りてきて、いったん松原ダムで休憩。やがて名前を「大山川」と変えて、日田盆地にたどり着きます。そこで、九重高原から下りてきた「玖珠川」と合流するのです。「三隈川」と名を変えた川には、花月川とか二串川・高瀬川など大小さまざまな河川が仲間入りして、一気に大河に変身します。
昔の三隈川は、いまよりずっと北方を流れていたらしく、街中の神渕寺(しんえんじ)の伽藍には、ありとあらゆる筑後川の魚が集まって会議を開いたとの言い伝えがあります。もちろん議題は、「魚が住みやすい川を守るには…」だったそうです。写真:筑後川中の魚が集合して会議を開いた神渕寺の伽藍堂跡
三隈川まで下りてくると、あっちこっちでカッパの叫び声が聞かれます。代表的なものは、大原神社にまつわる「踊るカッパ」と日田温泉の対岸の「銭淵カッパ」。人馬にいたずらばかりするカッパを、大原八幡の神様が諌めると、カッパは奇妙な踊りで応えるという話。「銭淵」は、からかわれたカッパが、人の体中にとりつくという怖ろしい話。
写真:踊るカッパ

中流域(浮羽・朝倉)

昭和28年に夜明けダムができるまでは、大分と福岡の県境はカッパも怖れる急流でした。桧や杉の材木を下流に運ぶ筏流しは、この急流を竹竿一本で操っていたのです。まさしく職人芸でした。
なだらかな平野部に入ると、右岸は朝倉郡(筑前)、左岸は浮羽郡(筑後)の穀倉地帯が広がります。
上流から、「袋野堰」「大石堰」「山田堰」「恵利堰」4つの大堰が重なって造られています。いずれも、江戸時代初期に幕府の号令のもと造られたものです。その一つ一つに、歴史や言い伝えがあります。写真:県境の急流を下る筏群(戦前)
「袋野」は、夜明ダム下の急流を堰止めて水をひくために、資材調達や杭打ち、更には岩盤をくりぬいて2キロに及ぶトンネルを掘る作業で、何人もの命が失われたといいます。
「大石」は、南側の筑後平野(吉井・田主丸地区)への農業用水を供給するために造られた堰です。吉井地区の五人の庄屋が、命がけで困難を乗り越えて工事に成功する話は、いまも各地の小学校で教材に使われていると聞きます。
「山田」は、三連水車で有名な菱野地区への人工河川(堀川)への導水に、大変な技術を要したそうです。写真:大岩盤を刳り抜いて造られた山田堰の取水口
最後に、「恵利堰」は、北岸の大刀洗や北野への農業用水供給が目的の堰です。この辺りには、朝倉方面から小石原川、佐田川など幾筋もの川が集中しているため、その昔は洪水に悩まされたそうです。そこで筑前と筑後のいがみ合いが絶えなかったと、伝えられています。
また流れを良くするために、新たな堰を造ろうとしてもすぐ流されるため、ついに「人柱」を建てたという伝説(おさよの人柱)も有名です。

中流域(久留米)

筑後川も久留米の近くまで来ると、カッパの叫び声がますます喧しくなります。その原因は、久留米水天宮本社にあるようです。水天宮は、源平合戦で敗れた平家の女官按察使局(ぜちのつぼね)が、壇ノ浦で最期を遂げた清盛の夫人・時子や安徳幼帝、更には、平家の御大将平清盛を供養するために創建したものだそうです。写真:戦前の水天宮御座舟
そんなところから、久留米周辺には、多くの「平家伝説」が根付いているのです。

巨瀬川の芋川(いもがわ)(妹川)には、壇ノ浦合戦から100年後に、清盛と妻時子が年に一度の逢引きをするという伝説があります。まるで七夕様みたいですね。清盛入道のなれの果てが、9000匹のカッパを束ねる九十九瀬(こせ)入道であったとのこと。2人の逢引きを知らせる合図は雷鳴で、稲妻や雷鳴が鳴る間は、絶対に鉦や太鼓を鳴らしてはならぬ、泳いではならぬという掟ができあがったのです。もしそのことを守らなかったら、田は干上がり、子供はおぼれ死ぬという言い伝えまでできました。それもこれも、巨瀬入道が嫌うことをすれば、配下の9000匹のカッパが黙っていないというわけです。写真:支流・巨瀬川の上流、妹川の水天宮(旧浮羽町)
雷さんがなったら、川遊びをやめようねといった、戒めなのでしょうか。

更に筑後川を下ると旧城島町。青木大橋のあたりまで下りてくると、お話の内容が中国や朝鮮半島にぐっと近づきます。ここでは青木島付近に伝わる弘法大師の伝説。
唐留学からの帰路、青木の渡しで、親切な青年に向こう岸まで運んでもらいます。大師はそのお礼に、葦の葉を川に投げ入れてエツという珍魚を与えてくれました。写真:大師堂に飾られた弘法大師像
全国的な弘法大師伝説の一つではありますが、大陸(唐)との地理関係から察すると、筑後川下流のこのお話には、妙に説得力があると思いませんか。

下流域(大川市)

城島から下って、大川と諸富を繋ぐ昇開橋あたりには、これまた大陸との関わりが深い徐福渡来伝説が盛んです。紀元前300年に3000の兵を率いて不老不死の薬草を探しにやってきた徐福です。でも、日本人の娘に惚れてしまい、薬草は見つかっても中国へは帰りませんでした。
その代わり、佐賀平野には、農業の技術と五穀の種を残し、現在の日本農業の基礎を伝えたのだといいます。写真は古湯温泉に祀られる徐福の像
薬草の在り処を占いで決めようと、下流に杯を浮かべ、漂着したところに上陸しました。「下流に」とは、有明海の干満の差を表現したものです。今も地名が残る「浮盃(ぶばい)」など徐福に因んだ名前がたくさんあります。
でもなんだか変です。日本全国に28か所も「徐福上陸の地」があるいというのですから。

伝説紀行のまとめ

これまでに収集して、「伝説紀行」として執筆した伝説は、345話に及びます。いま述べた分はその中でも、筑後川に直接関係する代表選手です。山深い源流地域では、人々は深い信仰を心の支えとして、開拓に励んでいました。下流域にきれいな水を供給するために、日々努力してきたこともよくわかります。

筑後平野では、人々にとって川は命綱です。農業用水や飲み水を確保するための諍いや戦も絶えませんでした。海への導入門でもある大河は、カッパ伝説や浦島伝説となって、語られてきました。
だから、太古の昔から、人々は営みの場を川辺に求めたのだと思います。
川は水運としても貴重です。昭和28年まで続いた筏流しは、今では語り草です。
貴重なタンパク源として、筑後川が果たした役割は大きいのです。いがみ合い、助け合いながらも、先輩たちは後の世に大切な水を残すために努めてきたのだといえます。
「どこの川でも同じ」と言ってしまえばそれまでですが、幹流・支流・上流・中流・下流にそれぞれの特徴を持ち、歴史が刻まれてきたことを、「伝説」は鮮明に私たちに教えてくれます。
古代からの先人達が残してくれた自然や文化こそ、私どもの最大の「ふるさと自慢」だと声高に言いたいです。
筑後川を源流から河口まで、そして有明海を何十回と巡り、「筑紫次郎の伝説紀行」をつづりながらの旅です。その間に、行き合わせた九重高原での体験をもとに「大河を遡る」を出版し、毎日新聞と西日本新聞、それにRKB毎日放送(ラジオ)では、長期間にわたって「伝説紀行」を連載させてもらいました。

筑後川流域の取材の延長線上にでてきたのが、地元久留米の人物伝です。今回は、その中でも明治維新に絡んで、バイタリティー豊かに生きた何人かの先達についてお話します。

何故ならば、この時代に生きた人たちが、現在の久留米(筑後)地方の原型を築き上げたのだと思うからです。

講演の柱


写真左から、小川トク・井上伝・国武喜次郎

「明治改元」のその瞬間に、久留米に生きていた井上伝と小川トク、それに国武喜次郎の3人に、今回の演目の主役を演じてもらいます。彼らには、切っても切れない共通点があります。それは、「木綿布」、つまり、かすりと縞織物との関わりです。

この他にも、槌屋足袋店(現ムーンスター)創業者の倉田雲平。久留米つつじを世界的ブランドに押し上げた赤司喜次郎。いち早く活版印刷を久留米に導入した野村正助。明治政府が新暦導入を果たした明治6年には、早くも24時間制の西洋時計店を開業した宗野末吉。藍胎漆器を考案した川崎峰次郎などなどがあげられます。

これらの人物群像が、それまでの城下町を商業都市に一変させた功労者であることは間違いありません。

それにしても不可解なことは、それまでの厳しい鎖国政策のもとに、丁髷に刀をさして「お国(藩)大事」を第一義とした時代が、「維新」のフィルターを抜けた途端に、次にあげるように近代化が進んだことです。誰がいつ、どのようにその日の来ることを予知して準備をしていたのでしょうか。

鉄道の開業  1872年、(維新から4年後)新橋・横浜間に鉄道開通。
          1874年、大阪・神戸間 77年 京都・大阪間に開通。
          わずか4年後に始まり、10年を経ずして、東京−神戸間の鉄道が開通していること。写真:復元された明治の新橋駅

  • 郵便制度 1871年、(維新から3年後)には、郵便切手が発売され、ポストの設置もできています。
           翌1872年、郵便制度が全国的に実施。
           1873年、全国均一料金制実施。郵便葉書の発行。
           5年間で、郵便制度が完成しています。
  • 電信事業 (維新の翌年)1869年、東京・横浜間に電信開通。
           1871年、長崎・上海間に海底電線敷設。
           1873年、東京・長崎間に電信開通。大阪・京都間に電信開通。写真:復元された新橋・汐留駅
           1877年、九州・北海道まで電信開通。電話の輸入。
           10年間で、電信が日本列島を縦断。
  • 官営製糸工場 1872年、富岡模範工場開設。

紡績業 (維新の前年)1867年、鹿児島紡績所に洋式(蒸気機関)機械導入。
     1872年、堺紡績所が官営として操業開始。
     1883年、大阪紡績所開業。
     1886年、鐘淵紡績会社開業。
     1890年、豊田佐吉、豊田式木製人力織機を発明。
     1907年、綿布の輸出量が輸入量を上回る
     翌年には、イギリス製の紡績機械が輸入され、数年のうちに蒸気機関を動力とする紡績会社が操業していること。
明治政府による近代化が急ピッチで進んでいるころ、久留米でも商業都市建設への槌音が高らかに響いていました。
この頃、旧久留米城下の戸数は3920戸、人口は2682人。

1868年(明治01年)
緒方安平、原古賀に米穀取引所(相場会所)開業。

1872年(明治05年)
原古賀に、三潴県下郵便取扱所開設。
山本平四郎、原古賀に牛豚肉店を開業。
山本平四郎、大和・西洋料理店開業。

1873年(明治06年)
倉田雲平、槌屋足袋店開業。
赤司喜次郎、赤司広楽園起こす。
中村勝次、呉服町に写真館を開く。
野村正助、白山村に活版印刷所を開業。
宗野末吉、苧扱川に西洋時計店開業。
などなどです。それまでの久留米の商業から脱皮した商いが始まったのです。

城下町のシンボルである櫓や城門が壊され、久留米の町は一気に商人の町へと変身していきます。そんな激変を確かめることもなく、井上伝は静かに82年の生涯を閉じたのでした。

井上伝

まず、ご存じ井上伝女史について。
人生82年間を、幕末という日本でも最大級の混乱期に生きていました。
伝は、通外町に建つ五穀神社の参道付近の米屋の長女としてこの世に生を受けました。店は繁盛している風はなく、物心ついてすぐに機織りを始めました。家計を助けるためです。

彼女が数え年6歳の折り、すぐ近くの櫛原で、高山彦九郎が割腹自殺をしています。
高山彦九郎:(174793)江戸中期の尊王思想家。諸国を巡歴して尊王を説き、九州旅行の途中久留米で自殺。
明治維新:江戸幕府の滅亡。明治政府の成立に伴う変革。時期区分については諸説あるが、ほぼ1841年の“天保の改革”から77年の西南戦争にいたる期間。天保のころ、封建危機の対応策として絶対主義政権樹立の方向が示され、欧米資本主義先進国との接触による内外の危機深化につれ、尊王攘夷運動が展開。
長州藩・薩摩藩など西南雄藩の革新的下級武士団の指導のもとに討幕運動が進展。1867年、将軍徳川慶喜は大政奉還を行い、王政復古が実現、天皇制絶対主義政権が樹立した。
以後、殖産興業・富国強兵をスローガンとする政府による近代化政策が推進され、西南戦争を経て統一政権の基礎が安定。

高山の自殺が引き金のように、その後天保の改革を経て、幕末の動乱へと続いていきます。井上伝は、子供心に、付近での事件を聞いていただろうし、大人からも意味を教えられていたはずです。
天保の改革(184143):江戸後期、老中水野忠邦が行った幕政改革。文化・文政前後の農村内の商業的農業・加工業の発展と、都市の株仲間の動揺。物価騰貴、武士の困窮、百姓一揆と打ち壊しの増加、更に天保の飢饉と大塩平八郎の乱など、封建社会の混乱を収拾すべく実施。
この改革と前後して諸藩の藩政改革も行われ、一応の成功をおさめた薩摩藩や長州藩など西南雄藩が、やがて明治維新を指導することとなる。小川トクは、丁度この時代に埼玉県で誕生しています。

井上伝が亡くなったのは、明治2426(旧暦)です。今日の暦に直せば、桜真っ盛りの3月の終わり頃ということになりましょうか。写真:五穀神社参道
慶応から明治に転じた「明治改元(明治元年9月)」から半年余りしか経っていません。
世相はますます暗くなるばかりです。異国船の到来で、沿岸警備を命じられて財政困窮に陥った久留米藩は、領民に対してそれまで以上の“倹約令”を徹底します。違反者には、容赦なく罰が下されました。伝女史の周辺でも、次第に騒々しさを増していきました。
参政・不破美作(ふわみまさか)が尊攘派に暗殺される。暗殺した24人は無罪となり、逆に佐幕派の今井栄らが役職追放の処分を受けます。
有馬監物ら佐幕派の指導層30人以上が処罰されます。(慶応4年)
江戸定居の藩士家族300余人が帰国。(慶応4年・最後の引き上げ)このとき、後述の小川トクが久留米にやってくるのです。
明治改元(慶応498日)
高良山座主還俗・退山
命令。(明治22月)
神仏分離令により、大善寺・祇園寺・五穀神社神宮寺・円通寺など廃される。(明治22月)
戊辰戦争で、久留米藩からも大挙派兵。
維新後の様々な出来事は、死期を間近にした伝女史にとっても決して穏やかなものではなかったでしょう。とりわけ、こよなく信仰してきた五穀神社の神宮寺・円通寺が廃寺に追い込まれたとき、死期を2カ月後に控えた伝女史にとっては、運命的皮肉としか言いようがありません。
写真:円通寺があった五穀神社境内

晩年の伝は、一人奥に引きこもることが多かったといいます。そんな時、火鉢の中の灰を火箸でまとめて、そこに線香を2本立てる。その線香が燃え尽きるまで、「なんまんだ」と念仏を唱えていたといいます。

今日でこそ「久留米絣の創始者」として、英雄扱いをされる井上伝ですが、亡くなるそのときはどうだったのでしょう。どこででも見かける普通のお婆さんだったはずです。そんなに多くない身内に、静かに見送られたお葬式だったろうと推測します。

伝が考案し、大塚太蔵や牛島ノシらが築き上げてきた「久留米のかすり」を、特産品として久留米藩が評価したのは、彼女がこの世を去るわずかに5年前の元治元年なのですから。信じられないことですが、「久留米絣」と漢字で表示するようになったのも、この頃が最初だったそうです。それまでは、単に「お伝がすり」とか「飛白」などと表示していたようです。問屋は、生産者から買い取った商品を、卸売商人又は小売商人に売って、その後に一般消費者に渡っていく仕組みでした。
一部の商人による問屋に集中させることで、効率化を図ったのである。それまでの主な問屋はといえば

塩鰯薪殻物問屋  諸紙仲買及問屋  小間物問屋  煙草問屋  唐物問屋 仲買及問屋  櫨実仲買及問屋  魚問屋  茣蓙問屋(ござとんや)

かすりや縞など衣類関係の問屋がここに見えないのは、未だ藩の重要な生産種に数えられていなかったからです。
そのように考えていきますと、井上伝は現在言われるような英雄でもなんでもなかったのです。
彼女の名前が筑後から全国に知れ渡るのは、ずっと後に、国武喜次郎ら久留米商人によって久留米絣を全国ブランドに押し上げたときではなかったでしょうか。その頃になって、かすり組合や商工団体は、商品をクローズアップするためのヒーローが必要になったのだと考えます。明治中期に入って、商人たちはやっと井上伝を追賞したり遺族に年金を贈ったり、墓を現在の徳雲寺に改葬したりしています。写真:徳雲寺に建つ井上伝の墓

文部省の尋常小学校修身書に掲載されるのは、伝没後42年経過してからです。

井上伝の一生は、家族の暮らしのために、お国(久留米藩)のために、地道に絣を織り、ひたむきに娘たちにかすり織りを教えたことに尽きます。

伝えられる井上伝の「弟子」の数は、数千人にも及ぶそうです。ここでいう「弟子」とは、問屋や機屋の要請で教えた娘や、自前の作業場で雇った機織り娘などを総称していると思います。

井上伝の一生は、

ここで少し、井上伝の足跡を追ってみることにします。
天明8年(1788,通外町の米屋(屋号:橋口屋・姓平山)の長女として出生します。

彼女は生まれてこの方、ほとんど久留米の城下から出たことはなかったようです。
兄弟は、兄と妹、弟などがいたのですが、兄は出家するし弟は水の事故で亡くなるなど、不幸がついて回りました。世に言われる伝のかすり発明(考案)は、彼女の稀にみる好奇心から生まれたものです。

色あせた古着の斑模様が気になって。解いた後の糸に残った染料をヒントに、白糸で括り、染める方法を考案しました。それが「あられ模様」、「霜降り模様」と評判を呼び、問屋に重宝がられました。

お伝のかすりが縁で、問屋から子女の機織りの教育係を言い渡され、大勢の弟子を持つきっかけとなりました。しかし、家が傾いたことや祖母の死、兄の出家などが重なり、伝は京の隈(現在の京町)に3年間の女中奉公に出ます。年季があけた伝は、すぐ原古賀の井上次八と結婚。3人の子供に恵まれますが、間もなく夫は死去しました。写真:伝が女中奉公に出た京の隈の武家屋敷跡(現京町)

伝は、子供を連れて実家近くに移り、作業場を建てて本格的な織屋稼業に入ります。図柄は斬新で、街の評判を呼びますが、より複雑な絵がすりに挑戦します。
その頃、彼女を技術的に助けたのが、紺屋の佐助と12歳も年下の鼈甲屋の息子のからくり儀衛門です。五穀神社で祭りのからくり人形芝居をうっていた儀衛門は、快く引き受けて、伝の希望するかすりに大きく近づきました。
しかし、儀衛門一家(10丁目のべっ甲細工師・弥衛門)は、大坂に去っていきます。おそらく、徹底した倹約令の中では、ぜいたく品とみなされる鼈甲細工では仕事ができなかったのではないでしょうか。大坂に去った後の、からくり儀衛門の活躍は、みなさん御承知のとおりです。

30代のお伝は、作業場に大勢の弟子を雇って、乗りに乗っていたと考えられます。そんな折、お城から間もなく出生予定の若君(後の10代目藩主有馬頼永(ありまよりとお))の乳付(ちづけ)(乳母という説もある)を頼まれます。
年代(39歳)と実子の年齢から考えると、所謂乳母ではなく、乳母になる女を捜してくれとの要請だったと考えられます。

中年から老年に入り、伝は若い才能の台頭に悩まされながら、新しい図柄の研究に没頭していました。金毘羅さんに参ったり、初孫の宮参り用晴れ着を織ったり、楽しみを交えながら機織りは継続していました。
自家作業場と本村商店への出張で、若い娘たちへ機織りを教えるのもすっかり定着しています。

そんなある日、久留米で興行を張る大相撲の横綱小野川喜三郎の羽織を引き受けます。柄も寸法もけた外れの織物に挑む伝の、これが最後の大仕事になりました。
小野川が着る羽織は、江戸の両国で大変な評判をとったそうです。

井上伝のまとめ

井上伝は、天才ではない。好奇心旺盛な性格が、括り方式の久留米絣を生み出した。

極端な倹約令の中で、木綿のかすり織りは貴重な職業であった。お国(藩)への忠誠が、新しい技術(図柄・絵がすり)を生み、維新後の繁栄の基を築くことになる。

彼女の最大の功労は、数千人といわれる弟子を育て、筑後一円の農家に機織りを浸透させたことである。

小川トク

次にあげるのは、「久留米縞織」をかすりと並ぶ久留米の特産品にまで押し上げた小川トク女史の紹介です。こちらは逆に、ご存じない方の方が多いかもしれません。

武蔵国宮ヶ谷塔村(現さいたま市見沼区)の出身で、20歳から30歳までを久留米藩の江戸屋敷に上がって女中奉公しています。幕末に、主人の供で久留米にやってきて、70歳過ぎまで暮らすことになりました。小川トクは、その間に数百人ともいわれる弟子を養成しています。

井上伝が、江戸時代の消滅と自らの人生に別れを告げたその時、久留米の城下町に一人の織姫が降り立ちました。その名前を小川トクといいます。年齢は30歳でした。写真:トクの生家近くの綾瀬川

小川トクは明治以降久留米に定着して、年間22万反もの生産高で、縞織物を特産品に押し上げた功労者です。

井上伝と同じく、幼いころから機織り(この地方では縞織り)を覚え、早くして両親を失ってからは、家計を支える大黒柱でした。
すぐ隣は城下町の岩槻市です。この地方は、大消費地の江戸を控えて、昔から綿織物が盛んだったといいます。そのために織物の器械や道具も進んでいて、トクの久留米における機織り人生に大いに役に立ったようです。
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歳にして家を飛び出し江戸に出て、30歳まで久留米藩の江戸上屋敷で女中奉公(戸田角左衛門)に励んでいます。江戸では、屋敷内から感じる幕末の混乱(桜田門外の変など)や、久留米藩の大倹約令など、身近に社会と接することが多かったのではないでしょうか。図:久留米藩江戸上屋敷

10年間の江戸屋敷勤めの後、幕末の騒乱時に国許帰還を命じられた戸田角左衛門の家族に同行して久留米にやってきました。久留米に到着したのが慶応4625日ですから、年号が明治に代わる3か月前のことです。
トク一行は、日吉神社(当時は山王神社)裏の新廓(しんくるわ)に建造された帰還藩士のための屋敷に落ち着きました。

明治維新の端緒となった天保の改革時に生れ、井上伝が晩年を迎えて上野町(大善寺)や山隈村(小郡市)などに出張して子女にかすり織りを教えていた頃、江戸の上屋敷に入り、田舎とは違う世界を体験した時期にあたります。

武家の女中として、主人に同行したりお遣いに出されたりして、結構江戸市中を見聞していたと思います。宮ヶ谷塔での機織りは、大消費地に向けてのものだっただけに、江戸市民が着用する衣服には特別な意識が重なって、センスとか流行を観察する目は人一倍のものがあったに違いおありません。そのことが、久留米での縞織り人生に大いに役立ったのです。

久留米に降り立ち、縞織りで生計を立てようと決意して、最初に手掛けたことは、宮ヶ谷塔で使っていた長機再現することでした。
トクが久留米に来るまでの機織り器械といえば、「いざり機」と称される原始的な器械でした。窮屈な器械にしがみつくようにして座り、全身を使って織るいざり機に比べて、長機はゆっくりした姿勢で腰かけて織れます。

二子(双子)糸:2本の細い糸を撚り合わせた糸。
二子(双子)織:二子糸で織った綿織物。
二子縞:二子糸で織った縞織物。
洋糸:江戸時代後期にイギリス等で紡績された輸入綿糸。洋糸は機械紡績による糸なので、均一で織り上がりが美しく、コスト(値段)がやすくつくのが特徴だった。

また、織機本体以外でも、手紡車(いとぐるま)撚り機(よりき)、投げ()など優れた器械(道具)を、記憶を頼りに復元していきました。その時、鉄砲小路(現蛍川)に住む「亀大工」が献身的に援助したと記録されています。
苦労の末に完成した長機は、その後のかすり織りにも活かせられたでしょう。窮屈ないざり機から高機へと進化を遂げる中間に、長機があったと私は考えます。

次に小川トクが手掛けたのは、縞織りの技術です。
当時久留米市中にも縞織物は存在しました。経済的に値が張るかすりを買えない人などが求めたようですが、糸は弱く柄も単純で女性の興味を引くトところに至っていませんでした。
トクは、かすりの柄が複雑で値を張ることに注目しました。いかに安く、女性のお洒落感覚をくすぐるか、しかも農作業などに適する強度を有するかを考えました。
これも、生れ故郷で覚えた技術と江戸市中で観察したけいけん経済感覚が活きたものです。

かすりの販売業を営む国武喜次郎や本村庄平などが、彼女の織り手としてのセンスを買って、その後の特産品へと発展させていくことになります。

小川トクのまとめ

小川トクの最大の功績は、自らの体験を活かして、筑後一円に安くて強い縞織りを普及させたことである。

ともすれば閉鎖的になりがちな環境で、埼玉の技術と江戸(東京)のセンスを久留米の機織りに適応させた努力が久留米絣と縞織物を全国的ブランドに押し上げた要因だといえよう。(双子織り)

晩年久留米を離れる際に、彼女が言った「私はお国(久留米)のお金を1銭たりとも持ち出しません」の心構えは称賛に値する。

井上伝ほどに歴史的評価を受けないのはどうしてか。研究の余地がある。

国武喜次郎

久留米の町を実質商業都市へと変貌させた第一人者は、何といっても国武喜次郎でしょう。

喜次郎は、弘化4年(1847)に久留米通町の魚屋の長男として誕生しています。12歳にして(1859年)目を患った父親に代わって魚の行商に出ました。

父が亡くなったあと、魚の行商に展望を持てなくなった喜次郎は、かすりの販売業に身を転じました。維新の5年前、1863年(文久3年)17歳の時です。これが、後に“関西の機業王”とうたわれる国武喜次郎の機屋稼業のスタートです。

この時期久留米藩内でのかすり業は、大きな変わり目にありました。藩はもともと、産業としての木綿布をそれほど重視していなかったようです。何故なら、かすりが久留米藩の国産品として指定されるのが、維新のわずか5年前の元治元年(1864年)なのですから。

藩は当時、財政困難を乗り切るために、領民に対して倹約令を徹底していました。「自分で着るものは自分で織る」の思想を、農民・町民に限らず、武家にまで徹底していたようです。

「国産品」とは、藩が指定した元締めを通さなければならない規定です。それによって、藩は藩外で販売するかすりに、1反につき1の税をかけました。また、かすりの流通が元締に一元化されることにより、独占的支配権を持つ元締は巨万の富を有することにもななりました。写真:行商中の近江商人

国武喜次郎は、維新直前に、行商中の近江商人と運命的出会いを果たします。商人は喜次郎に対して、かすり1万反を調達するよう依頼しました。販売先は長崎と長州(現山口県)だと言います。時まさに幕末、西南の雄藩である「薩長」の指導のもとに、大政奉還の寸前にありました。生地が強くて見栄えの良い久留米絣を商品として売り込む近江商人ならではの気概がそこにあったのです。

喜次郎は、苦労して1万反を揃えますが、その後にも矢継ぎ早に注文が押し寄せました。かすり屋に転業してわずか5年足らずの20歳の青年にとっては、過酷な商いではありました。

彼は、商人になるとき教えられた、「ものを売るより、顔を売れ」の精神を活かして、地元で定着していた“織替制度”を頼りに、筑後地方の農家を訪ね歩きました。苦労の甲斐があって、幕末までに4万反ものかすりを調達したといいます。そこで、国武喜次郎にとって、近江商人との固い絆が築かれたのです。 彼は近江商人の歴史や教訓を学ぶことによって、商売の真髄を知った気持ちがします。
近江商人が当時扱った商品と、現在に至る商人の影響は次のようなものです。

 


近江商人が行商した主なうりもの商品

 

蚊帳

綿

砂糖

扇子

畳表

煙草

麻布

 

 

呉服

郷土玩具

人造絹糸

小間物

漢方医薬

鍋・釜など

 

 

釣鐘

 

近江商人の流れを汲むといわれる現在の主な企業

 

高島屋

大丸

三越

西武百貨店

伊藤忠

丸紅

 

トーメン

ニチメン

ヤンマー

日清紡

東洋紡

東レ

 

ワコール

西川産業

メルクロス

 

商人は喜次郎に、長崎とか山口県の問屋を紹介します。また大阪・京都の大手太物問屋(外村與左衛門・辻忠郎兵衛)にも顔をつないでくれました。そうなると、1万反とか2万反の注文は茶飯事ということになります。

近江商人の郷である近江八幡は、豊臣秀吉の甥の秀次が開いた城下町です。織田信長が本能寺の変で不慮の死を遂げた後、消滅した安土の城下町を再建する形でつくられたといわれます。楽市楽座など自由な商業を目指して集まった商人たちが、秀次の城下町に再結集することになりました。徳川時代、幕府直轄となった近江八幡の商人は、幕府から諸国自由通過の手形を授かり、全国どこへでも出かけて商いができるようになったのです。これが、今に続く近江商人の出発点なのです。

喜次郎にとって、次なる難関は原料糸の不足です。農家の副業に依存する機織りには、自ずと限界があります。そのために、以前顔をつくっていた中国地方の問屋を介して、武家の家族に糸の紡ぎを依頼します。 また、鹿児島で操業を始めた鹿児島紡績所の製品を取り寄せたりもするのですが、なかなか需要を賄うまでには至りません。写真:鹿児島紡績所技師宿舎跡

明治4年に久留米絣が藩の統制から正式に解放されると、喜次郎は近江商人に倣って、照れ降れ傘・手甲・合羽・草鞋履き姿に天秤棒を担いでの、行商の旅に出ます。販路を拡大するためです。

岐路(西南戦争の光と影)

一人前の商人に成長したように見える国武喜次郎にも、大きな岐路に立つ時がやってきました。それは、明治維新から10年後の明治10年に起きた西南戦争です。久留米の町は、兵站基地とされ、大小の包帯所(救急病院)も設けられて、次々に死傷者が運び込まれてきました。秋月の乱から佐賀の乱、そして西南戦争と続いた内戦に巻き込まれた久留米の町は、大きな転機を迎えたのです。

久留米商人の多くは、この戦争を金儲けのための千載一遇のチャンスと捉えました。
開店してわずか4年しか経たない槌屋足袋の倉田雲平は、軍から厚底足袋2万足、シャツとズボン下各1万枚の注文を受けました。従業員数人、未だミシンもない時代です。それでも雲平は、20日後には納品を果たして、膨大な利益を得ました。そこで、儲けた利益を全部をつぎ込んで大量の軍事用品(戦時に兵隊が必要とするもの)を買い、熊本の鎮台本部に送りこんだのです。しかし、戦争は彼の思惑より早く終結し、送り込んだ品物はゴミと化してしまいました。倉田雲平、生涯で最大の取りこぼしをしてしまいました。
時計屋の宗野末吉は、大阪に出向いて軍幹部用の懐中時計を大量に仕入れました。このとき、陸揚げした時計を、博多港から久留米まで警官の護衛をつけて送らせた話は、後々までの語り草になりました。写真:南関町の官軍墓地
国武喜次郎も負けまいと動きました。県境の南関(熊本県南関町)に設けられた官軍の大本営に出向き、全国から動員された兵隊に対する給料の両替で手間賃を稼ぎ、終戦後は、帰路につく兵隊に絣などを売りつけたのです。写真:現存する国武倉庫
更に喜次郎は、倉田雲平と同じように、北部九州から中国・四国にまで手を伸ばして生活用品を買いつけました。ただし雲平とは違って、品物を軍には送らず、倉庫に保管して終戦と同時に焼け野が原と化した熊本の町で売りまくったのです。このとき儲けた資金が、後の大商人への貴重な軍資金になりました。

久留米の商人たちは、戦争帰りの兵隊たちに、みやげ物としてかすりや縞など久留米地方の特産品を売りつけ、町は思わぬ戦争景気に沸きました。
これらの久留米商人の商いが、その後の商都久留米を、混迷させることなど考えも及ばなかったことです。

信用失墜

やめとけばいいのに、欲の皮が突っ張った商人たちは、手抜き商品まで売りつけ、全国の消費者から「久留米の商人は信用できん」と酷評されます。
戦争戻りに久留米でかすりを買うたれば、紅殻(べにから)染めとは露知らず、男なりゃこそ騙された」
なんて。

悪評判は、それまで贔屓にしてくれた問屋や仲買人からもそっぽを向かれるところとなり、久留米の商店街は、一挙に灯が消えた状態に陥ってしまったのです。
一度落とした信用を取り戻すことは、容易ではありません。再建に立ちあがった国武らは、同業者組合を組織して、「粗悪品は無料で引き取ります」の信用保証書を貼り、委託販売に乗り出しました

飛躍

失墜した信用は徐々に回復します。その陰に、近江商人の影響が少なからず働いたことは間違いありません。
国武は、間を置かずして滋賀県の近江商人の郷を訪れました。そこで、それまでの生産方式や販売方式、同業者との連携や国の内外の優れた技術を学んだようです。写真:近江八幡市の豪商屋敷

織機の導入と改良
まず喜次郎が目にしたのは、機織り器械です。久留米のいざり機しか知らない喜次郎にとって、腰かけて織る高機は、異次元の織機に見えたに違いありません。
また、久留米では、一つ一つ手で括っていた染色前の作業が、板締め器械でスムーズに作業されています。
久留米では、一抱えもある杼を、力を込めて経糸に潜らせているのに、ここでは鰹節ほどの小さな杼が、右から左へ、左から右へと、「飛ばされて」いました。
作業場が広く、自然の明かりとりもなされていて、機織り娘たちの動きも活発に見えました。
何よりもこの日目に付いたのは、各人の仕事の分業化です。「織替制度」のもとでは、一人が、糸紡ぎから図柄描き、糸括り、染色、織りたてまですべての工程をこなしているのですから、分業化は彼の眼には新鮮に映ったに違いありません。
この日の見学が、その後の久留米での織機と周辺道具の改良に大いに役に立ったと考えます。
いざり機−長機−高機−半機−自動織機(佐々機・伊予機・手動式豊田織機)

生産方式
国武喜次郎が、かすり販売業に転職して以来、馴染んできた「織替制度」についても、近江地方では違っていました。
一人ですべての工程をこなす織替制度もそうですが、職工はすべて直雇いの賃金制度になっています。農家の「副業」とは、天と地ほどに違って見えます。
帰郷した喜次郎が、農家の反対を押し切って、織工制度に切り替えていったことは言うまでもありません。
織替制度に代わって、国武会社は自前の工場を建設します。久留米で最初のマニュファクチュア=工場制手工業の出現です。
この日を境にして、久留米における木綿産業の形態も大いに変化していったといえます。

紡績糸の導入
販売ルートが確立すると、大量生産に耐えうるだけの原料(糸)が必要となります。
国武喜次郎は、圧倒的に不足する原料糸の確保に奔走しました。
維新直後にも採用したことのある鹿児島紡績所からの買い付けは、技術的な面で失敗に終わりましたが、それから10年が経過して、同じ鹿児島藩が大阪の堺戎島に建造した官営堺紡績所の製品は数段の進歩を成していました。大量買い付けに成功します。

堺紡績所は慶応3(1866)年に、旧薩摩藩が堺の戎島に建設したものです。明治元(1868)年、イギリスのミュール紡績機2000錘を導入し、2年後の明治3年に蒸気機関の稼動とともに操業を開始しました。後に、政府が同紡績所を買い取っています。(明治5年)

幕末に起きた「薩英戦争」後、攘夷論を捨てた薩摩とイギリスが接近し、薩摩藩士のイギリス渡航が実現します。慶応元(1865)年に、薩摩藩は19人もの藩士をイギリスに送り込んだのです。一行は帰りに、製糸機10台と精紡機6台、それに技師7人を伴って帰国しました。それが日本で最初にできた鹿児島の紡績所です。
「薩英戦争」:幕末、イギリス艦隊の“鹿児島砲撃事件”。生麦事件後、薩摩藩とイギリスとの交渉が解決せず、7隻の艦隊が鹿児島沖に出動、薩摩藩の砲台と交戦、市街を砲撃、互いに損害があった。
事件後和解が成立。薩摩藩は攘夷の無謀を悟り、イギリスも幕府支持を改め、薩摩藩に接近した。

国武喜次郎は、間違いなく商都久留米建設の功労者である。

喜次郎に限らず、商都久留米は少なからず近江商人の影響を受けて成長している。

久留米商人は、技術も精神も、遠慮せずに受け入れた。そこが江戸時代の閉鎖性と違うところである。

軍隊との共同をためらわなかったのは、時代の趨勢だったのか。

3人以外の役割

お分かりのように、明治維新後の久留米は、藩主有馬公の城下町から典型的な商業都市に様変わりするのですが、主たる産業はかすりと縞織物、つまり木綿産業だったのです。
あきんどの代表選手として国武喜次郎を紹介しましたが、もちろん、彼一人ですべてをやってのけたわけではありません。
井上伝の項でも出てきます本村庄兵衛とその婿養子本村庄平の存在も大きなものです。また、井上伝や小川トクの技術的援護者となったからくり儀衛門や紺屋の佐助の名前も忘れてはなりません。庄兵衛は、井上伝が未亡人になった後、影に日に援助した機屋兼問屋です。売れようが売れまいが、伝の商品を買い占めて、経済的に援けます。その後も、自家工場に呼んで新しい図柄と織りたてを開発、また娘たちへの機織り伝授を要請しています。筑後地方のかすり産業の発展は、庄兵衛抜きには考えにくいところです。

本村庄平は、維新後成長して庄兵衛の跡を継ぎ、国武喜次郎と並び称されるかすり販売業の大手経営者になりました。
西南戦争後の久留米商人への風当たりが厳しくなったとき、喜次郎とともに先頭に立って同業組合の組織化に奔走したのも庄平でした。士族授産事業として始まった「赤松社」が、武士の商法をさらけ出して倒産した跡を継いで、一大かすり工場を再建しています。

そのほか、江戸時代の買い占め問屋だった福童屋の岡茂平や椎茸業を兼ねる松井儀平なども記録されています。

まとめ

私らが子供の時代、終戦後まで、農作業の女性はかすりの上張りとモンペ姿が普通でした。また、街を歩く粋なかすりの和服の女性に見とれたものです。
私の家にも半機があり、母の死後は杼や筬などで遊んだ記憶があります。
「かすりが織れない娘は嫁にもらい手がない」は、江戸末期から昭和の半ばまで、延々と続いていたわけです。
それも、化学繊維の普及などでいつの間にか消えてなくなりました。そして今、久留米絣は筑後地方に伝わる貴重な工芸品として新しい需要先を模索しているところだと思います。

一方、国武喜次郎らが活躍して、「久留米商人が歩いた後には雑草(くさ)も生えない」と悪口を言われた、商業都市の主人たちはどうなったのでしょう。
これまた昭和30年ころまでの通町は賑やかでした。特に歳末や盆前などは、地方から仕入れに来る「素人さん」たちでごった返していたものです。
自動車や衣類販売の流通や運輸システムの変化で、小売店が仕入れのためにわざわざ街に出てくる必要もなくなってしまったのでしょうか。

明治10年の西南戦争から明治27年(1894)の日清戦争を経て、久留米には陸軍48連隊−自衛隊が常駐するようになりました。昭和の初期までは、「お客さんは兵隊さん」の時代がずっと続いていたといいます。

ある人は、「今の時代に、過去を振り返る余裕もないし意味もない」として、商業都市久留米と木綿産業の歴史認識を否定します。
もし現代が時代の変化に追いつかないことがあるとするならば、今こそ、井上伝や小川トク、それに国武喜次郎や本村庄平の足跡を手繰ってみることも大切かもしれません。

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