【09年04月05日】
久留米商業高校同窓会東京支部
機関紙「斗南の翼」への投稿
母校の久留米商業高校同窓会東京支部から、機関紙「斗南の翼09年4月1日号」に「久留米商人」についての原稿依頼を受けました。 歴史をどのくらい遡ればよいのか迷いましたが、城下町から商都と呼ばれるようになった明治維新に照準を定めることにしました。となるとまず浮かぶのが、今回テーマにした倉田雲平翁(故人)です。 ご期待に添えたかどうか、ご批判をお待ちしています。 |
【久留米商人魂】 古賀 勝(59回生) 城下町だった久留米は、1968年の明治維新とともに商業都市に生まれ変りました。その時躍り出た商人の卵たちが、やがて久留米絣と久留米つつじを世に送り出し、ゴム産業を世界市場へと押し上げていく原動力になるのです。久留米絣の国武喜次郎や本村庄平らに加え、久留米つつじの赤司喜次郎(赤司広楽園)、そして足袋職人だった倉田雲平や仕立て職人の石橋徳次郎らがそうです。 中でも旧月星化成(現ムーンスター)の創業者である倉田雲平は、「足袋製造こそ我が天職」と心に決めて、米屋町で「槌屋足袋店」を開業しました。一人でお座敷足袋を作り、旅館の客や仲居さんなどに売り歩く商売です。その日に得た代金で次の材料を買い、夜鍋をしてまた足袋を作るといった自転車操業の毎日だったといいます。 雲平は、明治10年に勃発した西南戦争を「千載一遇のチャンス」ととらえました。僅か従業員数名の足袋店が、軍用被服(足袋2万足・シャツ1万枚・ズボン下1万枚)の大量注文を引き受けたのです。 ミシンすらない時代で、土台無理な話なのですが、博多商人などに頼み込んで職人と材料を調達し、見事に期限内に納品しました。 そこで「もう一儲け」と欲張ったことが、すべての財産を無にしてしまう結果となりました。彼はその時の苦い経験を「走るものはつまずきやすく、…進めたる足は堅く踏みしめよ」の教訓を残して、後々の「月星」の社業の発展に生かしたといいます。 その後の雲平は、本業の足袋製造に心血を注ぐことになります。 彼の商人としての偉さは、世の中を先読みすることでした。全国的にも最速のドイツ製ミシンの導入により、本格的な大量生産に突入します。明治42年、白山町の広大な敷地に工場を建設したことが、現在に至っているのです。 雲平の二男で初期の久留米商業に学んだ倉田泰蔵(明治37年卒)は、父親の経営に参加するや、店を会社組織に改め、それまでの大福帳から複式簿記に切り替えるなど大胆な経営管理を断行しました。 倉田泰蔵と同時期に台頭する石橋正二郎もまた、久留米商業卒業(明治39年)後に父徳次郎の後を継ぎます。足袋の価格の均一化や地下足袋の考案などで会社を爆発的に発展させ、今日のブリヂストンタイヤの基礎を固めていったのです。 我が母校久留米商業は、倉田泰蔵や石橋正二郎両先輩に代表される、明治維新後の久留米商人を育成するために創設された学校だったのです。(敬称略) |