久留米商工会議所女性会講演
日時:2007年3月6日 午後3時30分〜同4時30分
場所:久留米商工会議所会議室
受講者:久留米商工会議所女性会会員

タイトル:商都久留米を築いた女性二人
井上伝小川トク

 



左:

小川トク(写真)

両人を中心とした、綿布産業の草創期

井上伝女(江戸時代の久留米商業)

お配りしている「井上伝(絣)&小川トク(縞)年表」とポストカードをご用意ください。久留米絣を編み出した井上伝と、久留米縞を久留米地方の特産品にまで高めた小川トクの生きた時代が一目でお分かりいただけるはずです。

まず、先に生まれた井上伝の方から見ていきましょう。

 

幼年期

井上伝は、明治維新から遡ること丁度80年前の天明8(1788)年に、久留米の通外町で生まれています。家は米屋で、父親の名前は平山源蔵といいました。

天明8年頃は、浅間山が大噴火を起こし、「天明の飢饉」で日本国中が疲れきっているときです。

お伝の母親の名前は不明です。他に兄と弟か妹がいますが、兄は成長して出家(僧名:大量)したため、途中から伝とのからみが消えてしまいます。弟か妹については、その子の名前(忠作)はあるものの、肝心の親の名前がはっきりしません。

生まれた家は、五穀神社の参道(写真)にあって、昭和30年代まで保存されていたようですが、現在は面影も消えてしまいました。

実家の店は、米穀商といっても細々としたもので、一家の生活も楽ではありませんでした。そこで、家族(母・祖母?)などが、白木綿や縞を織りながら、家計を助けていたのです。

お伝の遊び場は五穀神社の境内で、その後の彼女の暮らしと切っても切れない因縁の場所になってしまいました。

 

少女期(かすり創始)

お伝が機織りを覚えたのは、6歳か7歳の頃です。おそらく祖母あたりが指南役であったろうと思われます。従って、12歳にして久留米かすりの原型を編み出す環境をつくりだしたのも、祖母あたりではないかと推測しています。

ある時、自分の着ている古着に残る染料(藍)のブツブツ模様を見て、閃きを覚えます。布を解いて糸の状態にし、その糸をモデルにして、新しい糸に染めない部分を別の糸で括って藍汁に浸します。(この時、紺屋の佐助が援助しているようです)

染まった斑模様の糸を織り立てると、(あられ)模様が浮かび上がりました。久留米がすりの誕生の瞬間です。

収めていた機屋(問屋)に試作品を持ち込み、それが久留米市中の評判を呼ぶことになるのです。

問屋はより大量のかすりを生産する必要に迫られ、お伝を先生役にして、多くの娘に絣織りをさせました。

これが、井上伝の「かすり教授」の最初だったのです。

 

娘時代

お伝が編み出したかすりには、「加寿利」という漢字をあてて

、それを商標としました。

娘時代は、苦しい家計を助けるために、問屋での仕事に明け暮れていました。

しかし、店のほうは好転しなかったようで、お伝は京ノ隈の武家屋敷に3年の年季奉公に上がることになりました。(松田平蔵邸)

年季奉公と絣織りでどちらが収入がよいのか疑問がわきます。おそらく、「お伝の加寿利」の販売権を問屋に渡し、親の借金の肩代わりを願い出たのではないかと推測されます。

年季奉公の19歳から21歳までは、機織りから離れていましたが、時々は、問屋での教授はやっていたかもしれません。

 

結婚後

21歳で年季が明けると、すぐに結婚しています。相手は原古賀(はらんこが)で織屋を営む井上次八です。

水を得た魚は、「筑後 原古賀 織屋 おでん」の看板を掲げ、12歳「時に開発した加寿利織りに精を出します。この間に何人かの弟子兼織り子を雇っていたようです。

この時期、お伝はかすりの模様を一歩進めて、絵柄や文字を取り入れようと工夫しました。

そこで登場するのが、通町十丁目のべっ甲細工屋の息子の儀右衛門です。(幼名は岩次郎 父田中弥右衛門の名を引き継いで儀右衛門 成人して田中久重)

お伝は、五穀神社でからくり人形を披露する15歳も年下の儀右衛門に、複数の杼を用いずに多彩な絵がすりを織る器械を注文します。頼まれた儀右衛門は、「板面に絵模様を彫刻し、その上に糸を貼り、もう1枚を挟んでかたく縛ると、染料に浸して彫りこまれた凹部は染まり、凸部で押し付けられたところは染まらない。板締め技法」を考案して、お伝に提供した。

彼女の絵がすり織りの、それがスタートだと言われています。

 

かすりの進化(大塚太蔵と牛島ノシらの挑戦)

絵がすりに目途がたちかけたその時、夫次八が急逝したため荒波に放り出されます。

お伝は、3人の幼子を連れて実家近くの通外町に引っ越しました。29歳の時です。機屋や問屋の援けを借りながら、彼女は生活のために働きます。その内に3棟の作業場兼かすり教室を持つまでになり、弟子の数も400人を超えたのが42歳の頃でした。

一方、お伝の絵がすりに満足しない後輩らが、苦労しながら新しい技法の開発に精を出すようになりました。

その一人が侍の身分(足軽)を投げ捨てて織物の世界に入った大塚太蔵(おおつかたぞう)です。彼は、江戸で見聞した、縦横に彩色を駆使する友禅などに刺激され、絣織りに応用できないものかと追求しました。そして、妹スエの協力を得て、「太蔵のえがすり」を完成させたのです。

見事な絵柄と文字入りは、久留米や遠くは赤間の太夫などからまで注文が相次いだといわれます。

次に国武村の牛島ノシが、煤煙でくすんだ(はり)から支え竹がはずされると、くすんだ中に編み菰を括っている縄の跡が細かい筋目まではっきり浮かび上がっているのを見て、「小がすり」を考え出しました。

お伝のかすりは、彼女の弟子や孫弟子などによって、飛躍的に進化していきます。

 

晩年期

お伝は、57歳で初孫の宮参り用晴着「四つ目」を織り、69歳で、巡業中の相撲取りの長半纏などを織った記録はありますが、晩年はむしろ、後継者の育成に力を注いだようです。

上野町や山隈村などへの出前教授などもこなしていますし、死ぬ直前まで、かすり織りの普及に尽くしました。

時はまさに、徳川幕府終焉の時期と重なります。久留米藩の財政事情を助けるために働きづめだったのに、最も信仰する五穀神社内の神宮寺(円通寺)をお上によって解体されるさまを見ながら、82歳の人生に幕を引いたのでした。

 

小川トク(明治期の久留米の商業)

次に、小川トクの生涯を紹介します。彼女が生まれた武蔵国宮ヶ谷塔村(現さいたま市見沼区)は、東武野田線の岩槻駅近くで、境に綾瀬川が流れています。

江戸時代、大消費地である江戸に向けて、生家近くの川辺から、衣食住すべての物資が小舟に乗せられて運び出されました。

そんな地域事情もあって、この地方では木綿織が盛んで、新技術や流通などが次々に生み出されました。

 

年期

トクは、井上伝が52歳の時に武蔵国宮ヶ谷塔村(現さいたま市見沼区)の農家に生まれました。家は比較的裕福でしたが、トクが物心つくとすぐに両親が亡くなっています。祖父母に育てられたトクは、一人娘ということもあって、我がままであったようです。

ひょんなことから、木綿織り(縞織り)の魅力に取り付かれたトクは、祖母がしまっていた機を出してもらい、夢中になって織りました。

 

少女期

19歳で養子を迎えて結婚。男の子を儲けますが、婿の遊び癖が激しさを増し、嫌気がさします。トクは、長男栄三郎を連れて江戸に出ることを決意しました。

待ち伏せしていた祖父に子供を剥ぎ取られ、彼女は中山道を8里半、単身江戸に向かって旅たちました。万延元年、22歳のときでした。

 

江戸屋敷

江戸に出たトクは、口入屋の紹介で久留米藩江戸屋敷の中級武士・戸田覚左衛門宅に女中奉公に上がります。

時は幕末の大混乱期にありました。すぐ近くの江戸城では、桜田門外の変や坂下門外の変。京都では寺田屋事件など、討幕派と佐幕派が激しく戦っている最中だったのです。

また、江戸屋敷内での出来事や人との出会いを含め、内外で見聞したことは、その後のトクの生き方を肉付けしていくことになります。
つまり、女で一つで商売を張る際、対極的に状況を把握する知恵が、身についていたのだと
思われるのです。写真は、新廓界隈

徳川慶喜の大政奉還(慶応3年)を受けて、久留米藩では江戸屋敷の閉鎖が決まり、勤務する武士と家族が、大挙して国許久留米に帰還することになります。

行き場を持たないトクは、戸田家の家族とともに見知らぬ他国の久留米に向かいました。

 

機屋開業期

久留米の新廓に着いてまず目にしたのは、井上伝の作業場とそこで織られるかすりでした。彼女の脳裏には、他国での生活をどうするかということばかりが占めていた筈です。左写真は、イザリ機

手っ取り早い食い扶持は、娘時代に覚えた機織りです。でも8年間のブランクは不安の種だし、第一肝心の機がありません。

井上伝の作業場で見た「居座リ機」は、もっとも幼稚な器械です。しかも、故郷で織っていたのは「縞」であり、かすり織りはまったく未知の世界なのです。

トクはまず、記憶を辿って宮ヶ谷塔での器械の再現に立ち向かいます。鉄砲町の亀大工や十丁目の田中久重(からくり儀右衛門)などの知恵と本村庄兵衛らの援助を受けながら、長機の作成に成功し、かすりでは叶わない縞の魅力の創製に尽くしました。写真は、埼玉の長機(蕨資料館)

トクの久留米上陸は、まさしく時代の変り目にあり、文明開化の花咲くときでもありました。

 

機械化・流通との葛藤

原古賀や三本松を中心にした久留米の街は、一気に春が来たような賑わいをみせました。倉田雲平(月星化成創立者)や石橋徳次郎(日本ゴム創立者)、宗野末吉(宗野時計店創立者)や国武喜次郎(明治の絣王)など、幕末から満を持していた商人たちが一気に躍り出るのです。

一夜にして、城下町が商人の町に変貌を遂げる瞬間が、小川トクが久留米に定着して「久留米縞」を世に送り出すその時と完全に一致するのです。

でも、倉田や石橋、国武らの急激な生産体勢の強化についていけないトクは取り残され、やがて一人暮らしが始まって、望郷の念を膨らませます。

 

望郷

白山で一人暮らしにはいっても、トクは縞織りをやめませんでした。組合の分裂などで年金も入らなくなり、手持ちの金もなくなって、寂しい晩年を過ごしているところに、ふるさと宮ヶ谷塔の息子から迎えが来ました。

数千人にも及ぶ弟子たちが、恩師のために餞別を集めたということです。
「これで、ふるさとの孫や曾孫にみやげを買って帰れます。こんな惨めな年寄りですが、お国(久留米)のお金を一文たりとも持ち出さない私を、金にきれいな女だと、自分で自分を誉めているのです」という言葉を残して、久留米をあとにしました。

二人の業績と今後の課題

もちろん、久留米の商業史は伝とトクの二人だけで築いたものではありません。しかし、男尊女卑の思想が特に強かった筑後の地で、両名の活躍は、商業分野だけに留まらず、長く記憶に留めておかなければならないと思います。

明治から大正、昭和へと時代は移り、人々の価値観も暮らしのありようも大きく変わってしまいました。久留米の街も、かつての通町や本町界隈の賑わいを見ることはできません。写真は、最近の久留米通町

でも、どっこい久留米絣は生きています。「日本三大かすり」と言われた「伊豫」や「備後」では、いまや伝統芸能の範囲で僅かに残っているだけだと聞きます。

かすりなどの歴史を紐解く中で、皆さんとともに、これからの久留米のあり様を考えていきたいものです。

目次へ    表紙へ