かすりの小径ウォーク
講演会原稿
日時:2006年11月23日(木曜日)
場所:久留米市寺町 千栄禅寺
主催:くるめかすりファン倶楽部「かすりすと」運営委員会
講師:古賀 勝
お伝さんとくるめ商人の足跡をたどる
自己紹介
最初にお断りいたしますが、私は学者でも評論家でもありません。ただのサラリーマン上がりの、物好きな老人だと思ってください。
従って、これからお話しすることは、正確無比な学術論文でもなけれ歴史でもありません。諸先生方が苦労してまとめられた研究結果をつまみ食いしながら、お話しとしてまとめるものです。
寺町と通外町
本日は、素晴らしい企画に参加させてもらって光栄です。主催者の皆さまにお礼を申し上げます。
参加された皆さまが歩かれる寺町と通町について、演題と関わるところだけ掻い摘んでお話しします。
ここ寺町には、お伝さんが眠る徳雲寺の墓地があります。
南隣の誓行寺(浄土真宗東本願寺派)は、かつてお伝さんの実家である平山家の菩提寺だったと記録されています。137年前の明治2年に亡くなったお伝さんは、原古賀の井上家ではなく、甥の平山忠作さんによって、野中町にあった誓行寺の墓地(現在場所不明)に葬られていたそうです。
その後明治31年に、孫のトモさんの嫁ぎ先の菩提寺・徳雲寺に改葬されたと聞きました。その時改葬を手伝ったのが、久留米絣同業組合でした。
今回のウォークコースからははずれますが、お伝さんと最も縁深い場所は、西鉄電車を挟んで東側の通外町と五穀神社です。
通外町はお伝さんが生れ育ち、かすり模様を編み出した歴史的場所です。その後お伝さんは原古賀の井上家に嫁ぎますが、未亡人になって再び変実家近くに舞い戻り、そこで生涯を送ることになるのです。
五穀神社は、お伝さんが幼い頃の遊び場であり、信仰の場所でもありました。晩年には、五穀神社の神宮寺である円通寺に通い、心の支えとしています。
お伝さんのかすりを語るとき忘れられない人物がからくり儀右衛門(本名:田中久重、幼名:岩次郎)です。彼もまた、通外町と背中合わせの通町十丁目(現在に私鉄電車高架下)の住人でありました。時間があったら、是非五穀神社を散策されたらいかがでしょうか。
ウォーキングの目的地の一つ、通町の赤レンガ倉庫は、明治初期に久留米絣の販路を全国に広げた国武喜次郎の発信基地です。
こんな立派なイベントが、やがて全国から注目されるように知られるようになったらいいですね。
お伝の一生
ここ千栄寺から北に数百メートル進むと、「森嘉膳屋敷跡」が見えます。そこは、明治維新から遡ること75年前に、高山彦九郎が自刃したところです。彦九郎の遺体はその後、お隣の遍照院に葬られて今日に至っています。
高山彦九郎が自殺した時、井上伝の年齢は満5歳です。天下に知られた尊王主義者が身近で切腹自殺を図ったわけですから、すぐ近くに住む平山家で話題に上らないわけはないでしょう。
高山の死を契機にして、日本は倒幕運動は燎原の火の如く燃え盛り、80年後に徳川幕府の終焉を迎えるのです。そしてその時お伝さんは傘寿を迎えていました。お伝さんは五穀神社境内に建つ円通寺に、朝晩お参りすることを日課としていました。
「どうせ死ぬなら、暑からず寒からずの梅雨前に逝きたいものだ」が口癖だったそうです。
徳川幕府から権力を受け継いだ明治政府は、古い慣習をぶち壊すという名目で、明治2年に五穀神社内の円通寺も取り潰ぶしました。
お伝さんが、その時どんな気持ちだったか計り知れませんが、直後の太陽暦換算で6月6日に息を引き取っています。彼女の願いどおり「暑からず寒からず」の初夏でありました。
お伝さんが考案した久留米かすりは、その後幕末という時代の荒波に揉まれながら改良を重ね、徳川幕府の倒壊と井上伝さんの命の尽きる時がほぼ同時だったことに、運命のようなものを感じます。
誕生の頃の久留米藩
お伝さんが生まれた頃、久留米藩の財政は破産状態にありました。
関ヶ原以降、久留米藩主の座に着いた田中吉政や歴代有馬氏の、米を中心とした増産(増税)政策も限界に達していたのです。久留米藩は、更なる増税を課すために、農民・町民に徹底した倹約と米以外の産物の掘り起こしを命じました。
この時の倹約令の一つ、 「衣類の義、身の上相応の衣装これを着すべし。分限(身分・金持ち)に広ぜざる衣類着致すにおいては過料を出すべし。下々、絹布の類かたくこれを停止す。違反せしむる者は即時に曲事(くせごと=違法の処分・処罰)たるべき事」という内容でした。
この布令以降明治維新まで、久留米の町から絹や紬などが消えたのです。
この時出された倹約令の中で特に注目すべきことは、「芸事と興行の禁止」です。三味線や踊りなど遊芸の稽古は一切やめ、芝居・相撲・軽業などの興行も禁止すること。
それまでの久留米の祇園祭は、町を挙げた盛大なものでした。五穀神社も、農耕・商売繁盛などのご利益を祈願して、「御繁盛祭」で大変賑わったそうです。
一方で打ち出された殖産政策では、櫨−蝋、砂糖きび−製糖、藍草・玉藍、大川家具、和傘、楮−和紙、藺草(いぐさ)−茣蓙(ござ)、など第2次産業の増産でした。
筑後地方ではこの時期、綿花や藍草はよく栽培されていました。(いずれも、今日の綿花・藍草とは違う)
お伝さんの機織りに影響を及ぼす縞織りや白木綿なども、こんなこともあって盛んになったものでしょう。
お伝さんの家系と取り巻く人物像
お伝さんの家系は、最低両親と兄、弟か妹・或いは両方各一人が存在しています。後に兄は出家し、伝が嫁いだ後弟か妹が家を継いでいるようです。
お伝さんが生まれたのは、明治維新から遡ること81年前です。生まれた場所は、通外町の参道筋でした。五穀神社の境内は、活発な娘にとってよき遊び場だったでしょう。また、久留米藩仕立ての「御繁盛」祭りは、彼女のふるさと意識をより高めたに違いありません。
お伝さんが古着を解いて糸についた斑模様から久留米かすりの原型を考え出したことは、全国的によく知られていることです。
当時「絣」の漢字は使っていません。ひらがな(又はカタカナ)で「かすり」、「掠」、「飛白」が一般的で、お伝さんが考案した後固有名詞的に「加寿利」の文字が使われました。
彼女はこの時12歳か13歳です。母か祖母の真似をして、気がついたときには既に機の前に座っていたといいます。縞や白木綿を織り、次第に腕をあげていたのです。研究熱心な娘に、染物屋(紺屋佐助)や出入りの機屋(松屋)がアドバイスをして、紺地に掠れ模様の布地を織り出しました。
これが霰だ霜降り模様だと持上げて、「阿伝加寿利」の商品名までつけたのは、資金力豊富な木綿布問屋であったろうと推測できます。
阿伝加寿利はたちまち久留米城下の話題をさらい、問屋としては大量生産の必要に迫られました。そこで、領内在方(田舎)から、20人ほどの娘を集めて、お伝を師匠にしてかすりを織らせることにしたのです。お伝の弟子養成のこれが出発点でした。
師匠兼織り子の仕事が数年続いたところで、お伝は京ノ隈の松田平蔵なる武家に年季奉公に上がります。松田家で機織りをしたという跡はまったく見えず、純粋に女中奉公だったと思われます。
おそらく、実家の米屋が負った借金の肩代わりしてもらった見返りではなかったのでしょうか。その間、お伝の弟子たちは、機屋の織り子として阿伝加寿利を織り続けています。
結婚・織屋の女将
3年の年季奉公が終わると、お伝は21歳で原古賀の井上次八と結婚します。夫が死亡するまでの8年間で、息子2人と娘一人を儲けました。
結婚後夫婦はお伝の名声を活かすべく、店の商標を「筑後・久留米原古賀・織屋おでん」とし、堂々と「大極上御誂」としたのです。商売は上々で、客にも泥棒にも好かれて、往生したそうです。ここでもお伝は、数人の娘を弟子兼織り子として働かせています。
この時期のかすりは「飛白(ひはく)」と呼ばれるもので、模様がすべて同じ柄でした。15歳年下のからくり儀右衛門(岩次郎)に依頼して、板締め技法での絵がすり器械を作ってもらいました。お伝26歳、儀右衛門15歳でした。
9代目有馬頼徳の時代は、僅かながら倹約令も緩んでいます。江戸屋敷に水天宮を分祀したり、五穀神社に茶店や能舞台を造ったり、風流大名と言われました。
未亡人の機屋稼業(織屋の工場化)
夫次八が死んで、3人の子供とともに取り残されたお伝は、実家近くに引越して再起を図ります。この頃勢いを増していた機屋の本村庄兵衛(屋号松屋)がお伝の後ろ盾になっていました。おそらく庄兵衛あたりだろうと推測するのですが、お伝は引越し先に3棟の作業場兼教練場を造って、50人の弟子を迎え入れました。
庄兵衛自らも、織り工場を立ち上げて、お伝を教師にした量産体制に入ります。
そんなこともあってのことでしょうが、お城からは新生児の若君(後の10代目頼永)の乳付を依頼されています。数十人の娘を教育するお伝を見込んで、乳の出る女をさがしたのでしょう。
お伝さんは、城にも顔の利く織屋として、社会的地位を兼ね備えた女性になっていたということです。
この頃お伝は、何人かの友だちと金毘羅さん詣りに出かけています。そこで出会った伊豫の国(愛媛県今治地方)の鍵屋カナが、久留米かすりを真似て伊豫かすりを開発するのです。
後進の急追
40歳から50歳台にかけて、お伝の機織り稼業の重点は、弟子養成に大きく傾きます。そのきっかけになったのが娘イトの成長であり、大塚太蔵と牛島ノシの台頭でした。
イトは養子をとって、お伝の後継者としての自覚を高め、技術も母親を越える勢いにありました。
お伝が52歳時に、大塚太蔵が妹スエと共同で画期的な絵がすり技法を編み出します。彼の理想は、江戸で見た友禅のように、自由自在に絵や文字を描くことでした。
これまでの織り方とは逆の発想で、藍地に白の模様を浮き立たせることができないだろうか。そのために、まず絵を載せる台に原糸数百条を並べる。その糸に絵を描き、その後に台を取りはずす。墨の付いた部分をほかの白糸で硬く括り、藍汁に浸す。染め上がったところで括り糸を解き、機にのせて織ってみた。
太蔵が開発した絵がすりは、高良山の祭りにあわせて売り出され、大変な評判を得ました。そのことを知った久留米の芸者衆や赤間が関の太夫からまで、名前入りの生地の注文があいついだのです。
一方、稲富村のノシは、花宗川を挟んだ国武村の牛島太七と結婚して、その才能を開花させます。貧農の牛島家を豊かにするために織ったノシのかすりは評判を呼びました。しかし彼女はそれだけでは満足せず、より鮮明な柄模様と生産の合理化を追求しました。そこで完成したのが「国武かすり」といわれる小がすりです。また、一人がひと月に織る数を2倍の8反に伸ばしたことから、福島地方では「八反屋」と呼ばれるようになっています。
娘イト、大塚太蔵、牛島ノシの3人は、それぞれ越えるべき目標をお伝の技術と絵がすりの到達点に置いていたと考えます。目の前の目標物があって、久留米地方の絵がすりは、他を寄せ付けない高水準に到達していったのです。
受けて立つお伝は、自分の思考能力の衰えを自覚せざるを得なかったのではないでしょうか。
老いの自覚
お伝が50歳を越えてくると、目や足腰の衰えを自覚するようになります。この頃には、機織りを娘や孫に任せて、専ら後進の指導に当たっていました。
それでも、最後の力を振り絞ったのが、横綱の四股名入り羽織(大幅)でした。
反物の場合、幅は普通1尺(鯨尺1尺=37.9a)である。その幅を1尺2寸(45.5a)にしなければ、お相撲さんの着物としては仕立てられない。
久留米巡業中の江戸相撲力士(小野川喜三郎・大関伊達の森)の飛鳥と名前入りの羽織生地を依頼されます。3日間の期限付きで、1尺2寸の大幅かすりを、器械を改造して仕上げます。これが江戸の力士仲間で評判になったことは言うに及ばずです。
また、初の男孫の宮参り用晴着を、娘の手を借りずに仕上げました。お伝、生涯最後の機織りでした。「四つ目」といわれる模様です。
その後、上野町(大善寺)の有志と山隈村(小郡市)の庄屋から出張教授を依頼され、孫トモと2人長期泊り込みで応えています。そんな努力が稔って、筑後一円の農家での機織りが盛んになるのです。
言い換えれば、自分の着る物は自分で織って仕立てる、久留米藩の倹約令と軌道を一にしたお伝の機織り伝授の行脚だったといえましょう。
明治維新とお伝の死
お伝の晩年は、そのまま徳川幕府の終焉の刻を意味します。長崎や浦賀に次々に外国の艦船が入り、日本の開国を迫ります。幕府も右往左往なら久留米藩はそれ以上の混乱でした。
いったん緩みかけた倹約令を再び引き締めにかかります。
沿岸警備のために膨大な軍事予算を計上しなければならず、11代藩主頼咸に押し付けられた精姫との婚儀に4万ドルもの経費を要したことなど、財政はまさしく破綻寸前にまで陥っていました。
これまで百姓と町民に限られていた木綿着用は、藩士はもちろん、大名までもが着用したといいます。また、これまで主に在方の農家でなされていた機織りが、武家にまでいたりました。晩年のお伝にとって、それは忙しい限りです。
江戸屋敷を閉鎖するために、大勢引き上げることになりました。その中に、久留米縞を世に出す小川トクが加わっていたのです。
お伝の寿命も後がなくなっていました。彼女の心の支えだった五穀神社の神宮寺である円通寺が廃寺になる明治2年、太陽暦に換算して6月6日に、82歳の生涯を閉じました。
満を持して明治維新後に飛び出した商人
お伝が円通寺とともにこの世から消える前後、維新後の久留米の商業を築く人材が、粛々と出番の準備を整えていました。
まず倉田雲平。雲平は維新の時18歳である。槌屋の継承者である父が早死にして女手一つで兄妹を育て、寺子屋まで通わせている。指物の修行をしてお城御用達まで勤めたが、展望が持てずに長崎の足袋屋に弟子入り。
派手な商法で西南戦争時に大儲け(厚底の足袋2万足・シャツとズボン下を各1万枚を20日以内に納品)するが、欲張りすぎてスッテンテン。
走るものは躓きやすい、爪立つものは倒れやすい。商売も人生も一歩一歩踏みしめながら先に進まなければならない。
小川トク。武蔵国から流れてきたトクは、久留米地方の機織り技術の低さを嘆き、記憶を基に器械を復元します。また、投げ杼と呼ばれる方法で、一挙に生産をたかめました。
トクが織ったものは、安くて小奇麗なことをモットーに、縞織でした。小川トクは、久留米絣と並ぶ久留米縞を確立したのです。
宗野末吉。有馬頼咸お気に入りの大工。器用さを見込まれて江戸に随行。横浜に出て西洋時計師に弟子入り。維新時に25歳。明治6年の太陽暦採用で、ご当地第1号の時計屋になる。
彼もまた、西南戦争を見込んで海中時計を大量に仕入れ、博多港から久留米まで警察の護衛付で品物を運搬したことは有名。
国武喜次郎。維新時22歳。魚の「魚喜」を継いだが、17歳でかすりの行商人に。その後、職人や織り子を雇って、西南戦争での商売に打って出る。赤レンガ倉庫に何杯分もの物資(木綿・足袋・草鞋・梅干・らっきょう・油紙まで買いあさり、終戦を確認して熊本の焼け跡で売りまくった。市民は家は焼かれても金はしっかり確保していたのです。
石橋徳次郎。維新時10歳。(旧姓竜頭)明治6年、苧扱川の嶋屋緒方安平に商売見習い。後に「志まや足袋店」の始まりです。
中島屋武助。維新時20歳。一丁目で古着商。千歳丸を借りて北前船よろしく全国の港で商売。資本金2万両で「北海商社」を設立。
野村正助。九州で2番目の鉛活字印刷所を開業。青年時代は江戸に遊学し、その後長崎を経て活字印刷の出番を待っていた。場所は白山町。
赤司喜次郎。明治20年以降、花卉のカタログ販売を手がけている。
久留米とかすりと西南戦争
明治2年の版籍奉還を経て久留米の町が一変し、西洋文化が花盛りとなった頃。自由化された久留米絣の生産高はむしろ減少しました。
明治6年の久留米市街の戸数:3920戸。人口:20682人。
そんな時、販路拡大のために積極的に出たのが、国武喜次郎・本村庄平・岡茂平らです。
国武は、明治5年には、販路を京都や大阪の太物最大手問屋への売り込みに成功しています。
久留米の町は、東西に連なる通町筋と南北に走る原古賀町(のち苧扱川・現本町)通りがつくるカギ形の通りがもっとも賑やかで、その接点が三本松町であった。
開放感で、五穀神社で大相撲・三本松では大阪歌舞伎・十軒屋敷山王社(日吉神社)では冠木(かぶき)浄瑠璃などの興行がかかった。
店も西洋文化が花盛りとなり、料理店や遊戯店が建ち並びました。
しかし、268年間続いた幕府の体制が変わるのに、容易くはありませんでした。戊辰戦争は会津の悲惨な最期と函館五稜郭の陥落のあと、わが久留米近辺でも血を流す内戦が続きます。秋月の乱・佐賀の乱を経て明治10年の西南戦争へ。久留米は後方兵站基地として軍需品の集積所・軍隊の集合所・負傷兵と戦死者の処置所など重要な役割を担わされるのです。
倉田雲平・国武喜次郎・宗野末吉らの兵隊や軍属を見込んだ商売は、明暗を分けながらも、戦後の久留米商人の形成につながっていきました。
官軍の勝利で、帰還兵のみやげ物商売で久留米の町は大賑わいとなった。それがまた粗悪品の販売ということで、久留米の織物業界は、全国から爪弾きにあう。
戦争戻りに久留米でかすりを買うたれば、紅殻染めとは露知らず、男なりゃこそ騙された。
そんなことがあって、「久留米商人が通った後には雑草も生えぬ」の名文句が生まれたのかもしれません。
西南戦争から日清戦争へ、さらに日露戦争へと戦争が続くたびに久留米の基地としての重要性は増し、やがて陸軍のとして恒久基地定着していきます。今日に及ぶ、基地と商業の共同の始まりである。
信用を失墜した久留米絣は、その後本村庄平や国武喜次郎らの努力で回復しました。
その間に、織機も次々に自動化され、生産高も昭和の初めには年間生産高を22万反と記録するにいたったのです。
テーマについて
近世以降において、久留米の商業を担ってきたのは、木綿布であり久留米絣です。そして、久留米絣を最初に考え出したのが、久留米城下の娘・井上伝でした。
久留米のかすりを考案した井上伝とは、どんな人物だったのか。彼女にはどんな人物がからんで、今日の久留米絣ができあがったのか、検証してみたいと思います。
私が高校時代、久留米商人が歩いた跡には雑草も生えないという話を聞かされました。はっきり言って、それが褒めことばなのか批判めいたことなのかよくわかりませんでした。どうやら久留米をこよなく愛する者にとって、誇れる言葉ではなさそうなことがさいきんになってわかったような気がします。しかし、それも郷土歴史を知る上で避けたら次への発展には繋がらないものだと考えています。
久留米の人間は、昔からよく倹約型だとも言われます。言いかえればけちん坊ということにもなるのでしょうか。そう言えば、久留米では皆んなで金と時間を出しあって、心を一つにできるような、100年以上も続いた伝統的な祭りや郷土芸能が見当たりません。
何故か、それも倹約とかケチとかいうことと関係があるのでしょうか。
絣とは・・・
かすりは、糸染め・平織りという技法による木綿布です。糸の一部を染めたり、別の糸で括って染まらないようにして織り上げたものです。
漢字で書く「絣」は、江戸時代末期から明治初期にかけて初めて使われたものです。それまでは、単に「かすり」だったり「飛白」と書いたりしていました。木綿布上に掠れたような模様を描き出すことからつけられた名前だそうです。
案外久留米周辺の人は、かすりといえば「イコール久留米絣」と考えているかもしれません。また、かすりは久留米の井上伝が発明したものと信じ込んでいる人も少なくないはずです。
とんでもないことです。インドでは紀元前よりかすりが織られているし、琉球では室町時代初期に芭蕉布でかすりが織られています。薩摩(薩摩かすり)を経由して全国あちこちに伝わったのが、お伝さんが誕生する50年も前のことなのです。
つまり、お伝さんが生まれたころには、全国的にかすりの生産が始まっていたわけです。それでも「久留米絣は特別」という意味もあります。お伝さんが古着を解いて、染め汁の斑模様に興味を持ち、かすり模様を編み出す経過は、誰の真似でもなかったからです。
古着を解いた糸につく斑模様に倣って、白糸をところどころ別の糸で括って藍で染め、括り糸を解いて経糸・緯糸に遣い、紺地の布面に霜とか雪が降ったように織り上げる技法は、久留米かすりの独特の技法なのです。
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