講演原稿
久留米の商人
主催:久留米法人会
開催日時:2018年10月24日
会場:久留米ニュープラザ
受講者:約30名
1. 挨拶 私は、昭和32年に久留米商業高校を卒業したもので、生まれも育ちも久留米です。久留米の第一線で活躍される皆さんの前で「久留米の商人」を語るとは、恥知らずもよかとこだと自覚しております。 2. 城下町から商業都市へ 久留米の町は、明治維新を挟んで、城下町から商業都市へと一気に変身しました。 江戸時代、武士に従属する形で生きてきた町民は、維新を境にして立場を逆転させていったのです。 通町と柳川街道を繋ぐT字型の大通りが、商人の住む(営業する)町です。お武家さまに遠慮しながら商いをしていた町民の気持ちがよく分かります。 通町を過ぎると五穀神社がある通外町に出ます。ここには、発明家の田中(からくり)儀右ヱ門や久留米絣を考案した井上伝などが住んでいました。「通町」の名称は、東に聳える高良大社にお参りする際に、藩主が通るための道だということです。 久留米の城下は、お城から南東に向かって末広がり的に開けていきました。 3. 維新期の商人と国武喜次郎 「久留米商人が歩いた後には、雑草(くさ)も生えない」という例えを聞いたことがあります。どのような意味でしょうか。本日お話しするテーマの中心です。 雑草も敬遠するような久留米商人の性格とは。明治10年勃発の西南戦争や、秀吉の時代から全国的に活躍した近江商人の陰と微妙に重なります。 「西南戦争」とは、明治10年に勃発した薩摩軍と新政府軍の史上最後の内戦のことです。政府軍は、江戸に向かう薩摩軍を、肥後から先には一歩も進ませないという態勢で臨んでいました。そこで、肥後の隣の「筑後」が、薩摩軍の進軍を阻止するための重要な平坦基地になったのです。筑後と久留米の住民は、否応なしに内線に向き合うことになります。 4. 西南戦争と久留米商人 西南戦争は、明治10年に勃発した新政府軍と西郷隆盛を頭とする薩摩軍の激しい内戦です。双方3万人の戦死者を出すという悲惨な戦いでした。官軍の兵隊は、新政府に徴兵された農民が中心です。それも、長男や大百姓の息子は除かれているのです。 一方薩摩軍は、西郷隆盛を師と仰ぐ少年兵を中心に組織された軍隊でした。熊本城に籠城する征西鎮台を薩軍が猛攻撃するところから西南戦争は始まりました。 一方久留米商人の多くは、西南戦争が金儲けをするのに千載一遇の機会ととらえていました。陸軍の要請を受けて、兵站基地となった明善堂に大量の物資を送り込みます。更に商人は、自らの商いに関わる商品を大量に仕入れて、軍や軍属に売りつけて利益を得たのです。 それでも飽き足らない商人は、戦争の長期化を見込んで、食料品や衣類など膨大な商品を熊本の鎮台(熊本城)周辺に送り込みました。 しかしこの内戦、予想より遙かに早く、半年で終結しました。全国から徴兵された圧倒的な官軍が、薩摩軍を短期間に追い詰めてしまったのです。 久留米商人は、戦争が終われば今度はお国に帰る兵隊に、お土産品を売りつけることを考えました。 倉田は、戦争の長期化を見込んで、大量に仕入れた物資を駄目にしてしまい、それまで積み上げた財産をパーにしてしまいました。 そして、国武喜次郎は・・・ 5. 近江商人と久留米商人 ここから、国武喜次郎を中心に、久留米の商人を詳しく見ていきます。 国武喜次郎とは、明治初期に通町5丁目を本拠として、日本全国を舞台に井上伝の久留米絣(くるめがすり)と小川トクが切り開いた久留米縞(くるめじま)を売りまくった男です。お配りしました、冊子「国武喜次郎伝」を参考にしてお聞きください。 国武喜次郎は、弘化4年=1847年に通町で産声を上げました。異国船が幕府に開国を迫っていた丁度その時期です。明治維新から遡ること21年前のことになります。国武は、二十歳前後の多感な時期に、日本の激動風景を目撃していたことになります。 国武が生まれた頃、井上伝が久留米絣を考案してから既に47年が経過していました。 彼が例えば30年前に生まれていたなら、或いは10年後にこの世に顔を出していたなら、社会の大変動を体験できなかったことになります。そうなれば、当然日本中を駆け巡る商人の姿はなく、久留米の町から外に出ていく術を知らない商人で終わっていたかもしれません。 国武は、15歳の時、親代々の魚の行商を止め、かすり販売業に転じています。 維新から遡ること4年前の元治元年。国武が17歳になる頃、井上傳が考案した久留米のかすりが、国(藩)の特産品に指定されました。また、漢字使用の「久留米絣」が世に出たのもこの年でした。 世の中が明治維新に向けてますます騒がしくなる江戸時代末期。久留米商人を取り巻く動きも盛んになっていきました。 明治維新前(江戸期)における城下の主な商家は、塩・味噌・櫨などに限られていました。 少年時代に久留米を出た田中(からくり)儀右ヱ門が、佐賀を経て久留米に戻ってき来たのは維新前後のことです。この年には、藩の重鎮・今井栄や時計屋の宗野末吉などが、新しい工業の波を知るべく、田中儀右ヱ門らと上海に渡航(密航)しています。 明治改元を直前にして、一人の織り姫が(小川トク)が久留米に降りたちました。(慶応4年6月) その翌年4月、井上伝が82歳で息を引き取りました。伝と小川トク両女史の、久留米における劇的な交代劇でした。 6. 明治初頭の久留米商人 明治5年(1872年)、江戸時代から延々と続いた久留米かすりの「藩統制」が撤廃されました。絹の着用禁止令も同時に解かれています。藩の独占的問屋であった福童屋(岡茂平)や井上伝のパートナーだった本村庄兵衛。国武喜次郎らにとっては、チャンス到来です。 翌明治6年になると、久留米商人の動きも一気に活発化しました。日本の暦が大陰暦から太陽暦に変更されたその年です。 山本平四郎が原古賀に牛・豚の販売、西洋料理店を開きます。横浜で牛鍋料理がブームになった同時期です。 宗野末吉が原古賀で西洋時計店を開きます。それまでの和時計の不便さが一気に解消されました。でも、陰暦の習慣の一部は、150年後の今日でも「旧正月」などたくさん残っています。 赤司喜次郎が広又に赤司広楽園を起こしました。その後に彼は、久留米つつじを売り出し、久留米つつじは世界的なブランドとして世に認められます。 倉田雲平(23)が、槌屋足袋店を開業しました。現ムーンスターのスタートです。 中村勝次が、当時は画期的だった写真館を呉服町に開業しました。徳川慶喜などが自慢そうに映っている顔写真と同時期です。 野村生助が、白山で活版印刷所を開業しました。西南戦争を伝える筑紫新聞(現西日本新聞)が創刊されたのが明治10年ですから、野村の起業はいかにも早いです。 石橋正二郎の父徳次郎が、嶋屋(緒方安平の)に商売の見習に入るのもこの年です。後に息子の重太郎と正二郎が大企業を興す素地は、徳次郎が立ちあげた志まや足袋店でしたから、久留米にとってこれまた歴史的な出来事でありました。 明治9年には、江戸から渡ってきた小川トクが、日吉町で機屋を開業して久留米縞を売り出しました。後に久留米絣と並んで久留米の一大特産品として貢献する第一歩です。 これらのできごとは、日本における最後の内戦と言われる、西南戦争勃発の前年までのことです。 7. 国武喜次郎と近江商人 明治維新の声を聴くと同時に走り出した国武喜次郎。彼の動きから察するに、多くの場面で近江商人の影響を受けていることがわかります。配布した「国武喜次郎伝」を参考にしてください。 江戸幕府開設の折り、城下町建設に貢献した近江・松坂・京都などの商人たちは、徳川幕府から特別待遇を受けました。例えば、商売の際全国通行手形の発行などです。 近江商人は、近江の国出身の商人のことで、中世以来行商人として諸国に進出しました。江戸時代に大いに発展し、江戸日本橋・大坂本町などに出店します。蚊帳・呉服・畳表・雑貨など扱いました。 織田信長・豊臣秀吉が城下町育成のために、安土などで商人に許した自由な商業。新規参入や 行商人なども活動しました。豊臣秀次(秀吉の甥)は、その流れをくんで、近江八幡を拠点とした自由な商業を進めました。楽市楽座などがそれです。 商家の家訓(三良しの精神) 売り手良し・買い手良し・世間もまた良し。 長生きと始末(倹約) 琵琶湖周辺を拠点とした、近江商人群。 八幡商人-五箇荘-日野商人-高島商人-湖東商人などが代表格。 地場(琵琶湖周辺)の素材を活かした商品の開発。 蚊帳 呉服 畳表 瓦 釣鐘 薬品 履物 海産物 雑貨など。 近江商人の流れをくむ現在の企業 流通業 大丸 高島屋 白木屋 山形屋 西武鉄道 ・・・ 商社 伊藤忠商事 住友財閥 日商岩井 トーメン 兼松 ヤンマー 繊維関係 日清紡 東洋紡 東レ ワコール 西川産業 その他 武田薬品 ニチレイなど 近江商人の国武への影響 国武喜次郎は、数えの23歳時(慶応3年)、近江商人の要請でかすりを1万反調達しています。近江商人にとっては、戊辰戦争やその後の内戦を予想してのかすり買い入れだったのです。そのことで、国武は近江商人から予想以上の信頼を得ました。 その後国武は、販路を九州から中国地方へ、更に大阪・京都へと広げていきました。大阪・京都では、近江商人の息のかかる商人や出先商店と直接商売が可能になり、1万反、5万反といった大口の取引を成し遂げました。 中国・四国地方の問屋では、かすりの販売だけではなく、紡糸など筑後では間に合わなかった作業まで世話して貰いました。原料綿糸の大量仕入れや織り方の調達にも大いに貢献しています。 まさしく、破竹の勢いだったのです。国武の足を使った商売は、近江商人の後ろ盾が常に役に立っていたようです。 次には、西南戦争です。⑱ 田原坂の薩摩兵 西南戦争は、政府軍の圧倒的な兵力で、わずか半年で終結しました。 イ) 国武は、倉田雲平とは対照的に政府軍への協力を見せながら、一方で買い付けた生活用品を自前の倉庫に積み上げたままで、戦争終結を待ちました。 久留米通町の国武倉庫 ロ) 西南戦争が、予想より早く終結したことで、国武の思惑はズバリ的中しました。積み上げた倉庫の物資を、熊本市内の豪商と結託して城下で売りさばき、莫大な利益を手にしたのです。 現在の熊本市街 ハ) 戦争帰りの兵たちには、みやげものとしてかすりを売り込み、ここでも莫大な利益を得ています。 これらの資金が、後に大商人にのし上がっていく国武の最大の武器になったことは言うまでもありません。 内戦が、世間の予想より早く終結したことを、国武がどうして予測できたのか。全国を股にかけ、政府要人ともつながりが深かった近江商人からの情報と知恵が働いたこと容易に推測出来ます。 国武喜次郎は、西南戦争前後の商いで得た莫大な資金を元手に、その後の商業活動に対する自信を深めていきました。 困難の克服 国武に限らず久留米商人は、少なからず西南戦争後の復員兵に対する土産物の売り込みで大もうけをしました。しかし、粗悪品を売り付けるなどの悪徳商法も横行して、同業者や消費者からの信用は地に落ちてしまいました。 かすり売りに転向して以来最大のピンチに直面した国武は、困難打破のために二つの大きな賭けに出ています。 ① 国武商店の工場化・技術革新㉒ 滋賀県宮庄村で板締器械を研究し、久留米絣織りに適応します。更に、 国武は、近江商人の商売を勉強しました。 イ) 機織りの分業と機械化。(機械で出来ることは機械に任せる)。板締め器械の応用。 ロ) 販売と生産部門を統合 ハ) 蒸気エネルギーの採用。(堺紡績・富岡製糸場外) ニ) 喜次郎、篠山町の新工場でマニュファクチュア(工場制手工業)生産開始。 織工数417人。機台数420台。 ホ) 紡績糸の優位性。 鹿児島紡績所 堺紡績所・玉島紡績の近代化と国武の取引。 イ) イギリスの産業革命後のタービンの購入。 ロ) 原料糸(紡績糸)の確約。 鹿児島紡績、堺紡績からの原糸の大量購入。 ハ) 玉島紡績の経営に参加。希望糸質と量を確保する。 販路拡大、国内から大陸へ。 ② 組合の改革 同業者の結束 かすり販売の千歳社、染業者の緑藍社を設立。 商標制度 中国地方に正保証商標つきで委託販売。 品質向上 労働者への対応 ③ 士族授産 赤松社の設立 有馬頼威が失業武士対策のために2万5千円を拠出。赤松社設立。 木綿産業の近代化と技術の向上 こうして国武喜次郎は、押しも押されもしない大商人にのし上がっていったのです。 久留米商人の性格(結論) 久留米の商人の代表格として、国武喜次郎氏を取り上げましたが、一口に「久留米商人」とはいかなる特徴を有するのか考えました。 まずは、打たれ強い 次に泥くさい商売人 曲がったことが嫌い 他国の商法を学ぶこと ということになりましょうか。 欠点をあげれば、もう少しあっけらかんであってもよいのではないでしょうか。 |
主催者(久留米法人会)の感想
昨日はお忙しい中 久留米法人会第3支部に於きましてご講演を賜り 誠にありがとうございました。 久留米の地に住んでおりましても、知らないことばかりで色々と勉強になることばかりでございました。参加者からも”貴重なお話が聞けて良かった”との声も多く充実した時間を持つことができました。 心より感謝申し上げます。 |