挨拶
主催者のNPOライフステーションのHPには、「人生100歳まで健康で」、「道の駅があるように、人生の駅があってもよいのでは」とあります。具体的な行動として、「被災地陸前高田に桜の植樹を」など、崇高な目標が掲げられています。
私は、この会の志に賛同して、壇上に立ちました。
タイトルの「定年後の生き甲斐探し」は、「人生100歳まで健康で」のスローガンに共感してつけさせていただきました。
九州北部豪雨について
まずは、このたびの九州北部豪雨で被災された皆さんに、心よりお悔やみとお見舞いを申し上げます。
被災後は、日田市と朝倉町を訪ねましたが、思わず目を覆いたくなる惨状でした。景色も住んでいる人たちも、みんなこれまで何度も取材で訪れた筑紫次郎の世界そのものだったのです。
あ
JR久大線鉄橋の崩落(日田市) |
朝倉市の奈良ヶ谷川 |
定年制の現実
|
男性 |
女性 |
60才時の平均余命 |
23.36才 |
28.68才 |
健康寿命 |
70.42才 |
73.62才 |
定年退職する10年前。後ろ盾を失った時の自分を想像してみました。何十年もの間、昼間に亭主のいない生活に慣れきっている妻は、「亭主元気で留守がいい」と、つきまとう自分を煩がるに違いない。自身も、慣れ親しんだ通勤生活を断たれてしまって、「今日1日何して過ごそうか」と悩むことだろう。この二重苦だけは、なんとしても回避しなければならない。
同じ境遇にある同年代の同僚と、酒を酌み交わしながら、何度も語り合いました。
「定年後は思い切り好きなことをやりたい。ゴルフ-山登りー国の内外を歩く-毎日魚釣り」など。
そんなのんびり屋ばかりではない。
「まだローンが残っとる」、「子供に金がかかる」、「年寄りがいてね」「病人も」などなど、遊び事など考えられないと言う者も。この人たちは、会社に残るか他に働き口を探さなければならない。
ボクは、仲間の話にうなずきながら、心の中では、誰にも縛られない自由な老後はないものかなんて考えていました。自分にしかできない、自分だからできるライフワークはないものかと。「自由人になりたい」と。
“自由人”を目指す
「自由人」を選ぶは良いが、具体的にどうする?
40年間働いて得た経験とはどんなものだったか。私の場合、経理-財務-イベント-営業-ラジオドラマの制作などですが、会社の肩書をもぎ取られたあと、それがなんぼの価値があると言うのだろう。たいしたことはない。むしろ、ゼロと考えた方が後々のためにはよいのかもしれない。
あとは、持ち前の精神力と体力、他人とのコミュニケーションの作り方。なけなしの「長所」を探すしかない。
そこで得た結論は、直近の仕事で身についた「ふるさと」をテーマにしたインターネットによる発信(ホームページの立ち上げ)でした。
そこで、直近までの仕事の延長線を描いてみる。ライフワークとして定めたテーマは、「我がふるさと筑後川」でした。具体的には、“郷土愛”を基軸にして、筑後川流域に伝承されている「伝説=民話」の掘り起こしです。
「筑後川」という貴重な自然遺産と真正面から向き合い、そこで得た文化を不特定多数の同胞と共有するために発信することです。
ホームページの立ち上げ
時間をかけて歩き、歴史と民話(口承文化)を探す長い旅のスタートでした。20年前、定年退職の翌日のことです。
流域を塗りつぶす旅
60歳から筑後川流域を走った距離約10万キロを振り返ってみます。
筑後川の源流は無数にありますが、政府が決めたのは南小国町の黒川温泉から瀬の本高原に向かう途中のに清流公園です。川の行きつく先は、佐賀県と福岡県に接する有明海ということになります。
源流の阿蘇外輪山や九重連山などに降った雨は、いったん地に潜り、麓の小国あたりで再び地上に顔を出します。伏流水のことです。
阿蘇周辺では、阿蘇地方の守り神・阿蘇神(農業)の存在が大きく、神にまつわる伝説がたくさん残っています。阿蘇の兄弟神 満願寺おとら などです。
大分県域(豊後)では、水源から日田郷まで、キリシタン大名として名を馳せた戦国大名の大友宗麟の陰の部分が色濃く残っています。首のない地蔵などが代表的である。
満願寺温泉にも、源流が存在します。九重高原も筑後川の源流の一つである。九重高原で暮らす人たちには、朝日長者伝説の信奉者が多くいます。1000メートル級の火山が居並ぶ九重連山。そこから始まるルートは、下流の野上川に合流し、玖珠川となって日田盆地に向かいます。
途中、民話の里・玖珠町では伐株山や三日月の滝・慈恩の滝など多くの由来伝説と出くわします。
一方、阿蘇水源を水源とするルートでは、小国郷を出て杖立温泉を経るとすぐ松原ダムに流れ込みます。そこで、上津江・中津江方面から来る鯛生川など別の川と合流して、大山川となり日田市内の三隈川に向かいます。
大山川周辺の伝説では、これまた大友宗麟の負の遺産ともいえる、「竹の首」や現代にも通じる代表的な長者伝説「田中長者」も有名です。
上流(日田盆地)
今回豪雨被災の日田市三隈川まで下ってくると、九重からのルートである玖珠川と合流し、四方八方から流れ来る中小河川も飲み込んで、筑後川は一挙に大河となります。
平安時代には大蔵一族の支配下にあって、津江郷を含めて数多くの伝説が伝わります。
また、伝説紀行には欠かせないカッパや弘法大師伝説が、とたんに賑やかさを増すのです。
中流
1954年(昭和29)に夜明ダムが完成するまで、筑後川は筏で材木等を運ぶ重要な河川でした。河口の大川市が「木工の町」として栄えたのは、筑後川水路があってのことである。
日田盆地から筑後平野に下りると、川の流れはとたんに緩やかになります。筑後川には、江戸時代初期に構築された大規模な堰が4つあります。上流から、袋野用水(堰)-大石堰-山田堰-恵利堰がそれである。
それぞれに、耳を傾けたくなる伝説が生きています。人柱・カッパ伝説・竜王伝説など、「伝説紀行」には、この間の話を多く取り込みました。
筑後平野
筑後平野と対岸の筑紫平野・佐賀平野は、日本有数の穀倉地帯です。
大石堰から取り入れた水路は、浮羽地方を一大穀倉地帯に変化させました。新川や巨瀬川には、いたるところカッパが棲みついています。ここはカッパ伝説の宝庫なのです。
久留米市
久留米市は、筑後川の中央部で、筑後平野の中心的役割を担ってきました。町村合併で市に面する距離は長くなりました。従って、同じ久留米市と言っても、町や村の言語や生活様式も異なります。
河口が近づくに従って、縦横に巡らされたクリークが増えてきます。
河口付近
江戸時代初期、筑後藩は、水田開発のため、有明海や支流の河口を埋め立てて陸地化を図り、行政図も大きく変化しました。
旧城島町の浮島は、背振山地から下りてくる河口に広大な陸地をつくりました。上流からの堆積物で中州が拡大して、大野島(福岡県)・大詫間島(佐賀県)ができあがりました。
嘉瀬川・矢部川を吸収して、干満の差が大きい有明海に注ぐ。
河口の柳川市は、有明海漁業の基地。特有の干潟と特有の魚介類を産みだしました。メカジャ・クツゾコ・アゲマキ・タイラギ・ワラスボなどです
大川市は、若津港を活用して、都・大陸などへの玄関口でした。漁師の厄日 雲龍久吉伝など伝説が多いです。
有明海にはただ一つの唯一岩礁・沖の島があります。漁師や農民は、年に一度、豊作・豊漁に感謝して舟を出してお参りしていました。「お島さん祭り」と言っていました。
おしまいに
筑後川10万キロを旅して
取材を通して、古代から今日までの人々の暮らしがよく見えました。
山岳部に住む人は、平野部に憧れました。九州人は、華やかな都人の暮らしを知りたがりました。平家落人伝説に見られる敗者贔屓は、都人憧憬に共通しているようにも見えます。山岳地帯では、大自然を神仏と同一において敬います。平野部の人間は、大河を竜に見立てて、ひれ伏しました。
たくさんのカッパに出会った旅でした
カッパは、人々の心の中に住み着いた神さまのような存在です。正しい生き方をしようとする人間を手助けし、自然の成り行きに逆らったり悪行を重ねるものには、きつい罰を与えましたる。
カッパは、大師伝説と共通します。
60歳から80歳までを駆け抜けて得たもの、それはカッパが持つ精神の一片でも理解できたことなのかなとも思っています。
聖路加病院の日野原先生のように、ボクもあと20年生きられれたら、もっとたくさんのカッパに会って教えを請い、少しでもお世話になった人間社会にお返しができるかもしれないのにと思います。
佐藤愛子さんの「90歳は捨てたもんじゃない」「九十歳 何がめでたい」にも同感します。
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