2016年6月26日

 この度、くるめんあきんど四部作が完成したことを、地場産くるめ(久留米市)発行の情報誌「かすりすと」が報道してくれました。内容は、作者(私)へのインタビューです。
 
 国武喜次郎をはじめ、「くるめんあきんど物語」四部作を書こうと思われた動機は?

 現職時代(RKB毎日放送久留米支社長)、筑後地方の歴史にまつわる番組を企画・制作していました。定年退職後、同郷の友人知人へのメッセージとしてホームページを週1回のペースで更新するようになりました。
その中で、筑後川流域の歴史や人物を描きたいと思い立ち、最初に書いたのが「大河を遡る~九重高原開拓史」(西日本新聞社刊)でした。
その後、倉田雲平・小川トク・井上伝・国武喜次郎など郷土の人物伝をホームページに掲載しました。
 くるめんあきんど物語第1部「たび屋の雲平」を平成25年に自費出版、26年には第2部「織屋のでん伝」、27年に第3部「まぼろしの久留米縞」を、そして今年2月、区切りの「明治を駆けた木綿売り~国武喜次郎伝」が完成しました。

喜次郎が活躍した時代は?

 国武喜次郎(1847~1927)は、江戸の末期から昭和初期まで久留米絣の普及のために活躍しました。大政奉還、明治維新と時代の大きな変わり目に生きました。久留米も同様、時代の転換期でした。
 明治6年は、久留米の商業の開花期であり、旧暦から新暦に切り替わった時代でもあります。久留米の木綿織物業は、明治6年には6万反だったものが明治末期には100万反を超え、大正末期まで商都久留米の基幹産業として君臨したのです。
 その間、小川トクが考案した「久留米縞織」の産業化、西南戦争後の粗悪品生産の汚名を返上するべく、政府主導で設立された同業組合など、久留米の新しい商売のカタチがつくられていきました。

同時代にはどんな人物が久留米で活躍しましたか?

 四部作に登場する人物のほかに、籃胎漆器の川崎峰次郎、しまや足袋の石橋徳次郎(初代)、久留米つつじを開発した赤司喜次郎らが活躍します。久留米は、基幹産業としての木綿業(久留米絣・久留米縞)からゴム産業への発展と、商業都市として久留米の地場産業の変遷を、ここに登場する人物たちの生き様と息づかいで窺い知ることが出来ると思います。

次の時代の久留米の顔は?

 国武商店の精神、そして近江商人のDNAを受け継ぐオカモト商店、つちや足袋、しまや足袋を期限とするゴム産業のムーンスター・アサヒコーポレーション・ブリヂストンと、久留米の顔は、木綿業、ゴム産業として久留米の顔をつくってきました。
 21世紀の久留米の顔はどのようにして形づくられていくのか、久留米200年の「くるめんあきんど」の歴史をひも解くことによって、次の形が見えてくるのではないでしょうか。
聞き手 筒井博文

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