街の中をうろついていると、「子安地蔵」や「子安観音」といった御神仏によく出合う。子を安らかに産み育てることを、神や仏にすがる善男善女の涙ぐましいまでの姿を表したものであろう。昨日も、博多区の櫛田神社近くで子安観音さまにお会いした。お寺の名前は寿福院。六本松(福岡市)あたりのバス通りには、子安地蔵さまが大通りを向いて立っていらっしゃる。
子安とは、妊婦の安産を願い、子供の成長を祈願する言葉であろうと推測する。さて、日夜幼児を見守ってくださる子安観音さまに纏わるお話を。
子安観音(福岡寿福院)
側室ゆえの嘆き
ときは江戸時代よりずっとむかしである。肥前国松浦に三河守元久という武士がいた。元久には、妻の玉江と5人の子供がいて、将来を約束された高級官僚であった。現在でいう出生街道を容易に見通せる位置にあったのだ。しかし、どんなに恵まれた環境にあっても、どこかに不安や落とし穴は潜むもの。元久にとっての落とし穴は、幸福の土台となる妻や子供に加えてもう一人、愛する藤枝という女性がいたことだった。
当時としては、そんなに珍しいことではなかったが、ときと場合によってはそうもいかないことだってある。妻玉江の嫉妬心ときたら尋常ではない性格だったからだ。元久にとって、藤枝の存在を隠せなくなったいま、出世街道どころではなくなった。それどころか、自分の命すら危ない。何が起こるか、考えただけでも生きた心地がしなかった。
唐津の武家屋敷街
不都合なことは重なるもの。藤枝から、思いもしなかったことを知らされたのだ。彼女が妊娠したという。そんなに肝っ玉が大きくない元久は、震えが止まらなくなった。急ぎ本宅に帰ると、自室に籠って考え込んだ。思案の先には、藤枝と別れるしかない。
「いやでございます。例えわたくしが日陰の身であっても、生まれてくる赤子には罪はございません。旦那さまとご一緒に過ごしとうございます」
涙ながらに訴える藤枝を不憫に思う元久ではあったが、彼女を松浦の郷から遠ざけることしか思い浮かばないのだ。
元久は、遂に家来に命じた。眠っている藤枝を小舟に乗せ、松浦湾から玄界灘の荒波に放り出したのだった。舟は、笹の葉のごとく浮き沈みしながら、東の方に遠ざかっていった。
博多湾を囲む松原
箱崎ヶ浦の漁師
気が付けば、藤枝は筑前の箱崎ヶ浦(福岡市東区)の砂浜に横たわっていた。彼女を3人の男が取り囲んで見下ろしている。
「気が付きなさったか。危ないところだったぜ」、リーダーらしい男が声をかけた。
「どうしてわたしがここに?」、唐津の妾宅で眠りについたところまでしか覚えていない藤枝は、見知らぬ男たちに問いかけた。
「玄界灘の姫島(志摩姫島)沖で、烏賊(いか)を釣っていたらさ、大波に流されてきた小舟に人が乗っているじゃねえか。しかも横たわってるのが身重の女ってわかり、びっくりしたもんだ。そこで女をおいらの釣り舟に移して、やっとのことでここに着いたってわけよ。その女があんたってわけだ」
別の男が柄杓の中の水を飲ませてくれた。
「ここはどこです?」
「松浦からは遠い箱崎ヶ浦だ。だけれども、今にも赤ん坊が飛び出しそうな腹抱えているお前さんが可愛そうでな。これからどうするんだい?」、漁師の問いにどう答えていいものかわからなかった。眼前には、波静かな(博多)湾が広がっている。目を横に向けると、右にも左にも延々と松林が連なっていた。時が止まってしまったかのような静かな浜辺であった。
「いったいどうしたんだ、そんな不自由な体でさ。夜中の海上をさ迷うなんて。深いわけがありそうだから、訊いても教えてはくれないだろうしな」
男たちは、泣き崩れる藤枝に、「俺たちは、夜明けまでにもうひと働きしてこなきゃならねえ。この松原の向こうには筥崎の八幡さまがいなさる。困ったことがあれば、そこのお宮さんに援けを求めるんだな」と言い残すと、水際に泊めていた釣り舟に乗り込んだ。
筥崎宮の大鳥居
神のご加護
広い浜辺に一人だけ残された藤枝は、この先の自分の運命がまったく読めなくなっていた。その時である。急激な腹痛が藤枝を襲った。陣痛である。お産を手伝うものがいなければ、自分も赤ん坊の命もこれまでか、と観念しかかった。
「八幡さま、お助け下さい。私の命と引き換えに赤ん坊をお助け下さい」、藤枝は松林の向こうに向って手を合わせて、一生懸命祈願した。そこに、松林を潜り抜けるようにして白衣を着た一人の女性が駆け寄ってきた。女は、持ってきた衣類を手際よく解きながら、藤枝のおなかをさすり始めた。遠ざかる意識の中で藤枝は、「貴女さまは?」と尋ねた。「大丈夫ですよ、わたくしはそこなる筥崎八幡神さまのお使いですから。間もなくあなたの赤ちゃんの誕生ですよ」
その直後、「おぎゃー」と大きな赤子の泣き声が。「男のお子ですよ」と言うなり、女は跳ねるようにして跳び上がると、西に向かって猛スピードで走り去った。その後ろ姿は、人間というより神がかった白狐のさまであった。脇に置かれた生後間もない赤ん坊は、女が持参した白衣に包まれて、母親に笑みを返した。助けられた藤枝は、駆け込んだ八幡宮の世話で、巫女として務めることになった。
それから5年もたった頃、3人の家来を引き連れた侍が、筥崎宮にやってきた。藤枝を荒波の中に放り出した三河守元久である。藤枝が去った後、間もなくして妻の玉江も亡くなったと告げた。
「身勝手は承知の上だが、もう一度復縁して、松浦の子供の面倒をみてくれないか」と、頭を下げた。横で聞いていた宮司は、「あきれたお人だ。あんたは、藤枝殿だけでなく自分の子供まで殺そうとしたんですよ。頭を下げたくらいで、それではどうぞなんて言えますか。この人でなし、さっさと帰れ!」と、大喝が飛んだ。
元久は、一言の言い訳もしないまま、八幡宮を跡にした。宮司は部下の神職に、元久主従の跡をつけさせた。
それから更に年月が経って、博多の街角で薄衣をまとって托鉢する坊主がいた。人の目も気にすることはなく、熱心に経を詠んでいる。あの頃、出世街道のその先を夢見ていた三河守元久の変わり果てた姿であった。「帰れ!」と、宮司に一喝されたあと、屋敷には戻らず、家来を道連れに芥屋の大門から身を投げようとしたところを、八幡宮の神職に止められた。
「あなたがこれからなさることは、死ぬことではない。藤枝殿とお子たちの無事を祈ることです。それから、世の中で親に捨てられたり、不幸な目に遭う幼い命を助けるために祈ることです」と、コンコンと説いた。
子安観音を祀る博多区の寿福院
思い留まった元久は、お上からいただいた役職をすべて返上して、自身の全財産を差し出し、各地に小さな祠やお堂を建てた。「子安観世音菩薩」や「子安地蔵」を祀るためだった。(完)前から使者が尋ねてきて、母子は無事に三河守の許に帰り、彼は稲荷の霊験を聞いて感じ入り、上田某を遣わして小祠を建立し、祠堂金一封を年々送ったという。この地蔵を俗に「子安稲荷」と言っている。
その後、肥前から使者が尋ねてきて、母子は無事に三河守の許に帰り、彼は稲荷の霊験を聞いて感じ入り、上田某を遣わして小祠を建立し、祠堂金一封を年々送ったという。この地蔵を俗に「子安稲荷」と言っている
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