No.045

2022年07月17日

一夜で飛んだ
飛梅伝説

太宰府天満宮


天満宮本殿前の飛梅


 大宰府詣でから始まった菅原道真物語は、次のように数を重ねてきた。お暇な折に、ぜひ読み比べて欲しい。なかなか面白い展開が待っていますよ。

 NO.058 誇り高き三千坊 筑紫次郎伝説紀行
 NO.315 「針摺」地名の由来 筑紫次郎伝説紀行
 NO.037 藍染川の軌跡
 NO.040 もろ尼御前
 NO.043 金掛けの梅
 NO.044 菅公を看取った神牛


 主人の道真公を追って、京の都から一夜にして太宰府まで飛んで来たという「飛梅」の伝説にいたった。
 時代と登場人物は少しずつ替っていくが、「大宰府」の歴史をたどる旅は、作品ごとに深みを増していった。



一夜にして都から太宰府へ、だがしかし…


 菅原道真は、平安時代を代表する貴族であり学者・政治家であった。政治家としては、最高位に属する右大臣にまで上り詰めている。
 延喜元年(901)年春、菅原道真は藤原時平らとの権力闘争に敗れて、右大臣の座から突き落され、太宰権師(だざいのごんのそち)という大幅な格下げを食らうことになった。それだけではすまず、道真は、九州は太宰府へと左遷されることになったのである。 
 九州へ旅立つ前日、道真は朝晩愛でた庭の白梅に語りかけた。そして、華やかで座り心地のよかった京の都への未練心を歌にした。



東風吹かば にほゐをこせよ梅の花 主なしとて春なわすれそ


 わたくしが九州に去ったあとも、わたくしのことを忘れてくれるなよ。寒い時節が去れば必ず心地よい春が来る。その時、思い切り花びらを開いて、あの悩ましいほどの匂いを放っておくれ。そのときみやこで吹く東風に乗って、九州までわたくしに会いに来ておくれ。だから、わたくしがいなくなっても、けっして春を忘れてはいけないよ。
 道真は、京での暮らしに未練を残しつつ、同道を許されなかった妻を残して旅立つことになった。旅の連れは、長男の隈麿と一人娘の紅姫である。旅の案内と警護は、一番弟子の味酒安行(うまさかのやすゆき)と従者5人だけであった。


 長旅を終えてたどり着いたところは、大宰府政庁から朱雀通りを南に500㍍。政庁の南館を与えられた。現在の西鉄大牟田線、大宰府-都府楼の中間にあたる現在の榎社である。
 道真父子に与えられた館は、雨漏りがするような粗末なものだった。食べ物も十分ではない。道真は荷解きもそこぞこに庭に出た。「これは!」と目を見張ったのが、白梅の古木である。枝ぶりが、都の庭で朝夕愛でていた梅の木にそっくりの木だった。さすがに花の時節は過ぎていたが、不思議な気持ちにさせられた。



菅公館(政庁南館)跡


 菅公の左遷の報は、彼を慕う弟子や信奉者たちにも伝わった。伊勢国で神主を務める白太夫もその一人。遣唐使の中止など、大胆な政策を打ち出す政治家としての右大臣菅原道真を、頼もしく思い心から尊敬していた。それだけに、左大臣の藤原時平との政争に敗れて都落ちする道真が不憫でならない。
 居ても立っても居られない白太夫は、九州に旅立つ道真一行を追うことになる。途中京の都を通過する際、道真の留守宅に立ち寄った。夫に同行することを許されなかった夫人を見舞うためである。
「お可哀そうに」、涙ながらに別れの言葉を残した後、道真がこよなく愛した白梅の前に立った。とっくに花の季節は終わっている。それでも白太夫は、白梅のすぐ隣の幼木を掘り起こし、九州へと旅立った。
「道真さま、根はしっかりと生きております。貴方さまを慕ってみやこから飛んで来たものでございますよ」
 道真と再会した白太夫は、挨拶もそこそこに、窓辺に都から運んできた幼木を植え付けた。それでも、道真の表情はさえなかった。大宰府政庁に出向くことも許されず、食べ物にも不自由する暮らしに体も次第にやせ細っていった。



大宰府政庁跡


 道真の、みやこ恋しさと、政敵に対する恨みは日ごとに増していく。館の西方に居座る天拝山に登り、都を向いて望郷の念を発露することに。
 大宰府に赴任後、1年経って、長男の隈麿があっと言う間にこの世を去った。悲しむ間もなく、みやこから、夫人が倒れて帰らぬ人になったとの悲しい知らせを受けることに。
 そしてまたその次の年、道真自身が紅姫と味酒安行などわずかの身内に看取られて、向こうの世界に旅立ってしまったのである。
 菅原道真物語は、これで完結とはいかない。菅公の都恋しさ(文学者)と政敵に対する恨み(政治家)の心情は、彼の死後に本領を発揮するのである。



天拝山頂上からみやこを望む


怨念


 道真の死去は、大宰府への赴任から2年後の延喜3年(903年)である。わずか3年足らずでは、異国での暮らしにも慣れることなく、未練と恨みだけを残してこの世を去っていくのである。
 道真の死後、都の周辺では、おぞましい事件や事故が相次いだ。その最たることは、右大臣の地位を剥奪して九州へ追い出した藤原時平を襲った病魔であった。道真の死後わずか6年後のことであった。時平の死は、それまでに起こった天変地異や要人の不慮の死など数々の出来事を経てのことで、時の政権も菅原道真の怨霊によるものだと断定して対策を練った。そこで、これ以上の祟りを怖れて、政権が道真の生前に受けた制裁をすべて解除する。それだけでは収まらず、みやこの北方に北野天満宮を設営して道真の怨霊を供養するするなど、「死後の復権」を完遂するのである。


太宰府天満宮本殿


 道真が眠る大宰府においても、それまで「お墓」だった場所に社殿を建立する。死後15年経ってのこと。社殿正面には、白太夫が京から持参した菅公馴染みの梅の木を南館から移植した。現在も栄える飛梅は、その時の子孫だといわれる。(完)

    
表紙へ    目次へ     


ご意見ご感想をどうぞ