No.035
2022年04月17日
野芥の縁切り地蔵さん
福岡市早良区
野芥の縁切り地蔵
住居の近くに縁切り地蔵堂があると聞いて出かけた。福岡市営地下鉄七隈線の野芥駅を降りて10分ほど歩いたところにあった。境内入り口の説明板には、夫婦問題など不幸な人間関係で悩んでいるお方が相手との縁を切るため、北は北海道から南は沖縄までたくさんのお参りがあると書いてある。 肝心のお地蔵さんは、上の写真のごとく、人型(ひとがた)の原形をとどめていない。「縁切り」を願うお方が地蔵さんの体を少しずつ削って持って帰るからだそうな。持って帰ったものを相手に飲ませれば、「絶縁」の願いが叶うのだという。さてさて、お地蔵さんが縁切りの願いを聞いてくださるとはどういうことなのか、その謂れを野芥地蔵尊の由来から紐解いてみたい。 長者の婿選び ときは和銅年間というから、1300年もむかしのことになる。有名な高松塚古墳が造営された時期ということか。ここ九州の北部(福岡県)では、各地で長者が幅をきかせていた。その内の一人が粕屋(現粕屋町長者原)の筑紫長者である。
長者の本名は、曽根出羽守国貞といい、長者には目に入れても痛くないほど可愛い一人娘の於古能姫(おこのひめ)がいた。姫が年頃になり、ますます美貌がはじける頃になると、あちこちから嫁に欲しいと申し込みが殺到するようになった。 筑紫長者は、可愛い娘の婿選びに多忙を極めた。その間、肝心の娘には相談することはなかった。そういう時代だったのである。大きな声では言えぬが、娘の婿選びを父親だけで行う習慣は大むかしのこととは限らない。ごく最近まで、否今日も、日本のどこででもまかり通っているらしい。それも、筑紫長者のように特別な家柄に限らず、どんな家柄でも。 さて、筑紫長者が決めた娘の婿殿は、粕屋の郷から大よそ6里ほど西に位置する重富の郷(現早良区重富)の、土生長者(はぶちょうじゃ)が嫡男兼輔であった。こちらの方もまた、嫁選びは家の主である長者が一人で決める。当の花婿は全くの蚊帳の外に置かれた。時代がそうであれば、母親も家族も一切の口出しは無用である。そんな窮屈な慣習が、この物語に登場する若い二人の不幸を生み出すのである。
花嫁も花婿も不幸 花嫁の於古能は白無垢に着飾って、両親や兄弟・一族と水杯を交わした後、長い車列の花嫁道中に出たのであった。於古能も慣れ親しんだ粕屋の家を振り替えることもなく、顔は西方の重富の郷を向いたきりであった。 花嫁道中が油山の裾野を通過して、野芥の郷に差しかかった。その時、前方から砂煙を巻き上げて、一頭の早馬が迫ってきた。しばらくして、父の筑紫長者が馬の背に乗る於古能に小声で告げた。 「花婿殿が先ほど急死されたと連絡があった。そなたの嫁入りは中止じゃ」 何が何やらわからず、於古能は馬の背で小刻みに震えていた。 「私は粕屋の家を出た人間です。もう帰る場所などありません。例え婿殿が亡くなったとしても、私には土生の家がございます。どうぞ道中をお進めください、父上さま」 娘の毅然たる態度に怖ろしさを感じた長者は、その場を外した。その直後であった。父の頼りなさを嘆く間もなく、於古能は自己防衛のために持たされている懐剣の鞘を払い、自らの喉に突き差した。
その頃、土生の長者屋敷でも大騒動が勃発していた。花嫁到着を目前にして花婿の兼輔が屋敷から消えたのだ。部屋に遺書らしき走り書きを残して。 「わたしはお父上さまのご期待に沿えません。女中のおみのと二人でこの世を去ります。重ね重ねの不孝をお許しください」と。長者は、家来に言いつけて於古能の花嫁道中を止めるよう言いつけた。 粕屋の筑紫家と重富の土生家の縁談は泡と消えた。筑紫長者は娘の遺体を野芥の郷に残したまま、粕屋の郷に引き返した。野芥の郷を去る際、過分な金を家来に託して後始末を指示した。家来は野芥の顔役と談合して、於古能を丁重に埋葬した。一部始終を見ていた野芥の住民は、於古能姫を憐れみ、二度とこのような悲劇が起きないよう、野芥の郷に地蔵菩薩像を祀った。それが、現在福岡市早良区野芥にある「野芥縁切地蔵尊」である。この地蔵さん、昭和60年10月に全焼したが、土地の方々の熱心な運動で、間もなく再建されて現在に至っている。 なるほど、地蔵さんとは名ばかり。あちこちが削り取られていて、人型の原型は全く見えない。それより気になるのが、地蔵堂に飾られている「縁切り願書」の封筒と縁切りを象徴する絵馬の存在だ。 人の世は、嬉しいことばかりじゃない。こんなはずではなかったと早まっての結婚が、その人の以後の人生を惑わせてしまうことだってあるということ。別れたい、でも相手が承知してくれない、相談する人もいない。そんな時、於古能姫のお地蔵さんにお知恵とお力をお借りするのも無意味なことではないかもしれないな。(完) |