福岡市東区馬出(まいだし)2丁目の高層団地脇に、翁別(おきなわけ)という名の小さな神社が建っている。筥崎八幡宮から数百メートル離れた場所である。この神社、90年ほど前に1㌔足らず西方の海岸から引っ越しておいでだったとか。
神社といっしょに引っ越してきた井戸のことを、人々は「鏡の井」と呼んできた。この井戸、いざよい(十六宵姫)の数奇な運命を語る貴重な“証人”なのだ。
参拝客でにぎわう筥崎宮
湧水に映える黒髪
お話は、1140年もむかしの平安時代初期まで遡る。箱崎ヶ浦(箱崎の海辺)に住む漁師松蔵とウメ夫婦は、箱崎八幡にお参りした帰り道、神主さんに呼び止められた。
「ご熱心ですね。あなた方は、神さまに何をお願いで?」と尋ねられ、「子供が欲しいのです」と淀みなく答えた。「それなら、あれなるお井戸の水をお持ち帰りなされ。水は人間にとって命の源ですから」と意味深長な言葉を投げかけた後、桶と柄杓をくださった。
夫婦にとって、いただいた神水を家の神棚と愛舟の舳先に捧げる毎日が始まった。その内に、夫婦の夢枕に現れた八幡神の遣いから、吉報が告げられた。生まれてきた赤ん坊は、神さまから授かった宝物である。産湯は八幡宮の井戸水を使い、生まれた日が8月16日の夕方であったことから、「いざよい(十六宵)」と名付けた。
いざよいが7歳になった頃、彼女にとって箱崎の浜辺は格好の遊び場となった。母親からいただいた柘植(つげ)の櫛を使い、砂浜にできた小さな池を鏡にして黒髪を梳くのが楽しみだった。小池を覗き込むと、水は底からブクブクと小さな泡を吹きだし、水面で弾ける動作を際限なく繰り返している。
箱崎松原の黒松
悪戯心に、掌で掬って飲んでみた。甘露のように甘くておいしい。「お前の髪が黒光りして美しいのは、鏡にしているあの泉が八幡さまの井戸と繋がっているからなのだよ」と、母のウメは娘の頭を撫でながら言い聞かせた。
「私の髪が光っているのは、毎日八幡さまからの水で梳いているからだわ」と納得した。彼女の美貌に憧れる近所の女たちは、私も、私もと、浜辺の泉に集まってきた。浦人らは、いつの頃からか浜辺の泉を「鏡の井」と呼ぶようになった。
請われて都へ
筥崎八幡宮に参詣する客も鏡の井に立ち寄り、甘露の水を口に含みながら髪を梳いた。そんな評判は、宇多天皇の※奉幣使として箱崎八幡に参った橘良利(たちばなのよしとし)がいざよいのことを耳にした。いざよいが13歳に成長した寛平6年(894年)のことであった。
「駄目です、あの娘が箱崎の津からいなくなることなど。たとえどなたさまの要望だとて私どもは納得できません」
父松蔵と母ウメは、天皇に仕える女官として召し抱えたいと要望する橘卿に、涙ながらに訴えた。だが、屈強な護衛を従えた卿の要請を跳ねのける力には限度があった。
「それならば、せめて娘に浜の泉を鏡にして思う存分髪を梳かせてあげてくだされ」と願い出た。
都に向かって遠ざかる娘の後ろ姿を涙ながらに見送る父と母。未練を断ち切ろうと前を向いたままの娘の、悲しい別れであった。いざよいが去った後の浜辺の泉は涸れてしまい、泉の回りにも蔦が這いめぐらして、哀れな姿だけが残ることになる。
※奉幣使:天皇の命により、神社等に神の召しあがる食べ物を届ける遣い
北面の武士
京都御所
奉幣使橘良利に連れられて都に上ったいざよいは、白梅姫の名前をいただいて内裏(だいり)に上がった。箱崎の津で磨かれた彼女の美貌と立ち振る舞いは、宮廷で動き回る男どもの関心を惹かぬわけがなかった。その内に※北面の武士である高丘蔵人金平が、橘卿を介して結婚を申し込んできた。
※北面の武士:御所の北側の部屋の下に詰め、上皇の身辺を護衛する武士のこと。又は、院の直属の軍として、寺社の強訴を防ぐために動員されることも。
娘との間を引き裂かれた松蔵夫婦は、淋しい毎日を送っていたが、ある時思いがけない知らせが舞い込んだ。娘が夫の金平と二人の孫とともに博多に帰ってくるというのだ。宇多天皇が、道真を警護するよう金平に命じたのである。更に菅原道真が、九州・大宰府に左遷されることになると、土地勘を持ついざよいとともに同道するようとの命令も出された。延喜元年(901年)のことであった。いざよいは、思いがけなく故郷に帰還することになったのである。
鏡の井戸復元
そのむかし鏡の井があった馬出3丁目(国道3号線)
いざよいは夫金平と二人の息子とともに、故里九州に帰ってきた。10年ぶりの両親との再会であった。松蔵とウメ夫婦が大喜びしたことは言うまでもない。父母の話だと、この数年筑紫国は旱魃で穀物の収穫が少なくて、餓死者も出ていると言う。あれもこれも、天が雨を降らしてくれないからだと嘆く。いざよいは、夫とともに砂浜に出て鏡の井戸を探した。地下で八幡宮に繋がるあの泉なら、人民のこの不幸を助けてくれるはずと考えたからである。でも、井戸の水は涸れたままで、回復の見込みはたてられなかった。
しばらくの間、親子三代で過ごしたいざよい夫婦は、早々に都へ旅立った。仏門に入った宇多上皇に、道真の死を報告することと、九州での干ばつ被害の救済を求めるための決断だった。これが、箱崎ヶ浦との永遠の別れになろうとは考えてもいなかった。そして、箱崎ヶ浦の泉は消え去ったままであった。
箱崎ヶ浦から鏡の井戸が消えてから18年が経過した延喜21年1月。こつ然と現れた陰陽師(おんようじ)の安倍晴明。陰陽師とは、中国大陸から伝わった天文の観測、暦の作成、占いなどを行うために朝廷が拵えた部門である。安倍清明はその部門に属する高級役人であった。晴明は、いざよい夫婦の訴えを叶うべくやって来たのだった。
箱崎ヶ浦の顔役・日下辰五郎を案内役にして、箱崎ヶ浦の浜辺に祭壇をつくって呪文を唱えた。時を見はからって、持っている杖を天空高く投げ上げた。すると、天空が一転掻き曇り、強烈な稲妻が空中を駆け巡った。博多の海の荒波が雷鳴との間に絡み合い、地上は真っ暗闇となる地獄の様相となった。
案内役の辰五郎が、地面に伏していた顔を上げたとき、飛んでくる稲妻に跨るようにして、巨大な白龍が踊り出るところだった。その途端、大粒の雨が地面をたたきつけた。天空を泳ぎまくっていた白龍は、清水が噴き上げる井戸の中に飛び込んだ。その時陰陽師安倍清明の姿も消え去っていた。辰五郎が見上げる空からは、大粒の雨が降り続いた。
こうして、消えた鏡の井戸は復活し、その後涸れることなく浦人の暮らしの支えになったという。道真公の祟りだと恐れられた干ばつや不漁の厄も、この世から消えてなくなった。
翁別神社
箱崎ヶ浦の辰五郎は、尽きることなく湧き出る井戸には、白龍が巨大な尻尾で集めた石を積み上げて井筒とした。その周りには玉垣を巡らせ、父松蔵の名をとり「松の翁」、母ウメからは「白梅の媼」の字をいただいただいて「翁別神社」と銘うった。それが、現在も福岡市の馬出にある「翁別神社(おいきなわけじんじゃ)」と「鏡の井」である。
金平といざよい夫婦が箱崎ヶ浦から消えたその後が気になる。夫婦は宇多上皇に挨拶した後仏門に入り、須磨のあたりに居を構えて生涯を終えたと、何かの資料に記してあった。(完)
「鏡の井」の取材で何度も現地を訪ねた。福岡市東区の馬出(まいだし)という地域だ。「まいだし」なんて変な呼び名の地名で困惑しがちだったが、何のことはない主舞台の翁別神社は筥崎宮の目と鼻の先だった。
箱崎松原の名残りだろうか、稱名寺
東区といえば、戦後の難しい時代を、逞しく生きぬいたた場所だったのだ。
馬出の入り口にあたる御笠川の端から東に1.5㌔が、大むかしから市民に親しまれてきた「千代の松原」であり「箱崎松原」なのだ。博多山笠で男たちが集うお汐井とりの箱崎浜はその一角にある。美しい松原を空想しながら国道3号線を歩いていると、目の前のお寺さんの境内に、枝ぶりが素敵な古い松の木を見つけた。そこから筥崎宮へ、江戸時代へのタイムスリップは果てしなく展開していった。「鏡の井」は、そんな夢を膨らませてくれる題材だった。
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