No.024

2022年01月23日

  帳付け石
お城の石垣材


芸術的福岡城の石垣

黒田長政が福岡城の築城に取り掛かった頃の出来事です。長政は、筑前国那珂郡警固村福崎(現在の福岡城跡)に城を築くことになりました。そこは、見渡す限りの丘陵地帯です。関が原合戦の翌年(慶長6年=1601年)には工事が始まったといいますから、携わった武士(役人)も人夫もそれは大忙しの工事だったことでしょう。因みに、城が完成したのは、それから7年後のことです。普請奉行は、野口佐助一成という人でした。まずは、本丸と二の丸・三の丸御殿を防御する強固な石垣を築かなければなりません。石垣に使う石も、半端な数量ではどうにもなりません。
 城主の黒田長政をはじめ、築城に携わった普請奉行や役人は、連日石材を求めて図面と睨めっこ。ほとんどは、それまで構えていた名島城(東区)から移動したものですが、それだけでは間に合わず、領内の山の中にある塚に使われた石まで動員したといいます。寺塚の穴観音周辺の石も候補に挙がりました。


巨石で形づくられた寺塚の穴観音

  さすがに石窟にお籠りの観音さまの堪忍袋の緒が切れたのでしょうか、長政の夢枕に立たれてきつく説教されて中止させたという逸話も残っています。これから先が、今回のお話です。


油山登山道にある大石

 石垣造りの責任者から命を受けた権八郎は、福崎の丘から遥か南方に見える油山に目を付けた。子供の頃によく出かけたことのある小ぶりの山である。あそこには、石垣に適当な大きな石がごろごろ転がっていた。さて、あのような巨石をどのようにして切り出して運び出すか、思案に暮れた。
 権八郎は、矢立一組を腰に差して、田島往還から油山に入っていった。かつて見覚えのある石切り場を探し当て、城の石垣に適する石を見つけるたびに、場所と個数を間違わないように、壱弐参四と帳面に印をつけていったのである。


天守台から眺める大濠公園

 図面が出来上がると、今度は配下の人夫をかき集めて切り出しと運び出しが始まる。今日のように整備された山道があるわけではないし、大型のトラックがあるわけでもない。崖のような急斜面を麓まで運び出すのも一苦労であった。油山から工事現場の福崎までの道筋は、蟻の行列のようだったという。

 油山からの石材の運び出しも大詰めを迎えた頃。
「あとひと頑張りじゃ。最後の石は、あの椿の木の根元にあるやつじゃ。気を緩めずに最後まで運ぼうぞ」。指揮を執る権八郎は、人夫頭の与之助らにはっぱをかけた。
 その時であった。それまでギンギラギンに地面を照らしていた太陽が、真っ黒な入道雲に隠れた。すると強烈な稲光が、油山をめがけて体当たりしてきた。光に合わせて大粒の雹(ひょう)が人夫の頭に襲いかかってきたのである。バリバリ、ドドーン。雷は、目の前の椎の大木に突き刺さり、激しい音とともに幹が真っ二つに裂けた。
「早く、そこの洞穴に隠れろ!」。勧兵衛の怒鳴り声で、一同はいっせいに穴の中に駆け込んだ。「これも、寺塚のときと同じかもしれん」。強気の権八郎の口元が小さく震えている。穴観音の巨石を持ち出そうとして、藩主が観音さまのきついお叱りを受けた一件である。
「もうよい。一つくらい石が足りなくても、奉行さまにはわかるまい。雨が止んだら、馬車もろとも引き上げるぞ」。権八郎のおじけづきを見抜いた人夫たちは、急坂を転げるようにして麓に向かった。帳付け済みの石の1個だけを残したままに。(完)

 東油山から観音堂を目指して上る途中に、「椿窯」という窯元がある。その窯元を右旋回してもう少し上ったところの山中に「帳付け石」と記された大石が転がっているとか。それが、福岡城石垣のためのもので、権八郎が観音さまのお怒りを恐れて、1個だけ運び出さなかったものらしい。この話を語り継ぐものを求めて、帳付けの石は寂しく油山の山中から下界を見下ろしていらっしゃる。

表紙へ    目次へ