博多の町を歩いていると、浄瑠璃や歌舞伎などに登場する世話物的なお話の現場によく出合う。今回紹介する「濡衣塚(ぬれぎぬづか)」も、博多ならではの泣き笑いの世界だ。そう、「濡れ衣」とは、えん罪など捏造された無実の罪を負わされることを言う。
街中を流れる御笠川のほとりに、巨大な石碑が置かれていて、そこには曰くありげな梵字が刻まれている。梵字の説明は、「康永三年(1344)銘梵字板碑」とある。一方の案内板には「古跡濡衣塚」と記されていた。さて、本編でいう濡れ衣との関わりは。
梵字の説明
ここでいう「梵字」とは、梵字板碑(ぼんじいたび)のことをいう。供養塔の一種で、彫られている文字の内容は、「大日如来」「宝幢如来(ほうとうにょらい)」「天鼓雷音(てんくらいおん)」を表す。
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後妻が嫉妬
奈良時代・聖武天皇が存命の頃(724~749)のお話。遥か京の都から佐野近世(さのちかよ)なる公家が、筑前守として妻みゆきと年頃の娘春を伴って博多に赴任してきた。娘の春姫は、京でも名高い美貌の持ち主であった。病弱の妻は博多に到着するなり、あの世へ旅立ってしまった。見知らぬ土地で母親を亡くした春姫の淋しげな様子を見て、近世はすぐに後妻を迎えた。
近世は、早朝から深夜まで公務に追われて、なかなか家族と一緒の時間をつくれないでいた。後妻に入ったカメは、主人が持つ金と名誉が目当ての後妻入りであった。忙しい主人の留守をよい事に、手当たり次第に男を屋敷に引き入れたりして、家庭を守ろうなど考えたこともない女である。また人一倍の嫉妬心の持ち主でもあった。特に美しい春姫にはねたみがすごかった。時来たらば、春姫を屋敷から追い出すことまで考えている。
「あの小娘を何とかならぬか」。ある日、日頃良からぬ関係を持つ庭師の弥助を呼び出してけしかけた。カメの下心がわかっている与助は、袖の下まで掴まされては嫌とは言えない。言われるままに志賀の浦の漁師の家に忍び込み、雨に濡れた漁夫の作業着を盗み出した。
博多湾の漁場
陰口
近世が珍しく早く帰宅した夜であった。寛いでいる主人に、庭先から入り込んだ与助が小声で、「ご主人さまに申し上げます」ときた。仕方なく耳を傾ける近世に、「実は…」と勿体ぶって話しかけた。「どうした、用があるなら早く言え」、近世にとっても、こんなに早くから屋敷にいる時間が勿体ないのだ。
「実は、…誠に申し上げにくいのではございますが…」
「ええい、じれったい。言いたくなければ言わずともよい。こちらも聞きたくない」。苛立った近世が、立ち上がろうとした。
「それなら、申し上げます。実は幼馴染の漁師が志賀浦にいまして。そのものが申しますには、毎晩の如く釣り具と作業着が盗まれて困っていると…」
「うん、それがどうした」
「昨夜もそうでした。たまたま釣りの途中で激しい雨が降り出しまして。蓑くらいでは役立たず、そのまま家に帰ったそうでございます。夜中に目が覚めると、漁具置き場で物音がします。急ぎ駆け付けると、見知らぬ女が雨で濡れた着物を盗むところでございました。捕まえて素性を聞くと…」
「それがどうした」
「失礼の段はお許しください。その女は、ご主人さまのお子さまの春姫さまだったのでございます」
そこまで聞いて近世は立ち上がり、けたたましい足音を残して部屋から出ていった。
生涯かけて供養
それから2年後、、筑前守の役を返上した佐野近世は旅に出た。深編笠で顔を隠し、体を薄黒衣に身を包み、人間社会から逃げるようにしての旅路であった。
近世が祀ったという地蔵菩薩(後方は御笠川)
肥前の伊万里湾岸に庵を結んだ近世は、博多の町で知り合った松浦の僧侶に援けを求めた。「いかがなされた?」。僧の問いに、近世は力なくこれまでの出来事を語った。
あの晩、庭師の与助が告げた娘の「不始末」から先のことである。一人娘の春姫が、志賀浦で漁師の家から漁で着る作業着を盗んだと聞いた途端、近世のプライドが崩れ落ちた。娘の布団にはずぶ濡れの作業着が掛けられている。言い訳をする娘を、一刀両断切り捨てた。あのとき、一瞬でも立ち止まって、そんなことはあり得ないと考えていたら悲劇は起きなかったはず。惨劇の場に居合わせた後妻のカメの薄笑いする顔に気が付いていればと、すべてが後の祭りであった。
それからである、毎夜近世の枕辺に春姫の亡霊が立つようになった。「父上、私は人さまのものを盗むなどしておりません」と訴えかける。でも今更娘に向かって耳を傾けたのでは、高級役人としての立場が危なくなる。近世は娘の必死の訴えにも耳を塞いだ。
ある夜、春姫は何も言わずに紙切れを一枚ひらりと落として消え去った。紙片には一首の短歌が。
「濡れ衣の袖より伝う涙こそ無き名を流すためしなりけり」
そこで、佐野近世の目が醒めた。あの時の濡れた作業着は、訴え出た庭師と後妻・カメが仕組んだお芝居だったのだ。庭師の与助を詰問した。与助から、カメの依頼でなした犯行だったことを聞きだすと、その日のうちにカメと離婚して屋敷から追放した。
それでも、自分の手で殺めた春姫に申し訳が立たず、筑前守の役職とすべての名誉を投げ捨てて、博多の町を飛び出してきたのだった。春姫の遺体は、彼女が好んで歩いていた御笠川のほとりに埋めた。
語り継ぎ
松浦上人縁の石堂(石堂丸地蔵堂)
語り終えた佐野近世は、忍ばせていた懐剣を自分の首に持っていこうとした。だが僧が止めた。「そなたが死んでも娘さんは生き返らない。己の罪を死ぬまで背負って、娘さんの供養を続けなさい」と諭した。
近世は、髪を剃り落として春姫供養に没頭した。更に数年後、「松浦上人」の称号を受けた近世は、博多に戻って御笠川岸畔にも庵を結んだ。身を捨てた修行と供養が博多庶民の胸を打ち、松浦上人を慕う町民が跡を絶たなくなった。上人は、博多の町に七つのお堂を建てて、春姫を弔ったという。そのお堂は、
普賢堂 辻の堂 石堂 奥の堂 菅堂 脇堂 瓦堂
である。そのいずれかは、今日の博多の地名として馴染みとなっている。
豊臣秀吉による「太閤町割り」では、一つの山を伽藍に例えて、町づくりをしたと言われます。
普賢堂:博多で最古の道といわれる、聖福寺北側に通り名として残っている。
辻の堂:
石堂:お馴染みの石堂丸伝説の発祥地。石堂地蔵は未だに町民の心のよりどころ。
奥の堂:大博通りにバス停。飲食店名もある。
菅堂:
脇堂:
瓦堂:
(他のお堂は、おいおい探します)
(完)
濡れ衣悲話を語り継ぐ松源寺
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