防府天満宮
「気がつかれましたか?」
優しい女の声で目が覚めた。だが、声をかけた人が誰だか見当がつかない。
「荒瀬百合子です。楫取(かとり)さまからお知らせを受けて、お迎えに参りました」
「ここは…」
「松崎の天神(防府天満宮)さまですよ」
3日前だったか、楫取素彦夫人のヒサが湯田の吉田屋を訪ねてきた際、防府天満宮にお参りする旨を伝えておいた。その後、荒瀬百合子女史の自宅を訪ねるとも。楫取夫人が早速、連絡してくれていたのだろう。
七日詣での際一日一首奉納した短冊
起き上がった望東尼は、挨拶を済ますとすぐ拝殿に向かった。吉田屋を出る際、心に決めていた「七日詣で」の初日分を実行するためである。
本日9月25日から7日間、欠かさず天神さまに「戦勝祈願」を行い、和歌を一首ずつ奉納することを決めていたのである。神前に深々と頭を垂れた後、道中詠んで書き留めておいた句を神官に差し出した。
もののふのあだにかつ坂かけつつもいのるねぎごと受させたまえ
朱に染められた本殿は、太宰府や京都の北野天満宮とはひと味趣を異にしている。拝殿に上がると、今にも眼前に天神さま(菅原道真)が顔を出しそう。本殿から見下ろす向こうには、町のシンボルである桑山(くわのやま)が居座っていた。更にその向こうに広がる海が、三田尻の港であろうか。
望東尼は、荒瀬百合子が手配した駕籠に乗り、半里先の荒瀬宅に向かった。百合子の夫はかつて商人だったが、先に亡くなっている。残された夫人は58歳。現在歌人として活躍中であった。
百合子は、望東尼に不自由なく過ごしてもらえるよう、離れの間を提供した。望東尼は、疲れをとる間もなく、翌朝から天満宮通いを始めた。境内の手水鉢で身を清めた後、拝殿に上がり精神を統一して二日目の和歌を詠んだ。
薩長盟約によれば、薩摩兵を乗せた船は、9月25日か26日には三田尻の港に到着するはずである。だが、いくら港を望んでも、それらしき船影は現れなかった。荒瀬家の離れで知らせを待つ気持ちも落ち着かなかった。
山口の湯田温泉から遙々三田尻までやってきたのに、見送るべき長州兵が、いつ戦場に赴くのか見当もつかない。望東尼は、案内役として若くて力持ちの使用人友三を付けてくれた。桑山(標高107㍍)登りを手伝ってもらうためである。
「あちらに見えるのが三田尻の港で、その向こう側が中之関です」
「それで、佐賀関は?九州と四国の間の…」
友三の指先を頼りに、視界を巡らせていく。港の向こうが向島。いくつかの小島を飛ばして、その向こうにかすかに見えるのが四国の佐多岬である。目を見開いて眺めたが、薩摩兵を乗せた軍船らしいものはなかった。
現在の三田尻港
「やっぱり駄目だね」
深いため息をつくが、薩長盟約のことなど知らされていない友三には、彼女の気持ちを察することは出来ない。
ちぎりおきて帆かげも見えぬ薩摩舟またうき波や立ちかえるらむ
9月28日、荒瀬宅に楫取素彦が山田市之丞と一緒にやってきた。二人は、三田尻に居を構えて、薩摩兵の到着を待っているのだと言う。
「遅いですね、薩摩のお方たち」
望東尼が身を寄せた荒瀬家
(現在桑山麓に移築されている)
出迎えた望東尼が呟くと、楫取は「そんなこともあるさ」と、焦っている風にも見えない。「八月十八日の変」以来、長州藩内に漂う「薩摩不審」が、頭をもたげていたのかも知れない。訪問者は、和歌の詠みあいなどした後帰って行った。それから6日経った夕刻、友三が駆け込んできた。
「薩摩の船が中之関に入ったらしいです」と。慌てて身支度を済ますと、再び荷車に乗せられて桑山山頂へ。
「あれが、待ちに待った薩摩船ですか」
桑ノ山の頂上から眼下に見える船を見て、足下が不安定になるほどに気が抜けた。見下ろした向こうに見える船には、薩摩兵が400人乗っている。それから三日後には、更に859人の藩兵が到着したと知らされた。
望東尼は、桑山山頂より薩摩軍船の姿を見届けたあと荒瀬宅に戻ってきた。いかに友三の助けがあっても、62歳という年齢からくる体力には限界がある。床につくと、間もなく始まる新しい世への期待も薄れてしまい眠りこけた。
「どうしましたか、嬉しいはずなのに」
百合子とヒサが部屋に入ってきて声をかけた。眠っているわけでもないのに、すぐには返事ができない。
みよひらくたよりや菊の花ならんあきつむしさへゆたにやどれり
天皇の御代が始まるという知らせを聞くのは、菊の花であろうか、あきつむし(とんぼ)さえゆったりと止っている。
客人の異常を感じ取った百合子は、受け取った歌の清書をヒサに頼んだ。
「頑張ってくださいよ、貴女が命をかけて戦い取ろうとする新しい世が、すぐそこまで来ているのですから」
百合子は、叱るような口調で望東尼を抱き起こした。
間もなく長州藩主から、反物と菓子の見舞い品が届いた。追いかけるように、藩主が指名した開業医師3人が、交代で枕元に付き添うようになった。
「まだまだ、そんなに早くは逝きませんから…」
この期に及んで、望東尼は強がりを忘れていなかった。
望東尼が体調を崩して寝込んでいるその瞬間も、世界はすさまじい勢いで動いていた。まさしく地殻変動である。
長州藩主父子に下されていた官位剥奪の処罰が、天皇の名のもとに取り消された。慶応3(1867)年10月13日である。将軍德川慶喜は京都の二条城にあって、上洛中の諸大名らに大政奉還についての意見を訊いた。そして翌日には、朝廷に対して大政奉還の上表を提出した。
世の動きは、年でもなければ月でもない。日・時刻単位で急変していくのである。薩摩と土佐藩が盟約を結んだ後、土佐藩主の山内豊信(容堂)が、大政奉還の建白書を幕府に提出した。間を置かずして10月15日、朝廷は幕府からの大政奉還上表を受理する。ここに、権力機構としての江戸幕府の使命は、実質的に終了するのである。
望東尼が、死に際まで気をもんでいた「倒幕」と「天皇による治世」の実現は、黄泉の世界に旅立つわずか10日前に実現したのであった。
望東尼は、息を引き取る寸前まで、和歌を詠むことにこだわった。次が、人生最期の歌である。
冬籠もりをして、こらえにこらえていた花が一斉に咲き満ちる春の到来です。(防府野村望東尼会=解釈)
駆けつけた藤 四郎の手を握り締めて望東尼は、絞り出すような声で訴えた。
「死ぬ間際に、四郎に言い残したいことがあります」
そこまで言って、喉が詰まり咳き込んでしまった。それでも藤 四郎は、辛抱強く次なる言葉を待った。
「私が死んだら後の遺体は、桑山の麓に埋めておくれ。これは、お世話になった長州への、せめてもの私の気持ちです」
望東尼は、生前博多の妙光寺に自分の墓を建てている。妙光寺は、野村家の菩提寺であり、夫貞貫が死んだ折、そばに置いてくれるよう住職に頼んで建てたものであった。それでも、自分の骨を野村家の菩提寺まで運んでくれとは言わなかった。
「私は、高杉さまや長州の方々から受けたご恩を決して忘れませんから」と言いたかったのだろう。
「それから…もう一つ。叶うものなら、死ぬ前に一度、海の向こう(九州)のお国に戻りたかった。あの平尾山荘の畳の上で死にたかった。喧しいほどの小鳥たちの鳴き声を聞きながら…。これだけは、かつて福岡の地で過ごした四郎にだけ言い残しておきたかったことです」
そこでまた、望東尼の声が止った。
「ハハウエには、もうしばらく生きていて欲しいです。貴女の願った夜明けは、すぐそこまで来ているのですから」
望東尼辞世の句碑(防府市桑山麓)
小刻みに震える望東尼の手を握り締めながら、藤 四郎が呟いた。そこにヒサが入ってきて、話は途切れた。二人だけの会話は、筑前の福岡藩で過ごした者にしか通じない情感であったろう。地獄だった筑前姫島の牢獄から救い出された後。長州に来てからは、一挙に天国に昇ったような待遇をいただいた。こちらの皆さまに、これ以上の贅沢を言える立場などあろうはずもない。でも本音は、死ぬときくらい、身内の者たちに囲まれていたかった。それが偽りのない気持ちでもあった。
「必ず、必ず、私が馬関海峡(関門海峡)の向こうまでお連れしますから。その間、あまり遠くへ行かないで、待っていてください」
藤 四郎は、向かい側に座っている荒瀬百合子と楫取ヒサに気づかれないよう、俯いたままで望東尼に話しかけた。
荒瀬百合子と楫取ヒサの献身的看護もあって、望東尼の容態は奇跡的に快復するかに見えた。が、すぐに危篤に陥る。その繰り返しが幾度も続いた。そして、周囲の者の問いかけにも反応しなくなる。慶応3(1867)年11月6日夜の五つ半(午後9時頃)だった。つきっきりの医者が首を横に2度振った。望東尼が永遠の眠りについたのである。62年の生涯であった。
望東尼の死後7日経って(11月13日)、薩摩藩主・島津忠義は、西郷隆盛以下3000人の藩兵を従えてお国を出立した。4日後の17日には、三田尻港に着岸して、先着の軍兵と合流する。11月23日には、錦の御旗をおっ立てて京都に入ったのである。
薩長同盟成立を仲立ちした坂本龍馬と中岡慎太郎が、京都河原町の近江屋で暗殺されたのは、その少し以前の慶応3年11月15日であった。
一方長州藩の軍兵は、1200人を乗せて三田尻港を出港し、西宮に留まって陣を構えた。続いて安芸藩も、11月28日に300人の軍兵が京都に入っている。
運命の12月9日は、十五代将軍德川慶喜が朝廷に対して政権を返上する歴史的な日になった。御前会議を開いて王政復古の大号令が発布された。ここに、江戸幕府の消滅と明治維新・新政府の第一段階が始まった。望東尼が死去して1ヶ月後のことである。
幕府による政権返上のその内容とは…
幕府・将軍職の辞職
京都守護職の廃止
摂生・関白の廃止
新たに、総裁・議定・参与の設置
というものであった。
望東尼は、浄土への道すがら、どのあたりでこの「大号令」を聞かされたのであろうか。そしてもう一つ。心から気にしていた、三条実美以下七卿は。慶応3(1868)年12月27日にすべての罪が許され、太宰府を発って京都に帰還したのであった。
国家体制が大きく変動する中、望東尼の葬儀は、桑ノ山麓の正福寺(禅寺)で執り行われた。故人に付けられた法号は、「始本院向陵望東大姉」。棺は多くの長州藩士や関係者に見守られて、桑山へと向かった。遺言通り遺体は火葬にはせず、桑山山麓に埋められた。これらすべての行事は長州藩の仕切りで進み、費用も長州藩主の毛利家が負担したとのこと。
野村望東尼の墓(桑山山麓)
その後、桑山大楽寺境内に、「正五位野村望東尼之墓」と刻した華々しい墓碑が建てられた。彼女が死去した後も、高杉の危機を救ってくれた恩を忘れない、長州人の心意気であったろう。
下関から門司港望む
時は更に進んで、明治20年代の中頃。歳の頃なら五十半ばの男が、徳山からの連絡船に乗り込んだ。船は穏やかな関門海峡を門司港に向かっている。心地よい海風を受けているのは、望東尼の最期を看取った藤
四郎であった。
息を引き取る間際に交わした、「必ず、馬関海峡(関門海峡)の向こうまでお連れしますから」の約束を果たすべく、ふるさと筑前への旅であった。望東尼の死後今日までの藤 四郎は、既に故人となった高杉晋作や楫取素彦などに、少しなりとも恩返しをと務めてきた年月であった。
顔を上げると、前方に門司の港が見えてきた。
「さあ、貴女が待ち望んだ筑前に着きますよ」と、手元の小箱に話しかけた。白布に包まれた小箱の中には、桑山山麓の土と彼女の辞世の句が納められていた。おわり
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