第4部 集う志士群


みやげ話

 文久2 年6月。望東尼は九州小倉に上陸した。半年ぶりの九州は、まるで別世界に降り立った気分であった。
 この間に実家の野村家は、代が孫の貞和からその弟助作に替わっていた。住居も杉土手から下警固村の立益町(りゅうえきのちょう)に移っている。立益町は、現在の地下鉄桜坂駅付近である
 平尾山荘に着くと、早速野村家の家族が集まってきた。そこでは、山ほど積もったみやげ話を披露した。話を聞こうと、藩の若者らも集まってきた。
 皆が帰ったあと、一人山荘の庭石に座り、あたりを見渡した。どうしてここだけがこんなに静かなのだろうと、不思議な感覚にとらわれる。

 追いかけるようにして、京都の馬場文英から便りが届いた。激しい政情の移り変わりが、こと細かに記されていた。馬場は、福岡に住む志士たちの動向も気になるようだ。


山荘に集まる志士たち

 そんな折、野村家の家督を継いだ孫の助作が中村恒次郎なる青年藩士を連れてやってきた。年齢を訊くと23歳だと答える。助作よりひとつ年上である。57歳の自分とは、母子ほどに離れている。
「おハハウエ、拙者にも京都の話を聞かせてください」と、子供がねだるような言葉付きで話しかけてくる。平尾山荘にやってくる若者は、望東尼のことを「ハハウエ」と呼ぶようになっていた。中村は、最近京都で起っている寺田屋騒動のことなどを知りたいようだ。
 望東尼は、昨日のことのように記憶している体験談を、間違えないように伝えた。日を置かずして山荘には幾人もの若者が集まってくるようになった。いずれも、自分とは母子ほどに年のは慣れた青年ばかりである。
 彼らは、望東尼の話を聞きながら、誰憚ることなく尊王攘夷論をたたかわせた。そんな若者に望東尼は、危うさを感じることはなかった。


辛酉の獄

帰郷後気になることは、京都で知らされた大蔵谷回駕のその後のことである。


平野国臣の像(福岡西公園)と平野の身なり(福岡市博物館)

あの時、福岡藩主の参勤を妨害したとされる福岡藩士の平野国臣は、藩の役人に捕まり、城下の枡木屋獄に繋がれたと聞いている。その後のことも気になり、伝手を頼りに、投獄されている平野宛てに激励の歌を贈った。

  たぐひなき声になくなる鶯は籠(こ)にすむ憂きめみる世なりけり

平野のことを籠に飼われている鶯にたとえている。日を置かずして、平野から紙縒(こより)文字で綴った返歌が届いた。

おのづから鳴けばぞ籠にもかはれぬる大蔵谷の鶯の声

正直、和歌詠みを生業とする望東尼にして、平野は驚くほどの才能の持ち主だと感服した。

その後出獄した平野は、幾度か望東尼に会おうとしているが、行き違いが重なって、果たせないでいた。その頃、平野が詠んだ歌である。

秋風の立わかるまのなごりにと山松が枝(え)に明日はおとせん

しばらくして、その平野国臣が山荘に現れた。風貌は想像していた以上に武士らしくない。公家かぶれとしか言いようがないほどである。月代は伸ばしたままだし、長刀だって刃を下に向けて腰に吊り下げているだけ。
「拙者、藩に奉仕している折、幾度か江戸藩邸勤番を命じられまして・・・。その際、剣術や国学など、それに和歌も少々勉強致しました。江戸を出るときは、袴や長刀ものやりようが性に合いまして、このような格好をしております
 望東尼も、平野国臣が枡木屋の獄に投獄されたところまでは聞かされていて、歌のやりとりを行ってきた。
「貴方は、島津久光公の遣いだと偽って、黒田のお殿さまに建白書を渡したでしょう。お殿さまだって、貴方を易々とお許しなさるとも思えませんよ」
「そのことについては・・・、どうやら、朝廷からのお力添えがあったようで」

 ひと通りこれまでの経過を聞かされたあと、望東尼が問うた。

「貴方が本日私の前に現れたわけは?」
「拙者、これより京に上ります。京では、馬場文英殿に会いたいと思っております故、貴女に紹介状を書いて欲しいのです」
 平野国臣の上京の目的を知って、馬場文英宛ての紹介状を書いた。

 大蔵谷回駕の後、福岡藩による尊皇攘夷派に対する監視はますます厳しくなった。志士たちの中心にいる月形洗蔵もその一人である。月形は、望東尼が生まれた御馬屋後の数軒先に住んでいて、彼がまだ幼い頃からよく知っている仲である。月形は3年前に、藩主に対して参勤の中止を求める建白書を提出した。そのことが藩の怒りをかって、三十余名の同士とともに、島流しの処分を受けることになる。だが、これまた平野国臣と同様に、間もなく全員の処分が撤回されたのである。
 平野国臣や月形洗蔵らが早期に釈放されたのは、いずれも朝廷からの指示でなされたものであった。

 ところが、それまで優位に働いていた朝廷における尊皇攘夷派の公卿らが、一日にしてその力関係を逆転させられることになる。尊皇攘夷派の急進派だった公家の三条実美(さんじょうさねとみ)ら七人が、朝廷を追われたのである。(八月十八日の変)


都落ちした七卿のうち、太宰府に居留した五卿

 公卿らは、雨の中を草履と簔だけの姿でみやこを追われた。同じく京都御所の護衛の役を剥がれた長州藩の兵士二千人とともに、西に向かったのであった。(七卿落ち)
「八月十八日の変」は、公武合体派の薩摩藩が京都守護職の任にある松平容保を動かして、八月十八日に、長州藩を中心にした尊攘急進派を追放した事件のことである。守護職は、長州の御所警衛を取り上げたうえ、長州藩主の官位と名誉をも剥奪した。
 望東尼のもとに馬場文英から、八月十八日の変とその後の、平野国臣や志士らの動きについて、動静が伝えられた。
 平野は但馬を経て、周防国三田尻に向かった。みやこを追われた三条実美ら七卿に会うためである。その時の胸中は、大和天誅組の決起に呼応して、幕藩体制に対する戦いを具体化するためであった。
 戦いの場は、但馬国の生野銀山である。現在の生野は、姫路から50キロ北方の兵庫県朝来市生野町である。平野は、三田尻に滞在中の七卿に会い、戦いの象徴として参加するよう要請した。その中で、内沢宣嘉から賛同を得た。いよいよ三田尻を発つにあたり、平野は望東尼に宛てて、歌を添えた訣別の書状を送っている。

  いく度か捨てし命の今日(けふ)までも残るは神の助けなるらむ

大王(おおきみ)にささげあまりしわが命いまこそ捨つる時は来にけり

 文久3年10月2日。平野国臣らは、三田尻を発ち決戦の場生野に向かった。その時既に、本隊(大和天誅組)は壊滅した後であった。だが、血気はやる尊攘派の志士らの意気が勝り、決戦に臨むことに。農民二千人を組織しての戦いであった。
 10月12日、平野らは、作戦本部とすべく生野代官所を襲撃して占拠した。これが、生野の変の始まりである。 だが、烏合の衆的味方勢では、代官所の守りには勝てなかった。平野の部隊は内部分裂も起こし、敗走することになる。僅か三日間の決起であった。総帥として立てた沢宣嘉も脱走した。残りの志士らも、自刃したりして部隊は壊滅する。
 平野国臣は、鳥取方面を目指して逃走したが、網場(現養父市)で豊岡の藩士に捕まった。その後、文久4年1月5日に京都の六角の獄に移された後、処刑された。六角の獄とは、平安時代に建設された京都の牢獄のことである。
 途切れがちながら、馬場文英からの頼りが、みやこからの唯一の情報である。中村円太も同時期に、脱藩の罪で捕縛されて、枡木屋の獄(福岡)に繋がれたという。平野国臣を失い、中村円太まで獄に繋がれていると知れば望東尼の気持ちも平静でおられるはずがなかった。


京都六角獄舎跡 

藩の大事件
 時は元号が文久3年から元治元年に移った。3月24日のことである。福岡藩内で二つの大事件が勃発した。 その一つは、藩の老臣・牧市内が、地行浜(現PayPayドームあたり)の海岸で暗殺されたこと。牧を斬ったのは、勤王志士であった。
 もう一つの事件は、その日の深夜、枡木屋の獄に繋がれている中村円太が脱獄したこと。中村の脱獄を手助けしたのが、二人の勤王派志士であった。
 勤王派志士が絡む二つの事件は、それまで、どちらかと言えば優柔不断にも見えた福岡藩主の態度を、決定的に幕府寄りに決めてしまうことになる。事件は平尾山荘での藩士の集まりに始まっている。談合の途中、中村恒次郎と小藤平蔵が席を立った。二人の行き先は枡木屋の獄舎であった。
 牢獄に押し入ると、中村と小藤は、獄吏に扉を開けさせて、繋がれている中村円太を解放したのである。小藤平蔵は小藤四郎の兄で、脱藩するまで枡木屋の牢で獄吏を務めていた人物。当日獄を開いた人物とは同僚の仲であった。
 重臣の暗殺と勤王派人物の脱獄という大事件が、偶然にも同じ日に重なった。しかも、両事件ともに勤王攘夷派の人物が絡んでいる。
 二つの事件は、対立する勤王派と公武合体派を並立させようと考えていた黒田藩主に、冷や水を浴びせることになった。
 望東尼の気がかりは、あの夜山荘での談合中、車座から抜け出した中村恒次郎と小藤平蔵の行方であった。三人の足取りについては、山荘に現れた若者の一人が教えてくれた。脱獄に成功した中村円太は、弟の恒次郎と小藤平蔵とともに、同士の家に匿われて難を逃れていた。
 その後三人は、対馬藩の飛び地である肥前国田代宿(現鳥栖市)まで逃げた。そこで、小田村文助と名乗る長州藩士に出会う。小田村は三人に、長崎まで同行することを勧めた。長崎に着いた三人は、商船に乗せられて防府の三田尻港まで送り届けられたという。

ここで登場する小田村文助こそ、後ほど望東尼の人生を決定づける存在となるのである。


高杉晋作を匿う
元治元(1864)年11月11日のこと。月形洗蔵が山荘にやってきた。長州の藩士を匿って欲しいとの頼みごとであった。匿って欲しいのは高杉晋作だと言う。高杉といえば、脱藩の罪で投獄されたり、奇兵隊を結成したりした、長州における攘夷派の中心的人物である。その後四国(英・仏・米・欄)連合艦隊による下関攻めを経て、和解交渉の長州藩正使となった大物でもある。
 翌日山荘に現れた高杉晋作は、想像した豪傑風とは似ても似つかぬ優男であった。望東尼は、男の顔と仕種を見て、強烈な衝撃を受けた。5年前にこの世を去った、夫新三郎貞貫と見紛うほどに似ている。そんなはずはないと自身に言い聞かせながら、「このような破れ小屋でよかったら」と承諾した。
 高杉晋作から、四国艦隊との交渉の成り行きなどを聞きながら、望東尼はため息をついた。
「勝手なものですね、お上のなさることは。気に食わなければ牢に入れ、場面が変われば、藩を代表する大役を担わせるのですから・・・」
 高杉の話は続いた。四国連合との交渉が一段落すると、長州藩内ではまたまた正義派と俗論派の論戦が始まった。幕府に対して抗戦を主張するのが「正義派」で、幕府に恭順であるべきと主張するのが「俗論派」だと分類された。正義派をリードしてきたのが高杉晋作である。
 長引く藩内の争いに嫌気がさした高杉は、地元の萩に引き下がった。それでも俗論派は攻撃の手を緩めなかった。たまらず萩を抜け出して下関の白石正一郎邸に身を潜めた。そのとき白石邸に留まっていた福岡藩の中村円太から、筑前行きを勧められた。中村円太は、枡木屋を脱獄した後、小田村文助に導かれて長州に渡ってきた福岡の脱藩志士である。


高杉晋作像(下関日和山公園)

 高杉は、勧めに応じて馬関(関門)海峡を渡り、門司の港に着いた。その後、月形らの助けを借りながら、肥前国の田代宿に到着した。田代宿に滞在中、佐嘉の鍋島など九州諸藩の大名に尊皇攘夷論を説き、倒幕の戦いに加わるよう説得を試みた。だがそれもうまくいかず、逆に高杉の身が危険にさらされることになった。

「それで、当平尾山荘に隠れようと…」

話はそこで途切れて、沈黙の時間が過ぎていった。その間望東尼は、目の前の男の表情を見つめたままであった。

「貴方には奥さまは?」

間を持たせるために、咄嗟に出た問いであった。

「萩に置いたままです」

この話は、次には進まなかった。
 狭い山荘では、客人との同居は狭すぎる。そこで、自分は実家の野村家に寝泊まりしながら、山荘に通うことにした。野村家から山荘までの距離は半里に満たない。女の足で通うにも、それほどきついことではなかった。山荘での高杉の世話は、和歌の弟子になった瀬口三兵衛に頼んだ。
 長州からの密書によれば、藩内での俗論派の勢いは、増幅するばかりであった。正義派三人の家老が、禁門の変を引き起こした責任をとらされて切腹させられた。それだけでは済まない。俗論派は、更に四人の参謀も打ち首の刑に処した。このままでは、藩内の正義派は決定的に追い込まれることになる。
 禁門の変とは、八月十八日の変で失墜した長州藩の勢力を回復するため、尊皇攘夷派の志士が藩を動かして京都に出兵。御所を護る薩摩と会津・桑名諸藩兵が、蛤御門周辺で激突した事件のことである。結果は長州藩が大敗して逃げ惑うことになった。その時の戦で、京都は大火となり、長州藩は朝敵とされ、長州征討が起こるきっかけともなったのである。
 平尾山荘に潜んでいた高杉は、同士からもたらされた密書に衝撃を受けた。一時も早く長州に戻らなければならない。
「今帰藩したら、待ち伏せしている俗論派の餌食になるだけですぞ」
 止める月形洗蔵らの声も高杉の耳には届かなかった。
「悲しいね、せっかく世の中のことを学ばせていただいたところだったのに・・・」
 望東尼は、高杉の滞在がたったの十日足らずでは、もの足りないと悔しがった。高杉が去った後まで自分のことを記憶に止めてくれる証を差し出したいと考えた末、夜を徹して高杉のための旅衣を縫った。両袖の裏には、自身が身につける襦袢の袖を切り取って縫い付けた。翌朝、旅立つ高杉に手渡すときのときめきを詠んだ一首である。

まごころをつくしのきぬは国の為たちかへるべき衣手にせよ

 山荘を去る高杉もまた、心を込めた漢詩を書き残した。

自愧知君容我狂  自ら()ず君我が狂を容るるを知る

山荘留我更多情  山荘我を留めて更に多情

浮沈十年杞憂志  浮沈十年杞憂の志

不若閑雲野鶴清  しかず閑雲野の鶴の清きに

賦呈

     東洋一狂生東行拝具(高杉晋作の署名)

望東君

突然飛び込んできた危険人物を、嫌がりもせず受け入れてくれた恩は終生忘れまいと高杉は誓ったのだった。そして、瀬口三兵衛に連れられて平尾山荘を去って行った。
 平尾山荘を後にする高杉晋作は、月形洗蔵らの身を挺しての援護で、無事長州藩に戻って行ったのであった。(第5部に続く) (第5部に続く)

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