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文久2 年6月。望東尼は九州小倉に上陸した。半年ぶりの九州は、まるで別世界に降り立った気分であった。 追いかけるようにして、京都の馬場文英から便りが届いた。激しい政情の移り変わりが、こと細かに記されていた。馬場は、福岡に住む志士たちの動向も気になるようだ。
そんな折、野村家の家督を継いだ孫の助作が中村恒次郎なる青年藩士を連れてやってきた。年齢を訊くと23歳だと答える。助作よりひとつ年上である。57歳の自分とは、母子ほどに離れている。
帰郷後気になることは、京都で知らされた大蔵谷回駕のその後のことである。
あの時、福岡藩主の参勤を妨害したとされる福岡藩士の平野国臣は、藩の役人に捕まり、城下の枡木屋獄に繋がれたと聞いている。その後のことも気になり、伝手を頼りに、投獄されている平野宛てに激励の歌を贈った。 たぐひなき声になくなる鶯は籠(こ)にすむ憂きめみる世なりけり 平野のことを籠に飼われている鶯にたとえている。日を置かずして、平野から紙縒(こより)文字で綴った返歌が届いた。 おのづから鳴けばぞ籠にもかはれぬる大蔵谷の鶯の声 正直、和歌詠みを生業とする望東尼にして、平野は驚くほどの才能の持ち主だと感服した。 その後出獄した平野は、幾度か望東尼に会おうとしているが、行き違いが重なって、果たせないでいた。その頃、平野が詠んだ歌である。 秋風の立わかるまのなごりにと山松が枝(え)に明日はおとせん しばらくして、その平野国臣が山荘に現れた。風貌は想像していた以上に武士らしくない。公家かぶれとしか言いようがないほどである。月代は伸ばしたままだし、長刀だって刃を下に向けて腰に吊り下げているだけ。 ひと通りこれまでの経過を聞かされたあと、望東尼が問うた。 「貴方が本日私の前に現れたわけは?」 大蔵谷回駕の後、福岡藩による尊皇攘夷派に対する監視はますます厳しくなった。志士たちの中心にいる月形洗蔵もその一人である。月形は、望東尼が生まれた御馬屋後の数軒先に住んでいて、彼がまだ幼い頃からよく知っている仲である。月形は3年前に、藩主に対して参勤の中止を求める建白書を提出した。そのことが藩の怒りをかって、三十余名の同士とともに、島流しの処分を受けることになる。だが、これまた平野国臣と同様に、間もなく全員の処分が撤回されたのである。
公卿らは、雨の中を草履と簔だけの姿でみやこを追われた。同じく京都御所の護衛の役を剥がれた長州藩の兵士二千人とともに、西に向かったのであった。(七卿落ち) いく度か捨てし命の今日(けふ)までも残るは神の助けなるらむ 大王(おおきみ)にささげあまりしわが命いまこそ捨つる時は来にけり 文久3年10月2日。平野国臣らは、三田尻を発ち決戦の場生野に向かった。その時既に、本隊(大和天誅組)は壊滅した後であった。だが、血気はやる尊攘派の志士らの意気が勝り、決戦に臨むことに。農民二千人を組織しての戦いであった。
時は元号が文久3年から元治元年に移った。3月24日のことである。福岡藩内で二つの大事件が勃発した。 その一つは、藩の老臣・牧市内が、地行浜(現PayPayドームあたり)の海岸で暗殺されたこと。牧を斬ったのは、勤王志士であった。 もう一つの事件は、その日の深夜、枡木屋の獄に繋がれている中村円太が脱獄したこと。中村の脱獄を手助けしたのが、二人の勤王派志士であった。 勤王派志士が絡む二つの事件は、それまで、どちらかと言えば優柔不断にも見えた福岡藩主の態度を、決定的に幕府寄りに決めてしまうことになる。事件は平尾山荘での藩士の集まりに始まっている。談合の途中、中村恒次郎と小藤平蔵が席を立った。二人の行き先は枡木屋の獄舎であった。 牢獄に押し入ると、中村と小藤は、獄吏に扉を開けさせて、繋がれている中村円太を解放したのである。小藤平蔵は小藤四郎の兄で、脱藩するまで枡木屋の牢で獄吏を務めていた人物。当日獄を開いた人物とは同僚の仲であった。 重臣の暗殺と勤王派人物の脱獄という大事件が、偶然にも同じ日に重なった。しかも、両事件ともに勤王攘夷派の人物が絡んでいる。 二つの事件は、対立する勤王派と公武合体派を並立させようと考えていた黒田藩主に、冷や水を浴びせることになった。 望東尼の気がかりは、あの夜山荘での談合中、車座から抜け出した中村恒次郎と小藤平蔵の行方であった。三人の足取りについては、山荘に現れた若者の一人が教えてくれた。脱獄に成功した中村円太は、弟の恒次郎と小藤平蔵とともに、同士の家に匿われて難を逃れていた。 その後三人は、対馬藩の飛び地である肥前国田代宿(現鳥栖市)まで逃げた。そこで、小田村文助と名乗る長州藩士に出会う。小田村は三人に、長崎まで同行することを勧めた。長崎に着いた三人は、商船に乗せられて防府の三田尻港まで送り届けられたという。 ここで登場する小田村文助こそ、後ほど望東尼の人生を決定づける存在となるのである。
元治元(1864)年11月11日のこと。月形洗蔵が山荘にやってきた。長州の藩士を匿って欲しいとの頼みごとであった。匿って欲しいのは高杉晋作だと言う。高杉といえば、脱藩の罪で投獄されたり、奇兵隊を結成したりした、長州における攘夷派の中心的人物である。その後四国(英・仏・米・欄)連合艦隊による下関攻めを経て、和解交渉の長州藩正使となった大物でもある。 翌日山荘に現れた高杉晋作は、想像した豪傑風とは似ても似つかぬ優男であった。望東尼は、男の顔と仕種を見て、強烈な衝撃を受けた。5年前にこの世を去った、夫新三郎貞貫と見紛うほどに似ている。そんなはずはないと自身に言い聞かせながら、「このような破れ小屋でよかったら」と承諾した。 高杉晋作から、四国艦隊との交渉の成り行きなどを聞きながら、望東尼はため息をついた。 「勝手なものですね、お上のなさることは。気に食わなければ牢に入れ、場面が変われば、藩を代表する大役を担わせるのですから・・・」 高杉の話は続いた。四国連合との交渉が一段落すると、長州藩内ではまたまた正義派と俗論派の論戦が始まった。幕府に対して抗戦を主張するのが「正義派」で、幕府に恭順であるべきと主張するのが「俗論派」だと分類された。正義派をリードしてきたのが高杉晋作である。 長引く藩内の争いに嫌気がさした高杉は、地元の萩に引き下がった。それでも俗論派は攻撃の手を緩めなかった。たまらず萩を抜け出して下関の白石正一郎邸に身を潜めた。そのとき白石邸に留まっていた福岡藩の中村円太から、筑前行きを勧められた。中村円太は、枡木屋を脱獄した後、小田村文助に導かれて長州に渡ってきた福岡の脱藩志士である。
高杉は、勧めに応じて馬関(関門)海峡を渡り、門司の港に着いた。その後、月形らの助けを借りながら、肥前国の田代宿に到着した。田代宿に滞在中、佐嘉の鍋島など九州諸藩の大名に尊皇攘夷論を説き、倒幕の戦いに加わるよう説得を試みた。だがそれもうまくいかず、逆に高杉の身が危険にさらされることになった。 「それで、当平尾山荘に隠れようと…」 話はそこで途切れて、沈黙の時間が過ぎていった。その間望東尼は、目の前の男の表情を見つめたままであった。 「貴方には奥さまは?」 間を持たせるために、咄嗟に出た問いであった。 「萩に置いたままです」 この話は、次には進まなかった。 まごころをつくしのきぬは国の為たちかへるべき衣手にせよ 山荘を去る高杉もまた、心を込めた漢詩を書き残した。 自愧知君容我狂 自ら愧ず君我が狂を容るるを知る 山荘留我更多情 山荘我を留めて更に多情 浮沈十年杞憂志 浮沈十年杞憂の志 不若閑雲野鶴清 しかず閑雲野の鶴の清きに 賦呈 東洋一狂生東行拝具(高杉晋作の署名) 望東君 突然飛び込んできた危険人物を、嫌がりもせず受け入れてくれた恩は終生忘れまいと高杉は誓ったのだった。そして、瀬口三兵衛に連れられて平尾山荘を去って行った。 |