No.010(k)

2021年10月10日

藩主の別邸
橋本八幡宮の遷宮

参考資料: 黒田藩主&橋本八幡歴史

 
橋本八幡宮の杜

 未だ直射日光が厳しい秋分の日の午後。室見川ほとりに鎮座なさる橋本八幡宮を訪ねた。人気スポット橋本・木の葉モールのすぐそばに建つお宮さんのことだ。土手の上から見下ろす景色は、いかにも「村の鎮守さま」にふさわしい。神さまは、古木が高さを競う森の中におわした。
 土手を下りて鮮やかな朱色の神橋を渡ると、目前に貫禄十分の拝殿が迫ってきた。拝殿の天井には、歴史を感じさせる絵馬が何枚も掲げられている。中には、文久元年(1861年)の日付も。大よそ160年前に描かれたものもある。


160年前に掲げられた絵馬

境内の樹木に圧倒

 由来版には、「このお宮さんは文明14年(1484年)に建立された」とある。大よそ550年も前だ。境内のあちこちに建つ祠や建物にそれぞれ奥深い由緒が詰まっていそう。鬱蒼と茂る高木(こうぼく)は槇や椎・杉などの常緑樹で、そのすべてがご神木にふさわしい。
 中でも夫婦槇は、他を寄せ付けない威厳を発しながら立っていた。いかにもお似合いの「ご夫妻木」である。

 
男槇


女槇 

 旧橋本八幡宮は、早良郡橋本村(現在は西区橋本2丁目)の氏神さまとして、長い間地元民に崇敬されてきたに違いない。真夏のような暑さから解放される静かな境内を、上を見たり横にすり寄ったりしながら、不思議の国の鎮守さまの歴史を探ってみた。


八幡さまの脇を流れる室見川

武家屋敷街の様相

 夫婦槇をすり抜けて北側の外に出ると、橋本2丁目の家並が広がる。八幡宮境内に隣接した住宅街の一帯には、「お茶屋の内」と呼ぶ古い地名が残っている。江戸時代、藩主(黒田家)が立ち寄る別荘茶屋があった名残りなんだって。かつて、藩主の立ち寄り場所としての御成り所や、年貢を取り立てるための代官所と蔵本屋敷もあったという。定規で計ったような直線の小路と各屋敷に設えられている白壁の蔵からは、とても農家の集落とは見えず、武家屋敷の跡のようだ。江戸時代から営まれてきた、お茶屋の内の伝統が、今も生きているからなのだろう。

 当時、御茶屋で下働きをしていた忠兵衛が浮かぬ顔。ご主人の黒田藩三代目藩主になる光之(二代目忠之の息子)は、ガキの頃からの親友である。その親友も、間もなくこの地を離れて福岡城の本丸で藩主の座につかれる。そうなれば、もう友だちなんて呼べない、遠い世界の偉いお殿さまになってしまうのだ。光之が福岡城の御殿に移動する際には、氏神さまもごいっしょに連れて行くそうな。これも、光之のたっての願いだって。八幡さまの移動先(遷宮)は、遥か下流の城下に移されることになる。そうなると忠兵衛は、親友を失うだけではなく、大切な氏神さままで失ってしまうことになる。忠兵衛だけじゃなく、橋本で生まれ育った村人たちの心に、大きな風穴ができて、隙間風が吹き込むことになるのだ。


黒田光之像(東長寺墓所掲示)


 
光之が去った後の橋本民は、毎日下流の八幡宮を遥拝(遠くから拝むこと)した。それでも収まらない忠兵衛らは、御茶屋のお武家さんに、なんとか八幡さまを橋本の地に戻してくれないかと頼んだが無理だった。
 遷宮先は、西新松原というところで、現在の西新パレスの敷地にあたる。光之のご信仰もあって、参拝客が絶えないとのことだった。


西新パレス裏手の紅葉八幡宮跡

八幡宮の歴史

 橋本八幡宮は、550年以前に遠い北の国から一族とともにやってきた柴田一族が、故郷の八幡神をお招きしてお祀りしたのが始まりだと言われる。鷹狩りなどで黒田の殿さまが立ち寄る場所が、「御茶屋」と呼ばれる藩主の別邸であった。二代目藩主(長政の長男)の忠之公もよく立ち寄られた。その際、お世話をした村の娘の美しさに一目惚れした忠之は、娘を側室にした。その娘との間に生まれたのが、三代目光之である。生まれた場所は、茶屋の内の柴田家累代の墓がある場所だ。橋本八幡を創建したあの柴田氏である。


黒田光之生誕の地

 橋本村に生まれた光之は、土地の氏神である八幡宮の境内をよき遊び場とした。忠兵衛が光之と親友関係になれたのも、八幡さまがよき遊び場所であったからである。だがそんな関係は長くは続かなかった。光之が成年に達する頃、城から将来の「三代目」にとお迎えが来た。忠兵衛との親友関係はここで途絶えることに。
「よかよか。わしが折を見て御茶屋に来るけん。そうそう、父上や家老には、鎮守さまに国の安泰を願いに行くとかなんとか言うて出てくるけん」
 光之は、橋本村を去る際に、淋しがる忠兵衛の肩を叩いて慰めたものだ。だが、いよいよ光之がお城に上がるとなると、忠兵衛との仲は引き裂かれ、八幡さまも一緒に城下へ連れていかれることになった。

八幡さまが戻ってきた

 数年後、二代目藩主の忠之が死去したことで、26歳の光之が三代目を継ぐことになった。その間忠兵衛は、幾度となく藩主となった光之公に手紙を書いた。橋本村の者は、朝晩橋本から連れ去られた八幡さまに向かって拝んでおります。それでも気持ちは落ち着きません。何とぞ八幡さまの分祀が叶い、再び橋本八幡さまがこの地にお戻り頂きますように、と。
 幕末も近くなって、橋本村の元の場所に「橋本八幡宮」が再建されることになった。光之公の計らいが及んだのであろう。村人がこぞって喜んだのはもちろんである。
 後日談であるが、明治43年(1968年)、西新にあった紅葉八幡宮は高取の現在地に再遷宮なされている。


現在の紅葉八幡宮

 橋本村の鎮守さまが、西新に移った後現在の高取に遷座される際、分祀が許されて再び橋本村に戻られる。それには、橋本村が福岡藩主との浅からぬ縁が関係するという深い事情があったからだ。
 まるで歌舞伎の世界を覗くようなストーリーに惹かれて、何度も八幡宮と隣り合わせの橋本2丁目一帯を歩き回った。町内はいずれも、ゆったりした敷地に建つ大きな家ばかりだ。しかも、家には立派な門とか塀が設えられている。もう一つ驚くのは、屋敷の離れに造られた倉である。目を真横に向けてみる。まっすぐ伸びた村中の道路は、車の離合がやっとの広さだが、途中鍵型に折れていたりする。そう、まるで時代劇に見る江戸時代のお武家屋敷街そのものだ。地元の人が「この一帯はみんな百姓家です」と応えられたのが、どうしても信じられない。


立派な門構えが印象的

 稿を書きながら考えたこと。生まれたときから近所に鎮守の神さまがあった。秋には、境内に絵提灯をぶら下げたやぐらが建って、家々ではお祭り饅頭がつくられた。その日は、遠くから親戚縁者が集まってきた。男どもは大声を上げて喋りまくり、女は土間と座敷を行ったり来たり。子供たちは貰った小遣いを握りしめて境内へと走り込む。懐かしい思い出である。
 ところで、鎮守(氏神)さまのことを「産神(うぶがみ)さま」ともいうが、どこがどう違うのか。字面から察するに、産土神即ち「産神さま」は、ウブナスなる親-先祖の地に祀られた神として、自分を含めた郷土・社会を護る神のことで、平安時代から受け継がれてきたものだとか。なんとなく、母親の匂いを思い返すような気持ちになる神さまではある。
 帰り際、再び室見川の土手に上がった。愛宕神社を経て博多湾に及ぶ室見川は、夏から秋への衣替えの途中で、澄んだ川面が涼しそう。土手の桜並木の葉が落ちるのも間もなくか。花見の時期には、必ず忠兵衛さんに会いに来るけんね。
(完)

表紙へ    目次へ