No.007(g)
2021年08月15日

神松寺の曲がり松

  この地に引っ越してきた時以来、「神松寺(しんしょうじ)」なる寺院の存在が気になっていた。福岡市の地図には町名はあるが、どこを探してもお寺さんの姿が見あたらない。ところがあるきっかけで、おぼろげながらその正体が浮かび上がってきた。
 油山観光道路を六本松から南下する途中、「御陵橋」なる場違いな名前の橋が架かっており、左折して橋を渡るとまっすぐ進んだ先の急階段のとっぺんに小さなお堂が見えた。鳥居の額には「老松神社」とある。どうやらそこが、神松寺の跡地らしい。


老松神社の急階段

 老松神社は、菅原道真公ゆかりのお宮さんである。道真公が都から大宰府に流されてくる途中に立ち寄った場所、だと由緒板には記されている。それで「神松寺」との関わりはと調べていくうちに、早良郡史なる古い資料の中に面白いお話しを見つけた。

永享年間(1429年~1440年)、この地に法尊南谷聖夷和尚によって医徳山神松寺が開かれ、神松寺は天文7年大宰府の祈願所となった。

 つまり、博多山笠の産みの親と言われ、宋からうどんやそばなどの製法を持ち帰って伝えたという聖一国師ゆかりの和尚が、天神の「神」と老松の「老」から字をいただいて付けたのが「神松寺」なる寺名だということになる。お寺の庭には、それは見事な曲がり松が植えられていたそうな。

現代と共通の疫病

  時代は、江戸時代の中期。この年は天候不順が続いて、麦や野菜の生育もままならない。困るのは生産者である百姓さんだけじゃない。消費者である博多の人々もひもじい思いの毎日だった。その上に、隣村で発生した疫痢が追い打ちをかけたものだからたまったものじゃない。疫病は、瞬く間にこの村に押し寄せてきた。昨日は隣のまさ坊が、今日はお向かいのカヨちゃんが、と可愛い盛りの子供の命が次々に奪われていった。令和の今日の新型コロナウイルスと状況がよく似ている。違うのは、当時の疫痢にワクチンなる特効薬は存在せず、感染したからには死を待つしかなかったということだった。

※疫痢:3歳から6歳くらいの子供に見られる細菌性赤痢の一病型。発熱・嘔吐・ひきつけ・意識混濁などを呈し、死亡率が高かったが、近年、重症例は少ない。(三省堂大辞林)

 疫痢の流行で、医者の五平太は患者の家を回り大忙しだった。子供を励まし親に元気づけるのも医者の大事な仕事であった。夜鍋して薬草の調合を終えたら、夜明けとともに駆けだして患者のもとに。4歳のトキオがほっぺを真っ赤に染めて、口から泡を吹きながら悶えていた。五平太は、手におえないと分かると、村人と一緒になって神頼み。片江村の寺に集合して、頭を床にこすりつけながら祈り続けた。
 日も暮れて月明りを頼りにやっと帰路につく。すすきの原を歩いていると、前方に誰やら人影が。
「どなたですか?」と声をかけると、振り向いたのはうら若い娘。それも、これまでに見たこともないほどの別嬪(べっぴん)さんだった。

「お願いです先生、助けてください」と、娘は五平太にしがみついてきた。話を聞くと、「おっかしゃん(お母さん)のお産が大変で、死にそうなんです」だって。「そりゃ、大変だ」と、門構えが豪華な長者屋敷に。部屋では、母親がもだえ苦しんでいた。
 翌日も五平太は、気になって長者屋敷に近づいた。
「先生のお蔭で、おっかしゃんは無事赤ん坊ば生むことができました。おとっちゃん(お父さん)も大変喜んで、先生にお礼ばしたかち言いよるとです」と、五平太の手を取って屋敷の中へ。座敷には、これまで見たことも食べたこともないご馳走が用意してあった。主人らしい男が出てきて、最敬礼をした。満腹の上に上等の酒もいただいて、いい気持ちの五平太に主人が話しかけた。「お礼によかことば教えまっしょ」と。「いまはやっとる疫病には、峠の曲がり松の葉ば黒焦げにして飲ませると効くらしかです」と。五平太は、話半分聞いて帰った。



御陵橋

 村中を襲った疫痢は、止めどなく子供たちの命を奪っていった。ありとあらゆる薬草を投入してもどうにもならない。そんな時、昨夜の長者屋敷の主人が発した言葉を思い出した。五平太は、「曲がり松の葉を黒焦げに焼いて飲ませろ」と子供の母親に告げた。小首を傾げる母親に、「騙されたち思うて…」と念を押して次の家に。そこでも同じことをしゃべって、また次へ。一日中走り回って「曲がり松の葉」を宣伝した。
 半信半疑で聞いていた村の人たちも、一か八かの賭けだと思って松の葉をむしり取り、黒焦げになるまで焼いて飲ませた。すると、村中の親たちが曲がり松に集まってきた。
 不思議なことに、松の葉っぱ汁を飲んだ子は、翌日には熱が下がって、3日後には遊びに出るまでに回復している。そして、猛威を振るった疫病も、村から退散した。


老松神社の階段脇

「よかった、よかった」。平熱に戻った子供の手を引いて、お礼を言おうと五平太を尋ねるが、そこに建っているはずの五平太の家が見当たらない。家だけじゃない。肝心の五平太の姿もどこにもない。葉をむしり取られた曲がり松だけは淋しく立っていた。
 後日、酔っぱらいの男が千鳥足で帰る途中、松の木の根元で野ギツネの兄妹がじゃれあっているところを見たというが、それも確かではない。

 結局、五平太は村からいなくなりました。村人たちは、子らの命を救ってくれた五平太と曲がり松に感謝すべく、枯れた松の跡にはやしろを建てて、老松社を招聘したのです。
 それにしても、五平太までが、どうして村から消えてしまったのか。村人の疑問はつきません。
「おおかた、先生の正体も、人の姿を借りたキツネだったのかもしれまっせんな」と言い出すものも。
「それなら、先生が言っておられた別嬪さん親子とはいったい…?」
「あれも、みんなキツネじゃなかかね。お世話になった村のもんにお礼ばしたくて、疫痢の薬ばくれたんじゃなかろうか」
ということで、話はおしまい。


作者が撮ったキツネ

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