都会の中のトーキビ畑
福岡の城南区には「七隈(ななくま)」という地名があります。七隈があれば「六隈」だって「八隈」だってあってもおかしくはないはず、と思い資料をめくってみました。すると、ありました、「八ノ隈」という地図にないむかしの地名が。そこは、油山を水源とする一本松川(樋井川の支流)のすぐそばでした。
その八ノ隈には、南北朝時代に発生した戦(いくさ)にまつわる言い伝えがあります。
その一つが、八ノ隈の急な坂道のことです。坂には真っ赤なバラの花びらが落ちているようだったから「薔薇の坂」と名付けられたとのこと。二つ目は、八ノ隈に自生する蕗(ふき)やワラビなどを食べると、発狂したり自殺者が出るけん食べたらでけんばいだと。古老たちの間では、「八ノ隈からは何も採ってきちゃならん。大ごとになるけん」と囁かれていたそうです。それもこれも、どこまで信じてよいものやら分かりませんがね。
今回のお話の舞台は、かつて八ノ隈と呼ばれた、現在の福岡市城南区大字堤あたりです。地名が「つつみ」ということもあってか、このあたりにはやたらと溜池が多いです。平坦な土地が見当たらないほど油山から続く丘陵が波打っています。700年前の記録だと、八ノ隈には田んぼが14町歩、畑が2町歩もあったそうです。丘陵地帯で田畑を営むのに欠かせなかったのが、大量の水だったのでしょう。畠には唐の豆(そら豆)などが植えられていたそうです。ボクが子供の頃には、「とんまめ」と言っていました。
堤の丘陵地帯にある調整池。後方は「油山」
丘の上のお寺では
建武の時代、丘の上に文殊院というお寺さんが建っていた。寺で暮らすのは、東光和尚と小僧の善念。
「いやじゃ、いやじゃ。多々良ヶ浜では、都から下っておいでの足利尊氏(あしかがたかうじ)さまと、大宰府の少弐さまが、激しく戦われたそうじゃ。戦いは多々良川から太宰府に向かってますます激しくなっておるとか。 …聞いておるのか、おい善念よ」
いつもの和尚さんの独り言だと思い、丘の下のお里さんのことばかり考えていた善念。「はい! すぐにお茶をお持ちいたします」と、見当違いの返事をしてしまった。
「なにを寝ぼけておるのじゃ。お茶はいらんから、下の畑から唐の豆(そら豆)とトーキビ(トウモロコシ)ば採ってきてくれ」。やっと目が覚めた善念、げんこつをいただかなくて済んだ分だけ儲かったと、その後の動きは速かった。
鎧兜のつわものどもが…
竹籠を肩に担いだ善念、庫裏を出るなり転がるようにして丘を下っていった。文殊院所有の畑は、現在の堤四つ角近くにあったそうな。大人の背丈ほどに伸びた茎には、立派な赤ひげを持つトーキビが重なりあうようになっている。トーキビの次は唐の豆。次々と肩に担いだショーケ(竹籠)に放り込んだ。
その時である。寺と反対の方角から鎧(よろい)をまとった二人の男が、トーキビ畑に潜り込んできた。男らは、盛り上がった畝(うね)の根元めがけて放尿を開始した。
「確かにこの辺に逃げ込んだはず。捜せ、捜せ」。今度は、追いかけてきた男五人が畑に侵入してきた。善念は、ガタガタ震えながら「南無阿弥陀仏」を繰り返した。
その時である。畑の中央あたりからなんとも低温の、しかも迫力のある爆音が鳴り響いた。「ぴゅ~っつ。バリバリ」。先入者の一人が、我慢しきれなくてお腹に溜まったガスを爆発させてしまったのだ。トーキビ畑がかすかに揺れて、異様な臭いが周囲に漂った。
「おったぞ、敵の奴らが。こっちだ、こっちだ」。おならの爆発音で見つけた二人を捕まえた五人組が、その場で首を刎ねたあとさっさと立ち去った。
善念が現場に近づくと、斬られた男らの喉元からはどす黒い血が噴き出している。「ギャーッ」。次の叫び声は善念である。
戦は嫌じゃと村あげての供養
善念からの報告を聞いた東光和尚。村人を集めて対策会議を開いた。まずは、唐の豆畑に倒れている二人の遺体を寺まで引き上げて、村を上げての供養をやり遂げた。
「戦(いくさ)はいかん。これからも永久に、人が人を殺めてはいかんのじゃ」。和尚は、南無阿弥陀仏を繰り返しながら村人に説いた。そのうえで和尚は、「この度の事件を契機に、世の中から戦をなくすために」との願いをこめて、八ノ隈(堤村)では今後唐の豆をつくらないことを申し合わせた。
堤インター付近の幹線道路
今では、堤の周辺には自然の姿が少なくなり、縦横に幹線道路や高速道路が這いずり回っています。あちこちにあった溜池(堤)も埋め立てられて、団地付属の公園に様変わりしていました。堤インターで高速道路に乗ると、掲げられた「天神まで14分」の案内板が、妙にリアルに感じられたものです。(完)
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