No.004
2021年07月18日

 現在の国道202号線は、ひと昔前まで「202号線バイパス」と呼んでいた。それまでの「本線」は、福岡天神を出て西新から長垂海水浴場を経て前原(現在の糸島市)に向かった。現在は六本松から荒江団地を経由して今宿あたりで旧本線と合流している。
 むかし唐津方面から福岡城下に向かう旅人は、樋井川を渡って、彼方に見える六本の古松を目印にしていたらしい。その六本松は、お城の外周部にあって、下級武士や船頭さんらが多く住んでいたと記録されている。動物園の丘を見上げるあたりから、谷-桜坂-六本松1丁目~4丁目の再開発された新都心までを散策すると、起伏に富んだむかしの町の様子を偲ぶことができる。
 今回紹介する「弓の馬場」は、その六本松を間近にした別府4丁目付近に残る旧地名である。

  福岡市営地下鉄七隈線の別府駅から西へ1㎞進むと、「弓の馬場」という交差点に行きつく。当時、交差点から南に入ると、そこは松や雑木が生い茂る静かすぎるほどの森が広がっていた。それが、昭和30年代に入った頃から、大規模な集合住宅や学校の建設が相次いだ。そんな町の様子が一変する大工事の最中に、変な事件が多発した。学校の教員が授業中に突然倒れて亡くなる。子供たちが連続して交通事故に遭う。成人の男性が行方不明になる。なぜか地域限定の疫病が…、出来事は止みそうになかった。
 
町在住の古老や学者たちが集まって、不幸な事件の原因を考えた。古老らは、このあたりが江戸時代までいんのばば(犬射馬場)であったと言い出した。いんのばばとは、放たれた野良犬を、武士が馬上から追いかけて射ぬくという武術のことだ。固定された的を馬上から射る神事の流鏑馬(やぶさめ)とくらべて、あまり気持ちの良い訓練とは言い難いものだった。
 そんな武士の修練中に起こった出来事が、この度の不幸にのしかかっているのではないかと、古老が言うのである。

 古老が言う、江戸時代の出来事とは…

 
塚のお地蔵さん

 弓の馬場交差点から南に入り込んだあたりが、今回のお話の舞台である。下級武士が住む住宅街の向こうは、うっそうとした森が広がる丘陵地帯である。そんな街はずれに造られた馬場とは、長さが25間(45m)、幅は6間(10.8m)の細長い修練場だった。乗馬した武士は、修練場に放たれた野良犬を追いかけて矢を放つ。命中された犬は、その場でお陀仏に。まさしく「犬追いもの」でした。想像するに、あまり気色のよい光景ではない。

自分の罪を部下にかぶせて

「疲れたない」と班長クラスの与太平衛が、草の上に寝転んだ。すると後からやって来た亮太が、「大将、よかことば教えてあげまっしょか」と誘った。少々犬追いにも飽きていたほかの15人も、悪だくみに乗ってきた。全員の同意を得たところで、亮太が雑木林の中から、一升徳利を抱えて出てきた。与太平衛以下舌なめずりが止まらない。徳利の酒を飲み終わったところで、手拍子付きの流行り歌まで飛び出した。そこでやめておけばよいものを、一度味を占めた連中の欲求は止まらなくなった。翌日も徳利を引っ張り出した。そのうちに、犬追いなど「本業」のことなど忘れてしまったかのように、朝から宴会が続くようになった。
 そんなよからぬことがいつまでも続くわけがない。突然師範役の森次郎衛門がやってきて、宴会現場を押さえた。ところが、森次郎衛門ときたら、与太平衛以上に酒が好きで、形苦しいことが嫌いな性質(たち)の持ち主であった。次郎衛門は、17人の武士に訓練を命じた後、一人隠れて彼らの酒を飲み始めた。おさまらないのは、酒を盗まれた与太平衛たち。次に強要されたとき、酒の代わりにどぶ水を差しだしたものだから、ことはおさまらなくなってしまった。
 自分の仕業は棚に上げ、師範の森次郎衛門は部下の所業をお城の上司に訴え出た。「与太平衛らが、犬追いもの修行をさぼって、昼間から酒を飲んでおります」と。お城では、与太平衛など17名を即日打ち首にするよう森次郎衛門に命じた。馬場脇の松林の中で首を落とされる17名は、次郎衛門を睨みつけながら、この世から消えていった。

 その後、馬場周辺の森の中では、怪しげな炎がゆさゆさと走り周り、気持ちの悪いうめき声が木霊(こだま)したりする夜が続いた。

 いんのばばでの祟りは、120年以上も経てからも治まっていなかったのだ。頭を抱えて考える古老や学者たち。そこで町では、ここは神仏に鎮めていただくしかないとの結論に至り、大がかりな祈祷が幾日も続いた。ある日のこと、祈祷中の住職がうめき声を発した。
「目の前に、髪を振り乱して血の気の失せた武士が17人も現れております。彼らは、低いだみ声で、『我らは戌神(いぬがみ)などではない。れっきとした黒田武士でござる。我らの不始末を師範役がお城に訴え出たために、首を斬って落とされました。我らと同じ罪を犯しながら、訴え出た師範には何のお咎めもござらぬままです。我ら下っ端だけが罪をかぶせられ、戌神大明神(いぬがみだいみょうじん)として葬られたのは納得いき申さぬ。戌神では供養をしてくれるものもなし。故に未だ成仏できないままであの世とこの世の境をさ迷っておる次第』とのたもうておるのです」
 そこで住職の声が止まった。何事かと皆の衆が覗いてみると、住職は祈願する姿勢のままで気を失っておいでだった。


塚地蔵堂(向こうの建物が別府小学校)

「そう言われれば、わしらがガキの頃、森の中に盛り土ばして『戌神大明神』と書いた石碑が立っておったのを思い出した」と、出席者の一人が素っ頓狂な声を発した。そこで町の衆は、工事中の現場を捜しまわった。そこで工事現場から出てきたものが、「戌神大明神」の石碑であった。石碑を掘り起こして別の場所に埋め、その上に地蔵菩薩像をお祭りした。「それが今日、別府小学校の正門脇においでの塚地蔵大菩薩(つかじぞうだいぼさつ)さまというわけでございます」
 このお地蔵さま、令和の時代の今日も、ご近所の方々や学校関係者・生徒たちの守り神として敬われています。

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