アカチどんのお墓

  
 筑紫次郎がふるさと筑後川を後にして、筑前国はふくはく(福岡・博多)に引っ越してから久しい。 人口154万人の福岡市には、街中を流れる一級河川というものが存在しない。すべては、街を取り巻く山から噴き出した水が市内を流れて博多湾に注ぐ短い中小河川ばかりだ。
 福岡がこれほどまでにでかくなったのも、そんなに遠い昔のことではない。油山を水源とする諸二級河川の大半は、戦前まで農業地帯であった。「樋井川」なる川名は、川を板樋を使って農業用水を送っていたことからつけられたものじゃないかな。そして博多湾に面する川下はというと、そのむかしは入江が現在の街中まで入り組んでいて、複雑な地形をなしていたらしい。「草香江」とか「片江」とか「荒江」とか、やたらと
のつく地名が残るのも、そのためだろう。いずれにしても、ふくはくという場所は、歴史的にも奥の深い地である。
 筑紫次郎の世界でお伝えしてきたふるさと
筑後川ともども、その奥深さを知っていただければ幸いです。
 

No.003
2021年07月11日

あかちどんのお墓

 福岡市の南部六本松から油山にかけて、やたらと菊池一族の足跡が目につく。「赤地殿(あかちどん)の塚」もその一つだ。「赤地殿の塚」とは、油山登山道の入り口当たりに居座る巨石に彫られた碑のこと。菊池一族とは、平安時代から戦国時代にかけて、九州の肥後国(熊本県)を中心に栄えた武士の集団である。
 彼らは、国の政治が南北に分裂した時代(南北朝時代)に南朝方にあって、足利尊氏(あしかがたかうじ)勢と戦ったことで知られる。特に、福岡市東区の多々良浜の合戦は有名だ。本編は、多々良浜での戦い以後現福岡市内(中央区桜坂~六本松)に舞台を移しての一族の奮闘ぶりを記録したものである。
 地下鉄七隈線の七隈駅近くに祭られている「菊池神社」との関わりが「赤地殿の塚」に関係あるのかどうかも、非常に興味深い。


菊池神社

 石碑に刻まれている「赤地殿」とは、通称「あかちどん」と呼ぶ人名で、鎌倉時代末期に菊池一族に君臨した赤星三郎有隆のことだそうな。肥後(熊本)のお侍さんの墓が、筑前博多の油山にあるのはなぜか。

 元弘3年(1333年)というから、今からおおよそ700年もむかしのこと。流刑先(るけいさき)の隠岐島(現島根県)を脱出した後醍醐天皇(ごだいごてんのう)は、諸国大名に向けて、鎌倉幕府の打倒を呼びかけた。これに応じた足利尊氏(あしかがたかうじ)が、幕府方の六波羅探題を攻略した。一方、上野(こうずけの)国(現群馬県)にあった新田義貞(にったよしさだ)も、兵をあげて鎌倉を攻め落とした。そこで、鎌倉幕府は完全に消滅する。
 丁度その頃、北部九州では…
 元弘3年(1333年)3月13日だった。肥後の菊池武時は、鎮西探題(ちんぜいたんだい)に居する北条英時を攻めていた。ところが、味方だったはずの少弐貞経(しょうにさだつね)と大友貞宗に寝返られて、博多西方の馬場頭(ばばがしら=桜坂・六本松)まで追い詰められて殺された。菊池軍の中にあって、大将である武時を護衛していたのが赤星三郎有隆であった。
 赤星は、主人の憤死を確かめると、即刻馬首を南に向けた。彼には、大将に万が一のことが起こった場合に、肥後の菊池家への伝達をという役割が課せられていたのである。

六波羅探題:鎌倉幕府の職名。1221年承久の乱の折、幕府軍を率いて上洛した北条泰時が、戦後京都の六波羅にとどまったのに始まる。
鎮西探題:鎌倉時代の地方職名。元寇防備と九州統治のため博多に設置。九州における北条氏専制を一層強化した。
多々良浜の合戦:南北朝時代、足利尊氏の勢力回復の転機になった戦闘。九州に敗走した尊氏は、福岡東北の多々良浜で菊池、阿蘇氏らの大軍を破り、九州で勢力を養って東上。
馬場頭:昭和9年~42年の福岡市中央区の町名。元は福岡市の一部で、「谷」の字名であった。昭和42年、桜坂1~2丁目、六本松1~3丁目となる。


現在の多々良川河口(浜)

 こちらは油山麓の東油山の赤地という場所(現在の駄ヶ原あたりか)。夜明けとともに起きだした百姓の友吉が、裏の田んぼに向けて勢いよく放尿を開始した、その時であった。目の前のぬかるんだ田んぼに、鎧を身に着けた男がうつぶせになって倒れているのが目に入った。びっくりしたのなんの。草むらでは、兵馬が黙々と草を食んでいる。
 怖さ半分で近づいた友吉が覗き込むと、男の顔には少しだけ赤みが残っている。「まだ生きている!」と思って抱き起した。男は、虫の息ながら一言二言友吉に願いごとを伝えながら、懐から巻き物を取り出したのちに息絶えた。
 文字が読めない友吉は、危なっかしい足を引きずりながら村長(むらおさ)の屋敷に飛び込んだ。そのうちに、武将の遺体を村の衆が取り囲んだ。
「このお侍さんの名は、肥後の菊池武時さまのご家来の赤星有隆ちいうそうだ」、村長は、友吉から受け取った文の内容を村の衆に説明した。
 命を懸けてお守りした大将が殺されて、自分(赤星)は予定通り戦場を離れた。それから田島往還に出て南へ。戦っている最中にかなりの傷を負っていて、これ以上馬を走らせることは困難であった。目の前に油山が立ち塞がったところで、耐えられず愛馬から転げ落ちたのだ。
 菊池武時が書き残した巻物には、鎮西探題を攻めるまでの経過がこと細かく記されていた。村の衆は、これも何かの縁と考えて供養することを決め、落馬したすぐそばに穴を掘って丁重に弔った。埋葬した土の上には高さ3尺・幅1尺2寸の石碑も建てた。石碑には、「赤地殿の塚(あかちどんのつか)」と彫った。
 村では、赤星の死んだ3月13日を命日と定めたうえで、村長の計らいで、友吉が肥後に出向いて菊池武時と赤星三郎の死を伝えた。菊池一族も赤星の遺族も感謝を忘れず、毎年命日の3月13日には「赤地殿」の墓参りを欠かさなかった。


駄ヶ原から見上げる油山

 年は下って、時代は明治へと移ります。赤星三郎を弔った友吉の子孫も、今では「大神」という立派な姓を名乗っていらっしゃる。大神家の人たちは、仏壇に「赤星三郎有隆之霊位」と書いた位牌を据えて、大神家の先祖と同等に供養を怠らなかったといいます。
 大神さんの気持ちは変わらなくても、世の中はどんどん変化していくもの。昭和の時代になって、「赤地殿の塚」も、新しい道路の建設のために移転を余儀なくされることに。今では西鉄バス停「駄ヶ原(だがはる)」のすぐ近くに移されました。でも「赤地殿の塚」の石碑は、むかしと変わることなく、油山を見上げる位置に悠々と立っています。
 この話を書き残された郷土史家の副田虎王一さん(故人)は、「歴史の証しとして碑が建てられ、先人が息づいたふるさとの歴史を記録として残し、そこから時代の移り変わりを遡る醍醐味を味わえた」と後書きに残された。

<関連サイト>  伝説紀行第35話 大刀洗の由来

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