筑紫次郎が、ふるさと筑後川を後にして幾年月。筑前国はふくはく(福岡・博多)にたどり着いてからも久しい。人口154万人の福岡市には、街中を流れる一級河川というものが存在しない。すべては、街を取り巻く山から噴き出した水が、市内を流れて博多湾に注ぐ短い中小河川ばかりだ。
 福岡がこれほどまでにでかくなったのも、そんなに遠い昔のことではない。油山を水源とする諸二級河川の大半は、戦前まで農業地帯であった。「樋井川」なる川名は、川を板樋を使って農業用水を送っていたことからつけられたものじゃないかな。そして博多湾に面する川下はというと、そのむかしは入江が現在の街中まで入り組んでいて、複雑な地形をなしていたらしい。「草香江」とか「片江」とか「荒江」とか、やたらと
のつく地名が多いのも、そのせいだろう。いずれにしても、ふくはくという場所は、歴史的にも奥の深い地である。
 筑紫次郎の世界でお伝えしてきたふるさと
筑後川ともども、その奥深さを知っていただければ幸いです。
 

No.001


2021年06月27日

享保の飢饉が筑紫を襲う

 福岡市営地下鉄の七隈線が、終点・橋本に到着する少し手前の賀茂駅。駅名からして、京都の下鴨神社(賀茂御祖神社=かもみおやじんじゃ)を連想する。駅ホームから地上に上がると、市内を取り巻く外環状道路が走っていて、すぐ脇を室見川の弟分を自認する金屑川(かなくずがわ)が流れている。水源の油山から下りて来たばかりの川だが、水は澄み、生い茂った水ぐさが川面を塞いでいる。途中、別の小川と合流するところに小さな公園があり、名前をなまず公園というそうな。公園の向こうに見える森が、目的の賀茂神社なのだ。


金屑川。前方の森は賀茂神社

 神社の住所は福岡市早良区賀茂1丁目で、昭和29年に福岡市に吸収されるまでは、早良郡田隈村大字に属していた。大むかしから米と養蚕が盛んなところだった。賀茂神社の創建は相当に古いようで、1200年前まで遡らなければならないとか。その間、村民が捧げる年貢は、京都の賀茂御祖神社に納められてきた。そこで、標題のなまず賀茂神社の関わりだが…。

 享保年間。筑紫の国を大飢饉(ききん)が襲った。冷害・長雨など天候不順で稲作が大打撃を受けた福岡藩だけでも10万人もの死者が出るほどだった。(山川出版社刊/福岡県の歴史)
 ここ免村とて無事で済むはずがない。人々は、次々に持ち込まれる死者の弔いで疲れ果てていた。気持ちは鎮守さま(賀茂神社)に向って「助けてください」と祈り、ひれ伏すばかりだった。令和の世のコロナカ禍だって大変なのに、300年前の享保の飢饉はいかばかりであったろう。


京都賀茂神社

救いは神さま

 庄屋の吉兵衛さんを中心に村の顔役たちが集って真剣に協議中。
「このまんまじゃと、子供たちまで死んでしまい、村が滅びる。ここは、親神(おやかみ)さまにおすがりするしかなかろうばい」ということになった。親神さまとは、賀茂神社の親方筋にあたる京都の賀茂御祖神社(かもみおやじんじゃ)、つまり下鴨神社のことで。吉兵衛さんと3人の世話役が、各家から集めた米を担いで京に向かった。


京都下鴨神社の申餅

 朱色の大鳥居を潜るとすぐに、3人は神前に膝まづき、「どうぞ免村をお救いくださいませ」と祈った。三日三晩の寝ずの祈りで、3人はその場に伏せたまま意識を失った。
「そこな、筑紫のものどもよ」、呼ばれて顔を上げた吉兵衛さんに、烏帽子(えぼし)から足元まで微動だにしない大男が聞きなれない京言葉で語りかけた。
「汝らの艱難辛苦(かんなんしんく)の様子、ようわかりました。ならば、困難から抜け出すええ方策をお教えいたしましょう。よろしいか。汝らの地元の神さんのそばに川が流れておますやろ。その川に住むなまずさんを呼び出して、お願いしなはれ。お救いくださいませとな」
「はい、わかりました、神さま」と返事したところで3人が目を覚ました。もちろん、目の前に神さまなどおられようはずもない。
 吉兵衛さんらは、京見物も省略して急ぎ免村に帰ってきた。

なまずの神さま

 免村のもの全員が金屑川のほとりに集った。庄屋の吉兵衛さんが、「これからお迎えするなまずさまは、親神さまのお使いである」と唱えた。振り向くなり川面に向かって大声でなまずさまを呼び出した。すると、川の中央部が波立ち、長さが1メートルはありそうな大なまずが、2本のひげを逆立てながら直立した。
「どうぞ、おたすけ下さい。あなたさまの言いつけなら何でも聞きますゆえ」。吉兵衛さんが、頭を地面にこすりつけた。すると、不思議なことに立ち上がったなまずが、自慢のひげを震わせながら、超低音で吉兵衛さんに話しかけたのだ。
「私は賀茂御祖神社のご祭神さまの言いつけでここへ参った。今後は、我がなまず族をいっさい食しないこと、この川を決して汚さないことを守るなら、そなたらを難儀から救って進ぜよう」
「ははあ~つ」。一同が再び頭を上げたとき、そこにはもうなまずの姿はなかった。
 その直後、油山から湧きだした黒雲が慈雨を降らし、飢餓も収まった。以後今日まで、免村の人はなまずを獲って食べることはしなくなった。(完)


賀茂神社境内の石碑

【なまず伝説】

 伝説・民話の世界では、なまずを神格化することが多い。秋篠宮はなまずの研究で有名である。本サイト「筑紫次郎の世界」でも、なまずは何度か登場する。代表的なのが「七霊の滝」だ。落ちぶれた平家の女官らが、絶望を察知し、現世と源氏に恨みを残して滝壺に身を投げた。その後彼女らは、なまずに変身して現世を睨み続けた。土地の人たちは、祟りを怖れて後の世までなまずを食しなかったという。

   川上峡のアユ   NO.202   佐賀県大和町
   七霊の滝      NO.133   みやま市

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