| 高野山詣でと祇園祭り |
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「高野山詣でと祇園祭りの旅は如何」懇意にしているクラウン観光社からご案内をいただいた。以前から是非お参りしたいと思っていたので、我らはこの企画にのりました。 平成一五年七月一五日、羽田空港八時四五分発伊丹空港へは、九時四五分についた。天気は快晴。総員三一名は、バスに乗り込み中国・近畿道を一路大阪へ。阪和道から和歌山、橋本を抜け九度山で昼食。バスは坂道を喘ぐように上り海抜八〇〇の宗教都市高野町高野町、(注1)に入った。やがて奥の院への参道へ。健脚組は鬱蒼とした古木・杉林等、四三万以上の墓石群や卒塔婆を見ながら歩く。入り口近くには、あの「鶴田浩二」のお墓があった。一二〇〇年以上の歴史を持つこの聖地。苔むして鳥居の奥にある墓石。お墓も神仏混合(注2)で、徳川将軍家や島津家などのお墓も。昔の歴史を見ているような境地。得意のデジカメでパチリ。水洗い地蔵の前でバス組と合流する。御廟橋を越えると霊場奥の院がある。これから先は写真撮影禁止「金剛峰寺」を見学。歴史の重みをかみしめる。 宿坊・「高野山準別格本山遍照尊院」のご住職は3月、高野山最高位法院検校に就任された。古木建築の宿。一日の疲れを流し、精進料理をいただく、お酒は般若湯、ビールは麦湯という。斗光さん、荒木さん達と麦湯で健康を祝す。お寺の朝は早い。起床は午前5時50分、ご住職と朝のお勤めをする。法話をお聞きし、記念写真をとる。七堂伽藍を見学後、橋本、九度山をへて橿原神宮を見学、春日公園の鹿と戯れる。東大寺「大仏殿(東大寺金堂)」の大きさに改めて驚く。かの昔、「大仏殿建立」という映画を見た記憶が蘇ってきた。 奈良で昼食。宇治を抜け、紫式部ゆかりの花の寺「大本山 石山寺」(注3)を探訪、今日の宿泊地、琵琶湖湖畔の「琵琶湖グランドホテル京近江」に入る。翌一七日。東山三十六峰の一嶺、月輪山の麓に静かにたたずむ「泉涌寺」の楊貴妃観音像に驚く。 10時30分“京都祇園祭”(注4)御池道の両側に幕を張っての「有料観覧席」で、行列を迎える。長刀鉾、露天神山、郭巨山、山伏山、函館鉾と、行列はゆっくりと続く。言葉では言い表しようもない。全部で三二台、二番目以降は毎年くじ引きで決めるとのことである。 西陣織物会館で昼食をとり、バスで市内観光後、伊丹空港を一八時〇〇分発。羽田空港へは一九時一〇分安着した。>高野山詣でと祇園祭・夏の風物詩。素晴らしい企画。感謝でいっぱいである。 |
| (注1)高野山と真言密教開創<大師が修行地を高野山に決めたわけ>唐で密教を学び国しようとした弘法大師が、「伽藍建立の位置を示し給え」と投げた 「三鈷」が空中を飛 行して現在の伽藍の位置に墜ちました。 大師は「この地こそ真言密教の修禅にふさわしい地である」と決意したといわれている。 八一六年高野山の地が大師に下付され地鎮式が行われた。 八一九年大塔堂(金堂)伽藍を中心とした一帯が「金剛峰寺」名付けられこれが「真言密教立教開創の宣言」とされている。 交通南海何回電気鉄道(ケーブル)高野山駅→南海りんかんバス大門行き、 または奥の院行きで各バス停へ。 所在地 和歌山県伊都郡高野山町高野山問合せ先 高野山観光協会 (電話0736−56−2616) (注2)墓石と神仏混合 一九七九年に東京招魂社が靖国神社と改称され、国家の手により神道式の儀式が新たにつくりだされた。神仏分離と廃仏毀釈が近世日本の宗教 体制を大きつくりかえられ、皇室と国家にかかわる儀式の多くは神化された。墓石までは神仏分離と廃仏毀釈がゆかなかったと考えるべきなのか。 (注3)大本山 石山寺(歴史の香りに漂う 花の寺)石山寺の創立は、東大寺大仏造立め黄金の不足を愁えた聖武天皇が、ここに伽藍をたて如意輪法を修すようにとの 夢告を受け、良弁和尚を開基として開かれた寺院です。堂内の「源氏の間」は、紫式 部が「源氏物語」を書いたところと伝えられている。 (注4)「祇園祭」祇園祭とは八坂神社の祭で、毎年7月1日(吉符入)から二九日(奉告祭)までおこなわれます。一般には一七日(山鉾巡行と神幸祭)と,その宵山である一六日がよく知られている。祭の歴史は、今からおよそ一一〇〇年前の清和天皇の貞観一一年(八六九)に京洛に疫病が流行し、病人死人が多数出た。これは牛頭 天王(スサノオウノミコト)の祟りであるとし、そのご機嫌をとるために神を祭り、 祇園社を(祭神はスサノオノミコト)を信仰し、病魔退散を祈願したという。 (注5)世界遺産 2004年7月1日、中国で開かれた第28回委員会において奈良県、和歌山県、 三重県をまたぐ日本国内12番目の世界遺産「日本・紀伊山地の霊場と参詣(さんけい)道」にきまりました。 |

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