「原爆死没者慰霊式並びに平和記念式」に参加して                                  平成18年度 平和行事参加の旅 ( 06、10、18)                                        

                                        
 小金井市は、昭和57年(1982年)「小金井市非核平和都市宣言」をしました。毎年市民の代表を廣島に派遣しています。 私は、昭和19年12月9日、国民学校高等科2年生の時、学徒動員により、広島市宇品町にあった 「廣島逓信講習所」に入所。20年8月31日の卒業予定が7月31日に繰りあげとなり、岡山県苫田郡泉村の故郷に帰り難を免れました。

 かねてから式典に参列したいと念願していましたが、今回その一員に選ばれました。我ら14名は8月5日(土)午前6時20分、武藏小金井駅南口駅に集合。「のぞみ」で東京駅を出発廣島駅に向かい、11時49分、目的地に安着。さすがに日本の新幹線です。駅前より「動く電車の博物館」・被爆電車のうち4両がいまも現役で活躍しているという路面電車に乗り換えて、ホテルに荷物を預けて原爆資料館へと向かいました。 熱い。実に熱い。街路樹の蝉セミ群団の大合唱。これが我が世の夏というのだろうか。

 原爆ド―ム前で集合写真を撮りました。集合時間と場所をきめて各自 「資料館」を見学しました痛々しい記録の数々、その当時を思い浮かべ涙が止まりませんでした。「一瞬にしてすべてを破壊しつくした原子爆弾とは、沈黙していていいのか、われは何をなすべきなのか」。

 資料館の噴水の前に4時30分に集合、記念写真を撮り、今晩の宿舎 「廣島東急イン」に向う。ホテルの関係で全員が宿泊できなかった が、静かな夕食が始まった。まだ時間があるので散歩と思ったが朝がはやいのと、テレビを見ているうちに時間が過ぎてしまった。

 朝食は6時から。事務局の方は会場確保のため、6時にはホテルを出られたとのこと。集合時間は7時20分。蝉の声を聞きながら式場に向かった。続々と式場へ向かっている。中高校生らしい団体。東京です。足立区から、練馬区です。船橋市から来ました。外国籍の方も多かった。四万五千人が参列し、午前8時開式。この一年間に死亡が確認された被爆者は五千三百五十人、名簿登載者の総数は二十四万七千七百八十七人、この一年間に死亡が確認された被爆者は五千三百五十人、名簿登載者の総数は二十四万七千七百八十七人。今年初めて「氏名不詳者多数」が奉納されました 献花 黙祷 平和の鐘 秋葉廣島市長の「平和宣言 核廃絶 市民の責務 目覚めと行動が提起されました」。放鳩 


 こども代表による「平和への誓い」「〜〜〜。私たちは、命を大切にし精一杯生きることを誓います。私たちヒロシマのこどもは世界中の国々や人々との間の架け橋となり「平和」の扉を開くために一歩、一歩、歩み続けていくことを誓います。」 
平成18年(2006年)8月6日                 
      こども代表 廣島市立南観音小学校6年 新谷 望 
              廣島市立楽々園小学校6年 スミス・アンジェリア   
 各界を代表しての挨拶。全員で「ひろしま平和の歌」を合唱しました。閉式。
 献花のための移動が開始されました。小金井市からの参列者は献花のあと9時30分に解散しました。

 団体行動班6名、広島駅に午後2時「のぞみ」のホームに集合(それまでは自由行動)現地解散班8名。
 私は団体行動班でした。「廣島逓信講習所」の跡を訪ねて宇品にいきました。同じ団体班の中に、「父が宇品の暁(アカツキ)部隊にいましたので」。という親子とご一緒しました。とても親切なタクシー運転手に出会いました。市役所(今日は出勤しているはず、電話で場所を確認)。お寺の住職、地域住民の方とも連絡をとり、跡地まではこぎつけましたが60年以上も前のこと、広い「暁部隊」の跡は、競輪場や工場民家などに。記念碑があるということでしたが見つかりませんでした。「講習所」跡には記念碑が建っていました。帰りは、懐かしい廣電(150円也)に乗りました。駅構内で美味しい廣島うどんを。若干の土産も仕入れて予定時間にかけつけました。

 「廣島」見聞録だけに止めないで歴史の重みをかみしめながら生きたいとおもいます。
  事務局の方御世話になりました。ありがとう。

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