古代中国の軍の階級と軍の編成

 今回、小官は軍隊に関する資料を調べていく中で、古代中国(周王朝)の軍隊の階級と軍の編成について、今の軍隊に基本になりうる資料を見つけたので、ココに紹介する。今回は前回の<軍隊の編成とその規模>の続編として語ろうと思う。しかし、ココの資料は小官が独自に調べたモノなので、間違いがあるかもしれない。ココを読む諸君等が誤りを見つけたなら小官にご一報を!

 軍の階級制度は、当時まだまだ発展途上にあり現行の制度が完成するまでには、この後何百年もかかったのである。ただ、当時(春秋戦国時代)の大抵の国において、尉官、佐官、将官の区別は既に取り入られていた。

 尉官は現行のように中尉が無く、少尉、大尉の二官制であった。尉とは本来、王直属の軍事官僚を差す言葉で、時として将よりも権限があった。それが、漢のころ(詳しくはわからない。)既にその価値は大幅に低下し、下級将校を示す言葉に成り下がってしまった。
 佐官も中佐はなく、少佐と大佐のみ。佐とは本来、一軍(この場合の軍とは周王朝における軍事単位のことで、定数一万二千五百人の集団である。)の副司令官を差す言葉であった。もちろん、将は一軍の司令官を差す言葉である。

 将官は常設のモノとして、続に三将軍と呼ばれるモノがあった。大将軍、驃騎将軍、車騎将軍、の三職でそれぞれの定員は一名。現代の大将、中将、少将に相当する。この他に臨時に任命される将軍職として、雑号将軍と呼ばれる存在がある。破慮将軍や討逆将軍等々、様々な雑号将軍があった。現代の准将に当たるモノと考えて良い。

 軍の基本編成は、歩兵は五進法、騎兵は十進法を基調としている。

 歩兵は五進法で編成されているのは五行思想(木火土金水の五つの元素によってこの世は構成され、かつ運営されているという考え)の影響であろう。
 最低の単位は五名からなる分隊である。分隊長を伍長と呼ぶのは文字通り「五人の長」であるからである。 
 この分隊が五つ、二十五名で小隊となる。さらに小隊が五つ、百二十五名で中隊。
 中隊五つで大隊であるが、通常、その内の四個中隊が槍兵(戦列歩兵)中隊であり、一個は弓兵(軽歩兵)で中隊ある。弓兵は弓もしくは弩を装備する。もう少し後になると、弓兵は銃兵にとって代わられるが、この時代は、まだまだ弓や弩が幅を利かせていた。
 大隊五つで連隊となる。うち四つは通常の歩兵大隊(各、槍兵中隊四個、弓兵中隊一個からなる。)だが、一つは弓兵大隊であり、この大隊は配下の五個中隊すべてが弓兵であった。連隊は、この頃の最大単位であり、定数は三千五百人程度であるが、それを満たしている部隊の方が珍しい。(兵農分離がまだ完成されていない)中には連隊とは名ばかりで、大隊規模の戦力しか持ってない部隊さえあった。
 歩兵は槍兵を主体に戦列を組んで戦うのを基本とする。しかし、弓兵を主体に散開して射戦をもっぱら行うのもがあり、こちらは通常の歩兵と区別するために猟兵と呼ばれる。猟兵の中でも山岳戦の訓練を受けているモノを特に山岳猟兵と呼ぶ。

 騎兵が十進法で編成されているのは、この兵種が中原ぼ地で自然発生したモノではなく、遊牧民の影響の元に生まれた名残である。遊牧民は十という数字を好む。 
 最低単位は十騎から成る小隊である。歩兵小隊より人数は少ないが、その格は歩兵中隊に匹敵するモノとされていた。
 小隊十個で中隊。百騎から成る。格は歩兵大隊に相当する。
 中隊十個で連隊。定数は千騎歩兵連隊の三分の一以下の人数しかいないが、その運営維持費は遙かに上回る。よって、その格は歩兵連隊の上位に置かれていた。
 槍を装備し突撃を任務とする騎兵を槍騎兵、もしくは重騎兵と呼ぶ。弓を主装備とし、索敵警戒にあたる騎兵は軽騎兵と呼ばれている。

 今回は前回の続編という形で書きました。なにぶん、資料が古いモノなので、最近の考古学(?)ではどのようになっているかは小官には判らない。(捏造事件が多発しているから・・・)

 


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