専制君主制と民主共和制


<専制君主制と民主共和制>どちらが正しい??

今回は黒騎士戦記で、ぼやいた小官の行い、また、本当の正義は、どこにあるか一月考えた結果このような答えが出た。
少し長くなるが、本当に未来を考える諸君等には最後まで眠らず読んで欲しい。


●統治する者とされる者の戦い?
小官は共産主義の歴史観というのはきちんと知らないが、簡単にいうと人類の歴史とは階級闘争の歴史なのだということでいいのだろうか。まあ、今の世界を牛耳っている西洋思想の背景となる西洋史では、階級闘争の歴史であったといえるかもしれない。皇帝は諸侯にひっくり返され、絶対王政は市民革命にひっくり返され、ブルジョワは労働者にひっくり返される……。

この歴史を見るならば「少数の者が支配し、多数の者が搾取・圧迫されるのは、まっとうな社会とはいえない」という結論が出てくるかもしれない。確かにそれはそうだ。だが、現代はどうだろうか。

まあ一部の大企業とか政治家家系とか、京都の白足袋さんたちが裏で牛耳っている(笑)という見方もあるが、それはおいておくとして、少なくとも建前上は日本は民主主義国家だ。つまり、天皇が統治しているわけではないし(現在の象徴天皇制は、天皇を利用する者がいたとしても、天皇個人の意志で政治が動かないことは事実)、貴族や将軍が統治しているわけではない。一応、成人国民による普通選挙(そもそも、この普通選挙にも問題があると思うが、それは後ほど語ることにしよう。)によって選ばれた国会議員が政治を担当し、首相も選挙で選ばれた人ということになっている。「民主的」を「アカ」と呼ぶアホがいるが、最大与党が自由民主党であり、最大野党が民主党であり、社会党がほとんど絶滅して社会民主党と名乗っているこの国は、少なくとも建前上は民主主義国家なのである。いや、民主主義を否定するのは、天皇親政を訴える一部の右翼のみといえよう――
少なくとも名目上は。

民主党は、官僚の存在をもって民主主義に反すると言っている。それはそれで筋が通っているのだが、官僚独裁かといったらそうでもない。少なくとも民主主義は日本の大きな部分を担っているといえる。

●民主主義は正しいものを選べない
だが、今のような民主主義はそろそろ滅ぶべきだ、と小官は思っている。ではおまえは独裁を叫ぶのか、ハイル・ヒットラーか、ジーク・ジオンか、と言う人がいるかもしれない。

正確に言うならば、私が最も嫌うのは「多数決民主主義」である。
なぜなら、真実であるか否か、あるいは物事が正しいか否かは、本来は多数決とは関係がない。厳密に言えば、「多くの人が正しいと思っていること」が本当に正しいか、本当に効果的か、といえば、答えは「必ずしも正しいとはいえない」ということになる。正しいこともあるだろうが、正しくないことがあることはしっかり認識すべきだ。

たとえば科学は多数決ではない。それなら、数百年前までは地球は平らな円盤で固定されており、太陽がその周りを回っていたのだろうか。あるいは、多くの人が理解不能と思われる相対性理論や量子力学は、多数決を取ったら「そんなのわけわからん」あるいは「信じられない」「そんなことはどうでもいい」ということになるだろう。

たとえば頑固な陶芸職人がいる。粘土の練り方、水分量、ろくろを回す速度、窯の温度と火力の調節。これらすべてを素人の多数決で決められるのか。そんな馬鹿な話はない。
逆にいえば、専門的な分野についてきちんとした判断を下せるのは一部の専門家のみである、ということである。それは、専門的な分野について、一般の人は判断を下すだけの能力を持ち合わせていないということでもある。それを無理やり全体に敷衍すれば、平均点はがくんと落ち、合格点に満たないことも多いだろう。これがさらに悪化すると「衆愚政治」という。現代日本はすでに衆愚政治に陥っているようにも思う。

●日本人は衆愚である
こういうことを言うと、共産主義(正真正銘のアカのみなさん)の人からは「おまえは大衆蔑視主義者だ」とレッテルを貼られるだろう。どうやら小官は共産主義者にはなれないようだ。マルクスがやろうとしたことは、ネット語でいえば「一部の金持ち(ブルジョワ)を殲滅してドキュン厨房(プロレタリア)による独裁」をたくらんだわけだからね。

しかし、事実は事実である。話を戻すと、現代日本では「地域の利益の代表者」が選挙で選ばれて「国政」を担当することになっている。この最大の矛盾になぜ気づかない人が多いのか。それがすでに衆愚政治だと思う。地方政治の寄せ集めが国政になるわけではない。全体を見て、そのすべての構成要素の関係を見て取り、また外部との関係をどう運営するかということは、地方の利益の寄せ集めとは別次元、ワンランク上の視点を必要とする。

しかし、自由民主党と日本共産党が最大の戦犯だと思うのだが、地元の人にいかに利益を還元するかが選挙の最大の争点となっている。これは政党が悪いというより、そういう観点でしか投票できない愚かな国民が最大のガンだ。日本人(の多く)は馬鹿者だと小官は断言する。(こんなバカどもに普通選挙権を与えるのは可笑しい。今直ぐ廃止すべきだ。)
自民党と共産党は同じ穴のムジナだ。違うとすれば、自民党は経営者に、共産党は労働者にとっての利益を追求するだけのこと。
自民党は「こういう利益のある事業を地元に誘導しよう」といい、共産党は「こういう害のあるもの(ゴミ捨て場とか)を地元から排除しよう」というが、どちらも地元のことしか考えていないという点では同じであって、全体的な視野というものがまるで欠けている。
原発にしても、地元に利益をもたらすものか否かという見解が違うだけであって、地元の利益という点では共通している。

ところが、ここに「地元には明らかに不利益だが、それが日本全体のためにもなり、それがひいては地元の名声を高め、長期的視野ではいい結果をもたらすだろう」というような政策があったとしよう。
それを提唱する人は、現代日本では選挙に勝てない。それが現実である。日本人はやはり衆愚である。

●有能な君主のいる立憲君主制
田中芳樹の『銀河英雄伝説』という長い小説がある。

あれは、有能な君主のいる場合の立憲君主制が最高であって、民主主義はそれに及ばない、というごく当たり前のことを延々と小説仕立てにしている
これが小官の感想だ。それが正しいとすれば、私は田中芳樹の発想に似ているかもしれない。超有能な一人の君主が、きちんとした法にのっとって統治する。それは絶対にすばらしい統治となるだろう。やや理想論であるが。古代中国の聖人皇帝(黄帝や堯・舜・禹など)はその例といえるだろう。神話の領域かもしれないが。

しかし、いくら有能であっても法にのっとらずに統治する、つまりきちんとした規範や根本原則なしに自分の欲望の赴くままに統治するならば、国家は恐るべき不幸を味わうであろう(殷の紂王はその代表例――もっとも、自らの欲望の赴くまま統治した段階で有能とはいえない)。また、法にのっとっているつもりでも無能であれば、法を生かすことができない。それだったらまだ民主政治のほうがずっとマシである。

●多数決もたまには役立つ
先ほど、多数決では正しいことを決められない、と小官は述べた。
だが、多数決もまったく役に立たないというわけではない。それは「好み」や「感情」を計測するための手段としては非常に有効だということである。

たとえば、大宮市と浦和市と与野が合併するにあたって、名称は何にしましょうか、というような場合だ。別にそこに「正解」は存在しない。大宮だろうと浦和だろうと与野だろうと、あるいは中をとって大和野とか和野宮(降嫁しそうな名前だ。笑)とか(いや、実際に案としては投票されていたようだ)、別に他の地域と区別できればそれでいいのである。しかし、古い名称を残したいとか、いや、心機一転新しくしたいとか、いろいろな「住民感情」があるだろう。それを調べるには「人気投票」という名の多数決が望ましい。

結局「さいたま市」に決定ということだが、どうでもいいけど「さいたま」っていうのは「多摩の先」というのが語源(幸魂(さきみたま)説やサキタマ姫説は後に美化した俗説にすぎない)。
多摩に従属する地名というのはどんなもんなんだろうか……という感慨を私が抱いたところで、それは別に正しいとも正しくないともいえない。単に好みの問題、あるいはその名称のメリット・恩恵がどの程度あるのかという問題である(効果が高いか否かという価値観は正しいか否かという判断基準とは別のものである)。

ここで一つ思考実験。仮定だからね、仮定。現実にはありえないよ。
もし「さいたま市」の住人の8割がきわめて悪趣味で(笑)「ネオうらわ第2新東京市」に投票したらどうなるだろうか。それはそれで勝手だし、それで不利益を被るのも彼ら自身なのだから、自業自得といえばそれまでである(ある意味公正ではある)。が、冗談ならともかく、実際問題として考えれば、もっとまともな意見を言う少数者の意見をとるべきだったということになるだろう。

●多数決が正しいとされたのは時代背景による
「民主主義が正しい」と主張されてきた背景には「多数決が正しい」という見解があるはずである。なぜなら、国王のような少数より、多数の民衆の意見を取り入れろというわけだから、それは多数決が正しいということが前提になっているはずである。

では、なぜ多数決が正しいということになったのだろうか。
ここで問題になるのは、「多くの人が幸福であると感じることが大切である」という、だれもが正しいと信じて疑わない大命題だ。
小官も否定するつもりはない。だが、その定義においてさまざまな解釈がありえるということは注目すべき点だ。

有名なベンサムの言葉に「最大多数の最大幸福」というものがある。字面だけとらえれば、まことに結構な理念だ。しかし、現実に当てはめるとき、さまざまな問題が生じる。

たとえばここにA〜Eの5人がいたとしよう。そして、それぞれの人の享受する「幸福」を10段階で表わしてみる。
まず、このパターンは問題ない(1)。
  A――10
  B――10
  C――10
  D――10
  E――10

専制君主というのはこういうパターンである(2)。
  A――10
  B――1
  C――1
  D――1
  E――1

多数決原理に基づく民主主義だとこうなる(3)。
  A――1
  B――10
  C――9
  D――10
  E――0

つまり、一般大衆(B〜D)が君主や貴族(A)に取って代わったのであり、過半数がほぼ満足しているのだから、これは多数決原理の民主主義ではOKである。しかし、Aは不幸にしていいのだろうか。共産主義ではOKである。殲滅すべきである(ここに小官は共産主義の限界を見る)。また、E(社会のマイノリティ)はそのまま放置していいのだろうか。「公共の福祉」や「公序良俗」といった、多数派に都合のいい偽善的用語を用いるならば、OKということになってしまう。

平均点は3と同じだが、これならどうだろうか(4)。
  A――6
  B――6
  C――6
  D――6
  E――6

だれも満足していないが、同じように不満足なのである。4と3とどちらが公平な社会かといえばもちろん4だが、人は「自分だけは10取りたい」と思うものだから、どうしても3を選ぶことになる。
共産主義国家が崩壊し、資本主義国家が存続しているのも、そこに理由があるのだろう。

●愚民専制の「民主主義」
だが、マイノリティを見なかったり排除すればそれでいいのか。
そろそろそんな段階は超えなければならないと思う。

かつては、支配層は少数だった。だから、多数の幸福を手に入れるには「支配される側が支配する者を打倒する」ことが有効な手段だったかもしれない。
しかし、現在はそうではない。多数の大衆そのものが支配層となり、少数のマイノリティ(「三国人」とか)を圧迫している。しかし、それは「多数の幸福」という錦の御旗を濫用することによって
正当化できてしまうのである。

多数派が支配される側であった時代は、多数決や民主主義を説くことは有効だっただろう。しかし、時代はすでに変わっている。多数派が支配する側に代わっているのである。つまり、多数派独裁・少数への迫害である。

小官は多数派が支配することを正しいと考えていない。すでに衆愚政治に堕していることは明白だと思う。したがって、現代は民主主義どころか「愚民専制」ともいえると考える。
だからといって、少数が多数を打倒すればそれでいい、などという短絡的な発想を持つものではない。少数だから正しいというわけでもないし、多数だから正しいというわけでもない。正しさは、すべての人が
天才でない限り、議論の中から見いだされる。つまり、さまざまな視点から検証し、本当に何がどのように利益となり、害となるのかを見極めるための議論(戦いのための論戦やレッテル貼りの主義主張の押しつけではない)が必要となってくるだろう。

数や力、あるいはカネ、利益誘導、反利益阻害、こういった「力学」によって動く政治は誤っている。現実問題としてそれが政治の現実だ、といわれるかもしれない。それなら、そんな腐った政治などない方が人類のためではないか(もちろん小官はアナーキストではない)。

※なお、多数決が正しいとされる背景には、「正しいことは多くの人に受け入れられる」という信念があると思われる。しかし、これは小官に言わせれば錯覚だ。正しいからといって多くの人に受け入れられるわけではない。往々にしてわたしたちは正しいことよりも「なじんでいること」「目先の利益になること」「とにかく自己主張できること」「なんとなくわかりやすいこと」を選択しがちである。
あまりなじみがなく、目先の利益がなく、複雑なことは真実ではない、という判断をされることがきわめて多い。多くの人が受け入れているか否かは、それが真実か否かとはまったく関係がない。関係があると思うのは、思考停止した愚民だけである。そして、日本人の大多数は愚民である。

まっ、これ位にしておきます。あんまりダラダラと軍隊に関係のないことを述べると、ホムペの趣旨から離れてしまいますからね。(笑)

最後まで読んでくれた、暇な人(これを書いたヤツはもっとヒマ??)誠にありがとうございます。m(__)m
感想とか疑問、質問をメ−ルで頂けたら幸いです。


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