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ロスト・ユニバーシティ〜伝説と呼ばれた男〜




 ユニバーシティ(大学)に生きる者にとって、昏迷と、暗い内面的カオスの広がりに意識を委ねることは、さほど珍しいことではない。慣れない者にとって、いや、慣れた者であればこそ、この、異次元の扉を潜る一瞬は、あまりに長く、辛いものとなる。

 その日も私は、何のためらいもなく混沌の中に身を委ねていた。
 チャイムが鳴り、人々は重々しい緑の扉の向こうへと船を進めていく。どんよりと曇った空の下、時空を越えた幾多の言葉が、体感される時間に修正不可能な歪みを発生させる。すり鉢上にくぼんだ空間に飲み込まれ、ふわふわとした胡乱なまどろみがどれほど続いただろう。

 ふと目を覚ましたのは、辺りの騒がしさに気が付いたからだった。
 ただごとではない。
 …一体、何が起きているのだ?
 「艦長!!」
 ハッとして前方に目を遣った私は、蒼白な顔をしてこちらを見つめるクルーたちの表情で我に返った。そうだ。確か、私は、原因不明の自主休講が相次ぐ未確認講義の調査に来ていたのだった。私自身、この種の時間枠の受講は始めてである。何が起きるか分からないからと、少しばかり緊張していたせいか、ついうたた寝をしてしまったようだ。

 まだ微かに残る意識の混濁を無理やり振り払い、私は、席にきちんと座りなおした。
 「状況を報告したまえ」
 「はい。ワームホール航行開始から20分経過、前方黒板に未確認言語群が発生! 現在もなお、増殖を続けています」
 「何…。」
私は信じられない気持ちでモニターを見つめた。確かにそこは、僅か20分ほど前、我々が扉を潜る前までは何もない空間だったはずである。だが今や、そこには禍禍しい文字の群れが所狭しと踊り狂っている。
 「増殖速度は」
 「分速にして、およそ20字ほど。このままでは…あと10分ほどで全面が埋め尽くされます!」
あちこちからどよめきが上がった。バカな。これほどまでに早いスピードで黒板を埋めていく教官がこのユニバーシティ空間に存在したというのか? あり得ない。ヤツは一般的に推測される教官の数倍もの速度で喋りつづけているはずだ。
 「まさか…、喋りながら書いているというのか…。」
そのようなことが可能なのか? だが、ヤツは今まさに目の前でそれを行っている。上下二面に分かれた可動式黒板は、見る見る間にヤツの吐き出すカオスワードに侵食されていく。

 早い。あまりにも進行速度が速い。その非常識なまでの速さゆえに、板書に対応できなくなった味方艦隊はもはやなすすべもなく手を止めているしかなかった。
 「艦長!」
オペレーターの悲痛な叫びとともに、画面にオーバーエンジンを示す赤いランプが点灯する。限界だ。このままでは、板書最先端から引き離されてしまう。
 「くそ…、サイドブースター、フルオープン! 全速前進! 突入せよ」
 「ダメです、相手進行速度さらに上昇…追いつけません!」
 「ば、バカな」
私は柄にもなくうろたえた。学内最速を誇る我が艦の筆写が、たかだかチョーク筆記に追いつかないだと?!
 「諦めるな! 我々が成せなければ、我が隊は一体誰のノートを当てにすればいいと言うのだ!」
 「しかし、このままでは…このままでは艦が保ちませんっ」
 「構わん。行け!」
と、―――その時だった。
 カオスの増殖がぴたりと止んだ。ただ一行の余白を残して、黒板を埋め尽くさんとしていた、魔の教官の手が止まる。

 我々は、信じられない面持ちでその様子を見守った。敵はただ一隻。されど、攻撃はまだこれから。ヤツは一体、何をするつもりなのか…

 唐突に、艦内に非常警報装置のけたたましい音が鳴り響いた。
 「な、何事だ?!」
 「艦長! 前方2列目より、課題レポート配布中! あと12.03秒で本艦に到達です!」
まさか…、この状況でレポートを使おうというのか? 正気の沙汰ではない!
私の頬を冷たい汗が伝う。
 「残り時間は」
 「本授業終了まであと20分。時間内提出、間に合う確率は0.02パーセント!」
板書は済んでいない。それどころか、あまりに早い話運びのため、おおよその脈絡さえも掴めていない。しかも、先ほどのブーストからのダメージは、まだ完全には回復していない。
 「左脳言語野、稼働率20パーセント! バリア、消滅したままです!」
 万事休すか。
 「…仕方がない。全員、緊急配備! 教科書索引欄の使用を許可する」
デッキに、動揺が走る。購入はすれど使用せぬまま新学期を迎えるのが通例となっているはずの「教科書」。とうに封印されたものと思い込んでいた者も多いはずだ。だが…私は、もしものために備えて、ひそかにその恐るべき最終兵器を艦に積んでおいたのだ。
 「艦長…。」
 「生き残るためだ! どんな手段であろうと、もはやためらっている場合ではないッッ!!」
 「わ、分かりました。」
 「用紙、間もなく到達します!」
私の声と、死の恐怖に気おされるかのように、クルーたちは速やかに作業に移った。開くとベリベリと嫌なノリの音のする教科書を紐解き、敵の攻撃に備えようと展開する。
 …しかし敵は、我々のそんな悲愴な決意さえもアザ笑うかのような攻撃を、そこに隠していたのである。

 「か、艦長っ」
 「どうした!」
 「索引欄、反応しません。使用不可!」
 「―――なんだと?」
私は腰を浮かせたまま、モニター画面を覗き込んだ。そんなバカな。そんなことが、あってたまるものか。
 だが事実、索引欄の反応は全く無かった。本文中に何らかのトラブルがあったからなのか? いや。
 こちらの手は、すべて読み尽くされていたということだ。教科書ごときでは対処しきれない、おそるべき罠を仕掛けて……。
 「これが…、伝説のインデックスキラー…なのか…。」
どさっ、と椅子に身を沈めた私の呟きに反応する者は、もはや誰ひとりとしていない。
 無常に時を刻むチャイムの音の中、船はゆっくりと光の中に飲み込まれ、そして…
 暗い宇宙の闇の中に消えて行った。

 遅ればせながら、私は、薄れ行く意識の中で思い出していた。

 かつて数十分で黒板全面を埋め尽くし、教科書一冊を数時間で説明し終わり、そのくせテストに出たのは8割が教科書に載ってない内容だったという、伝説とまで呼ばれた一人の教官のことを…。

 その悪魔を退治するには、私の力では足りなかった。
 だがいつか、きっと後を継ぐ者が現れる。そう、ヤツを打ち倒すために、星は何度でもこの宇宙に生まれるであろうから。

 ……でもなんとか単位は取れた。(^^;)

〜完〜



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