ワアグ祭の殺人<8> 終夜


 ワアグ祭の最終日。今日も、イトネブは書庫に座っている。積み上げた書類のほこりをせっせと払うナクトをよそに、ゆったりと書物を紐解き、丁寧にそれを書き写している。
 「先生」
 「何だね。まだ休んでよいとは言っていないぞ」
 「……そうじゃないです。あの、おれたちのしたことは、無駄だったんでしょうか」
イトネブは手を止め、視線を上げた。
 「無駄、とは」
 「兄上や大神官様は、ヌリが犯人ではないことを、とっくにご存知だったんでしょう? おれたちが何もしなくても、ヌリは解放されて、イネシ老人は捕らえられていたと思うんです。結局… おれたちに出来たことって、走り回って罰せられることだけだったのかな、って」
 「そうだね。お前たちはもう少しやり方を考えるべきだったかもしれない」
 「……。」
 「でも、無駄だったとは思っていないよ」
老人は優しく笑った。
 「少なくとも昨夜、ジェフティネフェルが宿で待っていた時には、お前たちは、いちばん真実に近いところにいた。イネシ老人の店の捜索に踏み切れたのも、墓荒らしの一家を一網打尽に出来たのも、実はお前たちのお陰だよ。神官長殿からは、お前たちが調子に乗るといけないから、あまり褒めるなとは言われたがね。」
 「でも兄上は、昨夜、おれの話を聞いてからすぐに、何をすべきかを思いついたんですよね。」
ジェフティネフェルは、法廷の場に、手際よく売買契約書という動かぬ証拠を持ち出した。あの時、ナクトから聞いた話をもとに、先回りしてホルネケンを追い詰める証拠を短時間に手に入れた。いつもそうだ。兄は、誰にも何も相談せずに、ナクトなどには決して出来ないことをやり遂げてしまう。
 「あれは最後の手段だったんだよ。役職についてしまうとね、立場や常識が邪魔をして、出来ないこともある。思いついてすぐ行動に移せないこともある。お前たちがホルネケン殿の船に忍び込んだことは、法に照らせば罪かもしれないが、他の誰にも出来なかったことだ」
 「それじゃまるで、おれたちが炊きつけられて利用されたみたいじゃないですか」
ナクトは、むすっとして手にした書類をやや乱暴に書架に放り込んだ。乾いたパピルスの端がめくれ、ぱっ、と粉が飛び散る。「それに―― 船でも決定的な証拠は何も見つからなかった。ルウティはあの船の上で殺されたに違いないのに…。」
血の痕は残されていなかった。ジェフティネフェルの言ったとおり、ホルネケンの武器をよく調べれば、血痕も少しは残っていたかもしれないし、返り血を浴びたときの服も、まだ船のどこかに載っていたかもしれない。しかしだとしても、よほどの疑いがなければ、州知事の使いの持ち物を取り上げて調べることなど、出来ようはずもなかった。大神殿といえど、これが限界だ。王と諸侯、政の世界に属する者たちを裁けるのは、その世界に属する裁判所だけだ。
 「おおよその見当はついていたんだよ。船の漕ぎ手が証言してくれた。あの晩、受け取った護符が盗品を加工したものだと気づいたルウティ殿は、そのことを大神殿に訴え出ようとしていたそうだ」
 「あの晩―― 殺された晩?」
 「そう。ホルネケン殿は認めず、言い争いになったという。おそらくホルネケン殿は最初から知っていたのだろう。正直なルウティ殿は、受け取った品が不正なものとは知らなかったのだ。訴え出られれば、州知事が奥方の埋葬の準備にメンフィスを頼ったことが知られるし、盗品を扱う店と繋がっていることも世間にばれる。――きっとこれが、はじめての取引ではなかったのだろう。ホルネケン殿はとっさに、正直者の口を塞いだ。そして、その死体を目立つ場所に放置した。州知事はこの大神殿を嫌っている。あわよくば、祭りを中止にさせるつもりだったのだろう」
 「そんな理由で…」
 「人をあやめるのに、理由のないことも多々ある。正しき行為さえ、殺意を沸かせる理由に足ることもある」
イトネブは言い、ふさふさとした白い眉の下に目を伏せた。「悲しいことだが。」
 「ホルネケンは、罪に問われないんですか?  船の漕ぎ手という証人がいるのに? 州知事が盗品の売買に関わっていたことも、売買契約書という証拠が残っているんでしょう」
 「誰が裁くのだね。州知事ともなれば、裁けるのは王だけだよ」
 「……。」
ナクトは、大きくため息をついて丸椅子に勢い良く腰を下ろした。「それじゃ、正直者は殺され損じゃないか。一体何のために、正義なんて」
 「たとえこの世で報いを受けなくとも――」
 「"神々はいつも見ている、死後の裁きを受けるだろう" 、ですか? でも、神々の気持ちは、供物で揺らいでしまうようなものなんでしょう。金持ちは上等な供物を捧げて罪を許されるのに、貧乏人は些細な罪ですら断罪されるんだ。不公平ですよ。」
 「ナクト――」
ヌリのような異国人や、巧く弁護の出来ない者、地位も権力もない人々は、いつだって虐げられる側だ。だが、世間的に見れば「持てる者」の一人である自分に、それを言う資格があるだろうか? 結局は自分も、恵まれた立場から見下しているに過ぎないのかもしれなかった。
 再び書類整理に戻っていく少年の後姿を、イトネブは何か思案するように眺めていた。


 書架の整理があらかた済み、昼の休憩の許可を貰ったナクトは、回廊を横切って中庭のほうへ向かっていた。台所のある一角は薬草園に近く、書庫から向かうにはここを通ったほうが早い。大回廊の掃除を終えたメネスがいるはずだったし、神殿で働く人々の食事は、一括してそこで作られている。
 大神殿の中庭は、中央に蓮を浮かべた聖池を持ち、その周囲には、さまざまな果樹や花が生い茂っている。涼やかで美しい木陰には、神殿で飼われている気取った猫が一匹、ながながと寝そべっていた。
 足早に通り過ぎようとしていたナクトは、木陰のベンチに腰を下ろしている人物に気づくのが遅れた。どうせ誰もいないとたかをくくっていたのだ。人影に気がついて、軽く頭を下げながら通り過ぎようとした彼は、自分を手招きするのに気がついて、ようやく、その人物の顔を見た。
 「――あ」
にこにこしながら呼んでいるのは、大神官、プタハヘテプ。呼ばれて素通りするわけにもいかない。ナクトは、宿題を忘れた日に書記学校の教師に呼び出されるような気持ちで、その前に立った。
 年は四十過ぎたくらい。髪はすべて剃っているが、口元には灰色の髭がたくわえられ、目じりには深い皺が寄っているが、目には若々しい力が満ちている。
 陽気な表情と、抜け目のない輝きを放つ瞳。これが、この聖域の神々の権威の代行者、大神官プタハヘテプなのだ。若い神官たちの中には、この人物を畏れる者も多い。
 だがナクトは、恐ろしいと思ったとはなかった。父の友人でもあり、幼い頃から接していたせいでもある。むしろメネスのほうが、この人物を苦手としていた。彼自身の実の父親であるにも関わらず―― 神殿内でそのように振舞うことがないせいか、この事実を知らない者も意外に多い ――普段から、心情的な壁のようなものを感じているようだった。ナクトが、自分の実の父を大神官より苦手に思うのと、似たようなものかもしれない。偉大すぎる父親を持ってしまった息子共通の悩み、というべきか。
 「その様子では、イトネブ師にずいぶんとコキ使われているようだな。どうだ? しっかり反省しとるか」
 「…はい。」
 「さきほど、君の父上が来ていてな」――ナクトが目に見えてうろたえたことに、プタハヘテプはにやりとした。「君が実に雄弁であった、と言っておいたぞ。いや、あれはなかなかに見事な弁護であった。うちの愚息にも少し分けてもらいたいくらいだ。あやつときたら、言い訳のときばかり雄弁で肝心な時は…全く」
 「メネスは」と、ナクトは慌てて言った。「いざと言うときは、頼りになります。思い切りがよくて、行動も早いし。今回のことだって、おれ一人では」
 「まだまだ子供ということだ。あれは、何でも衝動的に行動してしまう。将来、この大神殿を背負って立つ気があるのなら、もう少し賢いやりかたを学ばねばな。」
 「はい…」
ナクトの表情によぎった一瞬の不満を、プタハヘテプは見逃さない。
 「納得がいかんようだな?  殺人の疑いある者を無実のまま釈放してしまったようなものだと」
少年は、正直に頷く。
 「ふむ。ならば、こう考えてはどうだろう? 正義とは、罪あるものを罰することだけではい。罪なき者を、不条理な罰から"守る" ためにもあるものだと」
 「守る? ――」
 「無実のクシュ人はもちろんだが、イネシも、盗品売買の罪は確かだが殺人までは犯していなかった。ルウティが殺されたのは、自らの不運や不注意のためではない。真実を明らかにすることは、彼ら皆の名誉を守ることでもある。そして州知事の妻は、自分の責に因らないこの事件のために埋葬の準備をおろそかにされるべきではない。高貴な者に相応しい埋葬を受ける権利がある、そうだろう?」
それで、護符を贈ったのか。大神殿に好意を持ってもいない州知事に。
 「だが! どんな理由があっても、罪は罪。州高官の船に忍び込んだのだから、それ相応の罰は受けてもらわねば。イトネブ師の言いつけ通り、きちんと働くように。いいな?」
 「わ、判ってますよ…」
大神官は、満面の笑みを浮かべてからからと笑った。ナクトは肩をすくめ、小走りに中庭を横切っていく。長い回廊に入ってしまえば、あとはもうずっと日陰だ。昼の日差しが途切れ、汗がひいていくのを感じる。神は眠りながら世界を見、神官たちも今は休んでいる。引き換えに、太陽の輝き戴く女神セクメトと医薬の神ネフェルテムの聖域が今は開かれ、ネフェルテムの聖域に隣接した施薬所では、今日あたり、二日酔いの薬が大人気に違いない。


 日が傾き始めるころ、今年も、四日間に渡って続いてきた祭りの最後の行事が行われようとしている。
 小広場の前に神輿が置かれ、今日はもう、練り歩くことはしない。知恵の神トトを祭る小神殿の前に神官たちが並び、神を讃えるとともに、上流の町と下流の町からもたらされた川の水位の知らせを読み上げるのである。時の支配者であり、過去と未来を知る黒トキの神の代理人でもある神官は、その知らせをもって、今年の水位と、翌年の実りを予想するのである。水位の上昇が少なければ、不作。多すぎれば、町は水浸しになり、多くの被害を出す。この知らせの瞬間が最も緊迫する時である。多くが自分の田畑を持つ祭りの参加者にとって、神官の予想は死活問題だった。
 今日ばかりはナクトも、小広場の祭りに参加していた。メネスはまだ来ていない。台所掃除が思ったより長引いているのかもしれなかった。
 間もなく、神官が知らせを読み上げる頃。神殿の扉が開かれ、ヒョウの皮をまとった高級神官が、香炉をふり、杓を鳴らしながら左右に従神官を引き連れて姿を現す。瞬く間に広場はしずまりかえり、真剣な視線が一点に注がれる。
 神像を載せた神輿を前に、ヒョウ皮を纏った神官は、朗々たる声を張り上げる。
 「聞かれよ。――今年の水位は、十分であるとの知らせだ。水は田畑を潤したもう。神々は我等に十分な恵みをお与えになられた。来年は――再び豊作となろう!」
とたんに、割れんばかりの歓声が広場を埋め尽くした。はや、あちこちで祝いの石杯が音を立て始める。口々にナイルの流れを讃え、神々に感謝し、感極まって川に飛び込もうと走り出す者まで。水は川べりに満ち、たっぷり数ヶ月かけて引いていくだろう。これから一晩、人々は大いに騒ぎ、明日からはまた自分たちの家で、それぞれの仕事に戻っていく。ある者は、畑が水浸しの間だけの出稼ぎに、またある者は別の畑に作物を作り前年に収穫した麦でビール作りに励む者、藁を編んで副業に精出す者…。
 ナクトは、人々の歓喜の輪には加わらず、広場の端にぽつねんと立っていたが、やがて、思い立って小神殿のほうにむかって歩き出した。最も重要な神託のなされた後、皮肉なことに、神殿の中はほとんど空っぽになっていた。神像も広場に運び出されており、普段は何重もの御簾に閉ざされた最深部の聖域への回廊も、半分開け放しになっている。神官の振っていた香炉の香りが、まだ内部に漂っている。
 「あ」
柱の影で人影がもそもそと動いた。誰もいないと思ったのに、先客がいる。
 平伏していた床から身を起こしたのは、黒い被り物に身を包んだ未亡人だった。濃い縁取りのされた瞳。あの指染め屋だ。今年の祭りは、彼女にとっても良い実りが齎されたに違いない。
 ナクトに気づくと、未亡人は、にっこり笑って自分の右手の指を見せた。年の割りに節くれだって荒れた、ほっそりとしたその二本の指には―― 色は、付けられていなかった。


 メネスは結局、祭りの場には姿を見せなかった。
 崩れかけた東の塔門に行ってみると、彼はそこに長々と寝そべっていた。
 「なんだよ。ここにいたのか」
 「……。」
無言に寝返りを打つ。
 「どうしたんだ? 神官長にこってり絞られた?」
 「そうじゃない」
ナクトは、隣に腰を下ろした。港のほうでは、船を漕ぎ出してその上でどんちゃん騒ぎをしている連中がいる。対岸の葦の茂みはもう暗闇に溶けてほとんど見えない。空には星々が瞬きはじめ、夕日の残りは、西の空に一筋の赤い帯として残っているだけで、それも、時をおかずして消えていくだろう。
 空は、夏の星でいっぱいに埋め尽くされていた。これから数ヶ月、畑が黒い土に満たされて再び水の下から姿を現すまで、川辺の大地は眠りにつく。
 「俺、今回なんも出来なかったなぁ…って」
ふいに、ぽつりとメネスが言った。「いざとなると全然だめだ。お前みたいに喋れなくてさ。正面に親父がいると思っただけでもう…」
 「おれも、父上は苦手だ。あそこにいなくてよかったよ」
はあ、と小さなため息が傍らから聞こえた。
 「俺、大神官とか絶対向いてねーよな…。」
 「君がならなきゃ、誰がなるんだよ。プタハヘテプ様の嫡男は、君一人だろ。おれんちみたいに兄貴がいるならともかく」
メネスは、勢い良く跳ね起きた。
 「ナクト、神殿書記にならないつもりなのか?!」
 「わからない。今は何も決めてないし」
 「どうするんだよー、俺一人じゃ無理だって」
 「神官長やイトネブ先生もいるし、うちの兄上だっているじゃないか」
 「だから無理なんじゃないかー!」
ナクトは苦笑した。こんな顔をするメネスを見るのは、久しぶりに気がした。小さい時には良く見せた表情。こうと決めたら絶対に譲らない。他愛もないと思えることに真剣そのものの顔をして、決めたからには、どんなに言ったって聞く耳は持たない。
 「…判ったよ。卒業したら、メンフィスの神殿書記になるって。」
 「約束だぞ。他所で仕官なんかすんなよ」
 「ああ」
友人同士の、他愛もない口約束。しかしそれが自分たち二人の間で交わされるものである以上、いつかは実現される約束であることを、ナクトは知っていた。



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