ワアグ祭の殺人<5> 死者の心臓は語る


 何とかする、と言い残したメネスが去っていってから、かれこれ何時間か。間もなく夕刻。
 崩れかけた東の塔門の上に寝そべって待っているうち、いつしか空は、傾き始めた日の光に赤く染まっていた。日が翳り、人々が動き始める。間もなく、祭りの主役であるトト神の小神殿の入り口が開かれ、神像を隠した祠堂を乗せた神輿を担いだ神官たちが、広場に姿をあらわすだろう。そこからが、祭りの本番だ。
 「ナクト!」
ようやく来た。
 ナクトは体を起こし、塔の下を見下ろした。メネスは、身なりを整えてきていた。ぼさぼさの頭も、なんとか梳って頭布に隠している。
 「これなら、いっぱしに神官に見えるだろ。」
 「まあね。完全に身分詐称ってわけでもないし」
弾みをつけて塔の壁を滑り降りる。「で? どうやって牢に入り込むつもりなんだ。」
 「まあ見てなって。俺に考えがあるんだ」
メネスは、小脇に抱えた籠をナクトに手渡した。籠の中には、ワアグ祭につきものの食べ物、干したイチジクや蜜入りのパン、が一通り入っている。
 「牢の見張りを買収するつもりなのか。」
 「まさか。この聖域の警備が、そんな簡単に買収出来るわけ無いだろ」
西の塔門から外へ出る。ちょうど街を取り囲む白い壁は、西日を受けて赤々と燃え立つようだった。門の前から続く町並みは、城壁の内側ほどではないにせよ小奇麗で、その辺の農村とは異なる趣を持つ。広い大通りは、かつてここが王都であった時代の名残り。それから百年が過ぎても、かつての王たちの建てた記念碑や立派な建物は、まだ朽ちてはいなかった。
 牢は、城壁に沿って建つ兵舎の一角にある。軍用船や兵士のための武器防具を調える工房の並ぶ一角に近く、柄が悪いと町の人々は近づくことをしない。危ないから、――そして兵士などに憧れて欲しくないから、という理由から、子供たちは近づくことを禁じられる。ナクトも、その一角に何があるのかはほとんど知らない。
 メネスはぐんぐん歩いていく。置いていかれないよう、メネスに渡された籠を持って後ろについていくのが精一杯。
 行く手に、両脇を兵に固められた粗末な石造りの小屋が見えてきた。城壁の内部で祭りを警備している兵たちとは雰囲気が違う。祭りのために正装することも、マントで武器を隠すこともしていないからだろうか。近づいてきたのが僧侶と書記だと気づいて、兵たちはちょっと頭を下げたものの、怪訝そうな顔だ。
 「囚人の舌を緩ませる差し入れです。容疑人ヌリのもとへ通していただきたい」
メネスは、なるべく顔を伏せたまま言った。
 「聞いていないな」
 「神殿書記長、イトネブ師の言いつけで来たのです。今朝、上級書記ジェフティネフェルが州役人ホルネケン殿をこちらへお連れしたはず」
 「ああ、それは―― 確かだが」
 「その時に聞き漏らしたことがあったのです。訴状を作る上で必要なことなのですが、囚人が怯えて喋らなかったとか。それで、代わりに私が聞きだすようにと、書記を付けられました」
ナクトは、思わず声を上げそうになった。そういう作戦だったのか。全く、メネスの考えることときたら。半分は本当なのだから、たちが悪い。
 兵士がじろじろと自分たちを眺めているのが分かる。
 「籠の中身は」
 「食べ物です。」
 「ふむ――」
二人が怪しいものは何も持っていないのを確かめると、兵士は、自分も後ろについて牢の奥へ通してくれた。狭い階段を下りると、その先は石組んで作った地下牢になっており、窓もない、墓場のような部屋が続いている。
 すえた匂いがした。牢の隅にしつらえられた、用を足すための壷の中身は、そうこまめには外に開けられないのだろう。
 「ここだ」
案内の兵士は、一番奥の牢を指した。暗がりの中、気配はない。
 「容疑人、ヌリ」
黒っぽい塊がうごめいた。メネスは、ナクトから籠を受け取り、石牢の扉の前に置いた。「こちらへ来て、大神殿からの情けを受け取るがいい。そして神の恩寵の前に、真実を語れ」
 ナクトは、そっと後ろを伺った。兵士は去る気配がない。ということは、メネスもナクトも、まだ演技し続けなくてはならないということだ。ナクトは腰の袋から筆記具を出し、パピルスの代わりに手帳代わりにしている陶器のかけらを取り出した。紙は高いし、脆く、水に弱い。長時間持ち歩くのには向いていない。
 闇の中から、光の届く範囲に出てきたのは、怯えきった顔の若いクシュ人だった。目には泣きはらした跡がある。痩せて、引き締まった体には、捕り物の時に出来たらしい生々しい傷がまだ残っていた。メネスもそれに気づいたようだ。
 「怪我をしてるのか。施薬所で傷薬も貰ってくればよかったな」
見張りの兵士が、そっけなく言う。
 「どうせ死刑になるのなら、傷を癒す必要もあるまい」
 「有罪かどうかは、裁判で決まること」むっとして、メネスは言った。「人間は神の家畜である。神の持ち物の命を奪うことは、たとえそれが罪人であっても、軽々しく行うべきではない」
 「……。」
ナクトは、不謹慎にも出しそうになった。普段のメネスを知っているだけに、真面目に神官らしいことを口にすると、つい笑ってしまいそうになる。
 籠に食べ物を見て、ヌリは、おそるおそる手を出す。メネスは頷く。よほど腹がすいていたのだろうか。一口食べ、美味いと分かるや、若者は次から次へとがっつき始めた。その指に、かすかな朱が残っていることを二人は見逃さない。やっぱり。――この男は、指染め屋に寄っていたのだ。
 「食べながらでいい。聞きたいことがある。事件のあった、あの夜のことだ。お前はどうして、東の船着場に行ったんだ?」
メネスの口調は優しい。ヌリは、口いっぱいにパンをほおばったまま、じっと若い神官を見た。
 「夜五時頃だ。遠征隊のお前が、兵の宿舎に戻らずに反対方向にいたのは、どういうわけだ」
 「脱走兵さ、そいつは」
またも、後ろから見張りの兵士が言った。「戻るつもりはなかったのさ。祭りで十分楽しんで、一晩の宿でも探してたんだろ」
 「探していたのは、寝床か?」
ヌリは、じっとメネスを見つめている。
 「寝床に行く前に指を染めたかった?」
ナクトが言うと、かすかに表情がこわばったようだった。静かに首を振り、ヌリは、たどたどしい言葉で語り始めた。
 「…おで、指。色、つけた。」
 「ふんふん」
 「服に…つけた」
 「服?」
ヌリの粗末な皮の服は、もとから煤けた色で、今は捕り物騒ぎのおかげであちこち破れて血も滲んでいる。朱をこぼしたような跡は見当たらない。
 「おで違う。白い服」
 「白?」
 「石の青い扉。えらいひと。怒られる思った…」
ヌリは頭を垂れた。「色、落とそうとした。川」
 「…川」
ナクトは、一言一句を書きとめながら、その単語の連なりに、何かおぼろげな輪郭を読み解こうとしていた。予想が正しければ、この証言は彼の無実の証明に成るはずだ。
 面会時間は短かった。
 怪しまれる前に退出しなくてはならなかったし、もう日が暮れている。冥界神へのお勤めの時間が迫っていて、メネスは急いで神殿へ帰らなくてはならない。
 「くそっ、もうちょい時間あればな。ナクト、今ので何か手がかりは掴めそうか」
 「ああ。でも、一つだけ分からないことがある。君がいない間に調べておくよ」
 「そうしてくれ。あー、外でこんなマトモな格好してたら息苦しくてやってらんねえ!」
メネスは、はや頭布を脱ぎ捨てて、苛々した様子で大神殿のほうに向かっていた。次に抜け出せるのは、明日の昼。の、はずだったが、
 「…俺、務めサボるわ」
 「ええ?」
 「だってさ、このままほっとけないだろ。無実の人間が罪に問われるかもしれないってのに。あと二日しかないんだぜ? このくらい、神様だって大目に見てくれるさ。」
それは、その通りだった。メネスが居てくれたほうが、何かと調べごとはしやすい。この町には、神官しか出入り出来ない場所は幾らでもある。
 だが、さしあたって、宵越しの礼拝には出なくてはならなかった。見習い神官は、急病か、特別なお役目を割り当てられでもしていない限り、欠席することは許されない。学校の授業と違ってエムハトに代返してもらうわけにもいかない。
 「スキ見て抜け出してくっから。例の場所で落ち合おう」
 「…分かった。」
こういうとき、メネスの行動力は頼りにもなるし、困りものでもある。何でも自分で決めて、さっさと行動に移してしまうのだ。父や兄に言わせれば、ナクトも似たようなものらしいが…。
 別れた場所は、小神殿の前だった。祭りが始まり、神輿が担ぎ出されている。周囲はものすごい喧騒に包まれており、それで、別れの言葉は怒鳴りあうようにして言わなくてはならなかった。人々の渦と熱気から逃れるように、ナクトは路地に滑り込んだ。そこも人で溢れてるが、まだ少しはマシだ。
 蛇使いや指染め屋は、人の熱気に押されて店じまいしていた。この人通りでは、足を止めて店を覗く余裕もない。今年はいつもより人出が多い、というのは本当のことだった。豊作に加え、向かいのイウヌの町の大神殿では今年は祭りが行われないということもあって、近隣の町や村からこのメンフィスに祭り客が集中しているのだ。町の隅々まで人で埋め尽くされている。もし、事件の起きたのが前夜祭の前の日でなかったなら、必ず誰か、目撃者がいたはずだ。
 広場へ向かう人の流れに逆らうように、ナクトは路地の奥へ奥へと向かっていた。目的があったわけではない―― ただ、人の少ないほうへ向かおうとしていたに過ぎない。
 だから、その時目の前に突然あらわれたそれは、意図して探そうとしていたものとは違っていた。気がつくことが出来たのは、ヌリが口にした単語の羅列をはっきりと記憶していたから、でもあるのだろうが。
 「…青い石」
目の前に現れたその扉を見た瞬間、彼は、ヌリの言った言葉の意味を理解したと思った。
 青い石の扉。
 いっぱいに開いた扉の内側にびっしりと、お守りに使う青い石がぶら下げられている。ナクトは吸い込まれるように扉に近づいていった。敷居は、通りからは数段高く、階段のようになっている。店の中はさまざまな色の石で作られた護符で一杯だ。屋台で売られているような、安っぽい出来の悪いものと違って、少しばかり高級に見える。壁にかけられた板には、インクでこう書かれている。

 「銘いれ、承ります。」

ということは、この工房のあるじは、客の注文した碑文なり、客の名前なりを石に掘り込むことの出来る、高級職人なのだ。読み書きの出来る工芸人はそう多くない。大抵が王や貴族、金持ちのお抱え職人で、それ以外の者でも大きな町にしかいない。客になるような金持ちが住んでいるのは、そういう大きな町だけだからだ。いくら祭りの日で、大勢の客が集まるとはいえ、こんな高級な店は異国出身の傭兵には相応しくない。ヌリが立ち寄ったとは思えなかった。だが―― 州知事に仕える財務官なら…?
 店の奥で、人影が動いた。
 「いらっしゃい。何かお探しかね」
店主らしい白髪の老人がいる。作業台の上で、何か小さな護符を削っている最中のようだ。
 「あ―― いえ」
ナクトは、言葉を捜した。「あの、二日前… ここを、州知事の使いの方が来ませんでしたか」
 「二日前? さあ」
老人は眉間に指を当て、目をしばたかせた。「うちには上客も何人かいるが、州知事なんて知らないな」
 「そう、…ですか」
がっかりして店を出ようとしたとき、ナクトの目に何かが止まった。作業台の端に載せられたそれは、小さな甲虫の形をしている。
 緑色のー− 石。
 上質な翡翠。心臓の形を模したスカラベ…
 「まだ何か?」
店主の怪訝そうな視線に気おされるようにして、ナクトは慌てて店を出た。
 振り返れば、その先はまっすぐに、小広場へと続く通り。もやもやしていたものが急速に晴れつつある。これが意味するところは。この先に、一体どんな真実がある?


 冷たい風に吹かれて、気持ちを落ち着かせるのに十分な時間があった。
 東の塔門のあたりはさすがに人通りも少なく、何処かで酔っ払いが騒ぐ音や、川に飛び込んで火照りを沈める水夫たちの騒々しい笑い声が響いてくるくらいだ。メネスが塔に現れたのは、夜3つを少し回ったくらい。
 「なんだかヤバいことになってる」
合流するや否や、メネスは口早に言った。
 「州知事の強権発動、ってやつだ。殺されたルウティは自分のところで出入りの職人にミイラにさせる、今すぐ死体を引き渡せ、だと」
 「ずいぶん急な話だな」
 「おまけに容疑者の身柄も引き渡せ、だとさ。まだ訴状も出来たばかりだってのに。神殿の法廷じゃなく、州知事の法廷で裁くんだと」
 「もちろん、断ったんだろ。」
 「そりゃそうさ、大神殿の聖域の中で起きた事件は神殿の管轄だ。神々の御前法廷で裁くのが慣例じゃないか。」
逆に言えば、何か、そこまでして隠したいことがあるに違いない。ひどく都合の悪い何か――「見つけたかもしれない」ナクトは高鳴る心臓を押さえ、言葉を継いだ。「接点だ」
 「接点?」
 「ヌリの言っていた、”石の青い扉”さ。あの路地の奥にそういう店があった。銘入りの護符を作っていた」
 「ほう」
 「州知事の奥方は、最近亡くなったんだったよな。アシウトでミイラにするとか」
 「ああ、そうらしい。うちの大神殿に対する当て付けだろ」
 「…アシウトに、腕のいい護符職人は、いるのか?」
メネスは、目をしばたかせた。このメンフィスは、創造神にして鍛治や工芸の守護神でもあるプタハを主神にいただいているお陰で、良い職人が多く軒を連ねている。他の町では、そうはいかない。
 「ミイラ作りは他所で頼めても、作るのに何年もかかるような立派な護符を扱ってる職人なんて、そうそういない」
 「そうか! それで、埋葬に入用な護符をこっそりメンフィスの職人に発注して、受け取りを遣したのか。貴人ともなれば、護符もつけずに包帯は巻けないもんな。」
 「役人ルウティの役目が護符の受け取りだったとしたら、身支度を整えてたのだって説明がつくだろ。観光じゃなくて仕事で来たんだから。急いでいたのは、人目につかないうちに、早く用事を済ませたかったんだ。そして―ー」
途中でヌリとすれ違った。
 「すれ違った?」
 「言ってたじゃないか。”服につけた”って」
色をつけたばかりの指が、真っ白な上等の亜麻布に触れれば、はっとするほど鮮やかな色がつく。正直なヌリは恐れ、謝ろうとして追いかけたのだろう。急いでいたルウティは気づきもせずに立ち去った。ナクトとぶつかりかけた時と同じように。
 これなら、筋道が通るように思えた。これが真実だとしたら、ヌリは無実だ。まだ乾ききっていない手を、もう他の誰かに触れることのないよう、左手で隠しながら、なれない道を船着場まで辿ったに過ぎないのだから。
 「――でもさ、だとしたら、受け取った護符は? 財布がほとんど空だったんなら、受け取りはもう済ませた後だったんだろ。州知事も、あのホルネケンって役人も、そいつのことに一向に触れない。いくらメンツがあるからったって、値が張る護符が丸ごと盗まれたんなら、真っ先にそのことを騒ぎ立てるはずだ」
 「うーん…。」
そこが解せなかった。「そういえば…。ルウティが乗ってきた船は? 見つかったのか」
 「そんな話は聞いてないな。まだ探してるのかも」
消えた船。ヌリが追いつけなかったのなら、殺された男は乗ってきた船に乗って、5つ過ぎには既にこのメンフィスを離れていたことになる。そして、――死体となって戻ってきた。
 「船だ…」
ナクトは、我知らず立ち上がっていた。
 「船の上で殺されたんだ。それなら血の跡はどこにも残らない、誰も声を聞かない。川に投げ込むのだって簡単だ」
塔の下のほうで、水に飛び込んで騒ぎあう水夫たちの声がまだ響き渡っている。
 「祭りの前夜に、酔っ払って川に飛び込む連中はいくらでもいる。ちょっとやそっとの水音じゃ誰も気にしない。きっとそうだ…」
 「おい、どういうことだ? 船の上でって。たまたま船に殺人者が乗ってたとでも」
 「そうじゃない。最初から一緒だったんだよ。…真正面から刺されて、逃げも抵抗もしなかったのは、相手が"知り合いだったから"だ。」
 「!」
メネスは息を呑んだ。「――まさか… そんな」
 「つじつまは合うだろ。ルウティは、この町に一人で来たわけじゃなかったんだ。最初からそうする計画だったのかどうかは分からないけど…。護符はきっと、その、殺害者が持ってる」
だとしたら、真犯人は。
 「と、なると、証拠が必要だな」
言いながら、メネスは塔を降りる方向へ向かっていた。
 「どうする気だ?」
 「その、護符屋が怪しい。州知事の使いなんて知らないっつったんだろ? 何か疚しいとこがあるに違いないぜ」
 「って… 相手は一般商店だぞ?!」
神殿の付属施設に忍び込むのとは、ワケが違う。
 「覗くだけさ!  心配ないって」
言っても聞かないことは分かっていた。今のままでは、ルウティがなぜ殺されたのか、最も肝心な部分が見えていないのも事実。ナクトも、しぶしぶ後に続く。


 祭りは今や最高潮だ。広場の周りには人だかりが出来ていて、裏路地の人通りは逆に少なくなっている。足早に通り抜けようとしたとき、ちょうど店から出てきたばかりの赤ら顔の男が、二人を呼び止めた。
 「あれ、あんたたち」
見れば、昼間路地の入り口にいた蛇使いではないか。一仕事終えて、一杯やってきたのだろう。
 「よう、今日はもう店じまいかい」
 「ああ、祭りの音のほうがうるさくてね。明日また昼からやるのさ」
そう言って、男はにやりと笑った。そういえば、蛇の籠も、商売道具の独特の笛も持っていない。
 「あんた、宿とってんのか」
 「いやあ、俺んちは、すぐそこ。本業は漁師ってとこだな。祭りの時だけああして蛇を使うのさ、はは」
なるほど―― 神殿に捧げる供物用の魚を卸しているのだ。祭りの期間中は神殿のこまごました用向きをこなす人々は仕事から解放されているから、この男も空いた時間で副業の稼ぎをやっているのだろう。
 「なあ、あんた、この先にある護符屋を知ってるか。扉に青い石を吊り下げてる」
 「知ってるよ。イセシ爺さんのところだろ。無愛想で近所づきあいもなんもないけど、お偉いさんが良く来るって話だ。腕はいいんだろうな。」
 「州知事もあそこの客なんだって?」
 「そうなのかい?  おれぁ知らないが。――何だって、そんなことを聞くんだい」
男は、明らかに興味を惹かれたようだった。「昼間はクシュ人がどうとか。何かあったのかい」
 「いや、大したことじゃない。えーと… ほら、東に遠征に行く兵、そん中にさ、知り合いがいるんだよ。そいつに買ってやりたくて…いい護符って幾らくらいするのかと思っただけさ」
 「その知り合いがクシュ人なのかい? 見たとこ、あんたたち大神殿でお勤めしてるんだろ。下級兵士と付き合うなんざ、珍しいね」
 「悪い?」
ナクトは、むっとしたように言い返した。「書記は書記の子としか付き合うな、なんて、書記学校の先生みたいなつまんないこと言わないでくれよ。そういうの嫌いなんだ。」
 「すまんすまん。そういう意味じゃない。そうだな、ま―― そういうことなら、ひとつ、爺さんに相談してみちゃどうかね。場合によっちゃ安く譲ってくれるかもしれんよ」
 「安く?」
 「なんだかしらないが、安いやつもあるんだよ。彫りなおし… って言ってたかな…。何かの都合で支払いが出来なかったり、受け取り主が現れなかったりで、名前や呪文を刻みなおした護符は安いんだ、って、いつだったか、聞いたことがあるんだよ。」
 「ふうん」
確かに、特別注文の一品ものだから価値が高いのであって、使いまわしや傷のあるものは価値が下がる。ただ、金も地位もある連中が、そんなものをわざわざ欲しがるとも思えない。必要とするとしたら、急な不幸で亡くなった人のために、急遽、埋葬の品を揃えなくてはならない時くらいだが――。
 (まさに今がその時だ。)
州知事の妻が急な熱病に倒れたのは、ほんの一ヶ月前のことだ。まだ若かったから、死後の準備は何も整えていなかったかもしれない。
 ついてこようとする男をなんとか振り切り、二人は、そのイセシの店へ向かった。さすがにこの時間になると、もう、表の扉は閉まっている。奥まで真っ暗で、中に人の気配はない。祭りに出かけてしまったのだろうか。
 「裏に回ってみよう」
この辺りの家はどこもそうだが、裏口に、各家庭専用の小さな庭を持っていることが多い。隣の家との間隔を保つためでもあり、ごみを捨てたり、用を足したり、家畜を飼っている家もある。
 裏口のほうから見ると、窓に灯りがちらちらとゆれているのが見えた。
 「いるみたいだな」
 「うん―― でも…」
灯りが消えた。その僅か後、ドアが軋んで半分開く。二人は口を閉ざした。見つかったのか?
 中から出てきたのは、ナクトが見た、店主の老人だった。短く刈り込んだ真っ白な髪。小脇に、何か包みを抱えている。気づかれたわけではないようだった。老人は、なぜか周囲を注意深く見回し、後ろ手に扉を閉ざすと、ナクトたちの隠れているのとは反対方向から路地に出て行く。様子が変だ。ただ祭り見物に行くのとは違うらしい。
 「つけてみよう」
人ごみで老人を見失わないよう、二人は、ある程度の間隔を開けながらも注意深くイセシ老人の背を追った。どこまで行くのだろう。人ごみを逆流し、西の塔門のほうへ向かっている。そこから先は、人通りもまばらになる。気づかれないよう、気をつけなくてはならなかった。



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