ワアグ祭の殺人<4> 証言者


 しかし結局、その夜は空振りに終わった。
 殺された男が食事をしたと想定して食事処を一軒一軒回ってみたが、それらしい目撃情報は無かった。もちろん客が多く、実際は訪れていても覚えていられないというのもあるだろう。目立たないよう気をつけていたなら尚更だ。飲んだくれて暴れるか、よほどの上客だったならまだしも…だが、ルウティは賢明にも、祭りの場でハメを外すようなことはしなかったらしい。
 前夜祭が終わり、今日はいよいよ本祭の一日目。神官たちは神殿を訪れる信者を迎え入れるのに忙しく、さしものメネスもそう簡単には抜け出せない。会えるのは、昼過ぎてからだろう。


 宿舎で悶々としていても心が晴れないので、ナクトは思い切って参拝に出かけることにした。神だのみ、というわけでもない。書記生である以上、職務上の主神である書記の神に詣でるのは、ある意味、義務のようなものだ。
 トト神の祭られた小神殿の前は、既に多くの同業者でごった返していた。一年に一度、神像の置かれた神々の御座への扉が開かれる三日間。通常であれば前庭までしか入ることを許されない聖域の、そのもう一歩奥まで信者が立ち入ることを許される。神殿前は既に多くの人でごったがえしている。ナクトと同じ書記学校に通う仲間たちや、その家族の姿もちらほら見える。手に持ったかごは、神への捧げものだろうか。神々に学業の大成と、将来の出世を願うのだ。供物を売る屋台は大繁盛。護符も飛ぶようにはけている。ナクトも、申し訳程度にひと束の瑞々しい花を買ったが、豪華な供物がよいとは到底思えなかった。
 人に対してするのと同じように、よき贈り物は神々の舌をも軽くするものだろうか。そうは信じられないのだが。


 参拝を終え、人の流れに押し出されるようにして小神殿を出てきた時、ふと、ナクトは、神殿の向かいの道に店を出している指染め屋に気がついた。未亡人らしい女が一人、小さな卓を前にして、訪れる参拝者たちの右手を受け取って、葦を細かく砕いて一まとめにした柔らかい筆を使って、その指に素早く朱を塗りつける。乾かしたヘンナを砕いて水に溶いた染料を使い、朱に染めるのは人差し指と中指だけと決まっている。心臓を守るための「二指の護符」だ。神に申し開きをするとき、その赤い指を胸に当てて喋れば、少しは罪がごまかされるのだという。つまりは、神像の前で祈るのに、緊張しすぎないように、こうして気休めに指を染めていくというわけなのだ。
 ナクトは、この類のおまじないは好きではない。「気休め」だと分かっていて、敢えてやろうとは思わなかった。幼い頃一度だけ指を染めてもらったことはあるが、乾くまでは何も触れないし、染料だけに一度服についたらなかなか落ちないし、おまけに、染まった指は一週間はうっすらと朱がかったままだった。神に言い訳をしにいった証拠が一週間も体に染み付いているようで、何となく落ち着かなかった。
 指さめ屋の女が、顔を上げた。
 黒い被り布の下。濃く縁取りをした目。若くは無い、が―― 年寄りでもない。ナクトは思わず視線を逸らした。何か言いたげな視線に感じたのは気のせいだ。――多分。


 まだ時間はあったが、一人で町をうろつく気分にはならなかった。時間を潰すつもりで、裏口から大神殿の中に入り、書庫を目指す。幼い頃から、父や兄たちに連れられてよく来ていたから、途中ですれ違う神殿の警備や神官たちは顔見知りだ。迷い込んだ一般信者がつまみ出されている横を、彼は素通り出来た。
 イトネブは、今日もそこにいた。一日のうち僅かな時間を除き、この老人は常にそこにいる。もう人生の長い時間を、そうして、そこで過ごして来た。
 「先生」
呼びかけると、イトネブは書き物の手を止め、顔を上げた。
 「ナクトか。どうした」
今日は、書庫にはこの老人一人しかいない。さすがに祭りの本番ともなれば、書記たちの気もそぞろになり、仕事が手につかなくなるのだろう。こんな日に仕事をしているのは、よっぽどそれが好きな者か、やむを得ず手を動かさねばならない者くらいだろう。
 「おや? ナクト」
その、やむを得ず手を動かしている者がもう一人。兄のジェフティネフェルだ。
 「兄上… 何してるんですか?」
 「言っただろう、訴状を作ってるんだ」
そういえば昨日、「明日には出来る」と言っていた。この兄が、書類を期日に間に合わせないなどということは有り得ない。
 「聞き取りは、もう終わったんですか。犯人への」
 「終わった。と、いうより、正確にはほとんど何も聞き出せなかった。容疑者のヌリという男はずっと泣いていて、ごめんなさい、とばかり繰り返していたよ」
 「その人は犯人じゃないかもしれません」
ジェフティネフェルは、ちら、とイトネブを見た。イトネブは小さく頷く。「ナクト、座りなさい。丁度、その話をしていた」
 ナクトは、イトネブの正面の背もたれのない小椅子に座った。今、この書庫には彼らしかいない。表の喧騒からも切り離され、誰からも話を聞かれる心配はない。
 「話してみなさい、ナクト。何を知ったのか」
 「あれから、船着場へ行ってみたんです。船で着いたに違いない、と先生に言われて。――」
彼は、昨日ジェフティネフェルと会うまでに調べたことを順を追って話した。死体は、殺された場所から運ばれて、わざわざ川べりに投げ込まれたのだろうということ。死体の見つかった場所からそう遠くないとしても、周辺で、叫び声や争いの音を聞いた者はいないこと。
 「もしも、捕まったクシュ人が犯人ではないとしたら、一体だれがルウティを殺したのだろう?」
 「分かりません、でも、不思議なことが多すぎます。これから殺される男が、正面から刺されるのに声も上げないなどということが、あるでしょうか」
 「その時、既に気を失うか、正気でなかったなら或いは。」
 「すれ違った時、酒を飲んでいる様子はありませんでした。まるでこれから公務にでも出かけるみたいに、きちんとした身なりをしていたんです。短時間で酔っ払ったとは到底思えません。もし、気絶させられていたとしても―― 激痛が走れば、目を覚ますのでは…。」
 「あのクシュ人は、どうして船着場にいたのかな?」
ふいにイトネブは、思いもよらない質問をした。 「道に迷って偶然たどり着いたのかね。それとも、何か目的があったのだろうか」
 「……。」
考えてみなかった。
 「偶然でないのだとすれば、怪しまれるような何かをしていたということだ。結びつける糸が今のところ見つからないからといっても、無関係とは限らない」
ジェフティネフェルも言う。
 「彼らは兵士だ。武器があれば、人を殺すのには慣れている」
 「でも」
ナクトは、首を振った。
 「盗人と兵士は違います。これから遥か東の地へ送られようというのに、人を殺してまで盗みを働くでしょうか」
 「確かにな。本当なら、本人に聞ければよかったのだが――」
ジェフティネフェルは、ため息をついた。
 「あの、ホルネケンとかいう男か」
 「こちらの質問はすべて遮って、ただ、吐け、吐けと怒鳴りつけるばかりで。あれでは聞き取りにもなりません。」
 「怖そうな人でしたしね」
ナクトは、昨日すれ違ったいかめしい役人の姿を思い出していた。州の役人というのは、みんなああいうものだろうか。香油こそつけてはいなかったが、堅い髭を綺麗に整え、これ御世貸しの重たい金の腕輪をつけ、上等の亜麻布を身につけていた。体中のそこかしこから、自分は特権階級なのだという雰囲気を振りまいていた。一人で夜道を歩いていたら、追いはぎの格好の餌食だろう。
 「そういえば、あの男も船で来たんだね。」
 「ええ。ルウティも自分の船は持っていたようですが、まだ見つかっていません。今回に限って乗り合いの船か、近隣の村で渡しを雇ったのかもしれませんが、まだ特定出来ていないそうです。」
 「この祭りへ、何のために来たかは言っていたのかね」
 「休暇をとって観光だ、と。」
 「まさか。」
思わず、ナクトは声を上げた。「休暇であんな身支度はしませんよ」
 「勿論、信じてはいないがね」
笑いながら、上級書記の青年は肩をすくめた。「最も、この町を訪れた目的が何であれ、事件の真相に関わるような話でなければ突つく必要もない。」
 イトネブは、頷いてナクトのほうを見た。
 「殺された者に、殺されるほどの罪があったとも限らない。とはいえ、わしも、この件には少々疑問を感じている。祭りの最中の事件だというのに、州知事側は、大神殿に難癖をつけるより事件を終わらせてしまうことに注力しているように思える。強引にでも、よそ者を犯人に仕立て上げたい理由があるのかもしれん。――ナクト。」
 「はい」
 「守護神トトは、善く真実を愛し、正しき言葉を求められる。我々では見落としたことも、お前なら見つけられるかもしれない。もしも疑わしきことがあるのなら、真実を明らかにするよう努めなさい。」
ナクトは、頭を下げて書庫を退出した。


 いつもの場所でメネスと落ち合うことが出来たのは、昼過ぎてからのことだった。
 昨日の前夜祭に引き続き、今日から本祭とあって港は昨日よりさらにごった返している。ちらほらと兵士の姿もあるが、警備兵か、州に属する正規の軍ばかり。あんな事件のあったせいか、近くに駐屯している遠征軍の兵士らしき姿は見かけない。
 真昼の日差しの下でも屋台は元気に店を開け、一年分の商売に精を出している。普段の祭りに比べ、見回りの兵や下級神官の数も多い気がした。だが事件はもう、終わったことになっている。これ以上、何が起こることがあろう?
 屋台で買ってきた、干したナツメヤシやパンで胃袋を満たしがてら、ナクトは、書庫での話を繰り返した。州知事は、殺された役人が異国人の物盗りに襲われて死んだ、不運な男だったことにしたいようだ――と。
 「胡散臭いな。何か隠してるとしか。エムハトの話じゃ、あのホルネケンって奴、同僚の死体もほとんど見ずに、いつミイラにしてもらえるのか、それが出来ないなら引き渡してもらえるのか、ってそればっかり聞いてたそうだぜ。悲しむそぶりも見せなかったって」
 「でも、遺体には何も怪しいところは無かったんだろ」
 「ああ。正面から一撃、それ以外には傷はなし。…やっぱおかしいよな。至近距離から一撃って、もし犯人が異国人だったら、近づいてくる前に警戒するだろ」
 「うん」
 「声も上げずに黙って心臓を刺されてやるなんて、相手が知り合いでもなきゃ、有り得ない」
この町に、殺されたルウティの知り合いはいたのだろうか。いや、いたならとっくに噂になっているはずだ。格好の客引きの話題だ。そういうことには耳ざとい酒場の人々が、噂にしないはずもない。
 「考えたんだけど、ルウティの足取りを追えないのなら、ヌリ… その、捕まったクシュ人のほうはどうだろう」
 「容疑者の?」
 「目立つはずだろ。絶対、覚えてる人がいるはずだ」
メネスは、ぽんと手を打った。「それだ!  無関係なのかそうでないのか、そいつがどうして夜の五時過ぎに船着場にいたのか、確かめてみよう。」


 そういうわけで、二人は、東の船着場から始めることにした。昨日の夜、話を聞いた酒場をもう一度訪れ、見かけたというクシュ人がどんな背格好だったかをたずねてみる。
 「そうねえ… 暗くてよく分からなかったけど、背はまぁ高かったし、髪の毛はちぢれてたでしょ。何も持ってなかったみたいだったけど… 皮の服だったわ。それは確かよ、皮なんて妙なもの着てるのはよそ者くらいでしょ」
おかみは、興味津々に目を輝かせている。「ね、何かあるの? あの事件って、まだ終わってないの?」
 「いや、単に俺たちの知ってる奴じゃないかどうか、確かめたかっただけさ。クシュ人ってほら、どいつも一緒みたいに見えるだろ。だからさ」
おかみの表情に、がっかりしたような色が浮かぶ。申し訳ない気もしたが、本当のことは言えない。この事件を疑ってこっそり調べている者がいるなどと知られれば、半日のちには、町中の噂になっているに違いない。そうなれば、もしかしたら別にいるかもしれない真犯人を警戒させることになる。
 今は、この事件を疑っている者がいることを知られたくない。
 二人はさらに小道を町の中へと辿っていく。前夜祭の前の日、夜の五時ごろ、うろうろしているクシュ人を見かけたという者は意外に見つかった。店じまいをしようとしていた屋台の男、ごみを片付けていた酒場の主人。彼らの全てが、そのクシュ人は何かを探しているようだったこと、手ぶらで、武器を身に着けている様子はなかったことを証言した。そして―― これは奇妙なことだが、「左手で右手を押さえているようだった」とも。
 足取りが辿れたのは、小広場の手前までだった。そこから先は、前夜祭に大神殿が屋台を出すところで、一般人の店は出されていなかったからだ。事件のあった日の夜は、まだ何も準備されておらず、がらんとして、人通りも少なかった。
 だが、ヌリがどの道を辿ったか、見当はつく。
 「こっちだ」
あの夜、男が消えていった方角。小神殿と反対側の路地のほう。そういえば、ジェフティネフェルとホルネケンに会ったのも、丁度この辺りだった。飲み食い処の並ぶ通りは何本かあるが、そのうち一番、小神殿に近い通りの出入り口に、指染め屋が店を出している。あの黒い被り物の未亡人は、まだそこに座っていた。昼の暑さで、客足がやや遠のく時間帯である。この時間は、参拝客も買い物客も、木陰や川べりで一休みするか、路地裏の涼しい店で飲み食いしながらお喋りに打ち興じている頃合だろう。
 ナクトは、何とはなしに指染め屋に近づいていった。
 「あの、すいません」
女は無言に自分の左手を差し出す。
 「…あ、いえ。指染めじゃなくて、聞きたいことがあって」
被り物の下から、黒い縁取りのされた目がこちらを見上げる。「覚えてるかどうか―― もし、その時もう店を出してたら、なんだけど。前夜祭の前の日の夜、5つ頃に、ここを、クシュの傭兵が通らなかったかな」
 「……。」
女は、ぴくりとも表情を動かさない。差し出した左手をひっこめたものの、じっとナクトを見上げているばかり。
 「あはは、無理だよ兄ちゃん。その子、口がきけないから」
唐突に、すぐ隣から陽気な声が飛んできた。縦笛を手にしたヘビ使いだ。笛を吹くと先端につけられた赤い布がひらひらとゆれ、それに釣られた蛇が食いつこうと鎌首をもたげる、たったそれだけの子供だましの余興なのだが、祭りといえばこれがないと始まらない。蛇使いの笛の音は、祭りの楽しい雰囲気と直結している。特にメセスは、蛇使いの余興を見るのが好きだった。
 「よう、あんたも前夜祭の前からここにいたのか?」
 「いんや、俺は前夜祭からだけどね。あの日は、町の中で何か騒ぎがあったとかで、昼過ぎまで西の門が閉じてただろ? それで客があんまりいなかったんで、門が開いた後から来たのさ」
容疑者を町中で探し回っていた時のことだ。殺人が知れたのは日の出の少し前。それからすぐに、町に入る唯一の門は閉ざされていた。港も同様だ。出入りした船は一艘も無い。
 ナクトの腕を、指染め屋がひっぱった。手に筆を持っている。
 「あ、ごめん、本当に指は――」
違った。彼の腰に下げている袋を指している。「書くもの?」袋の中には、いつも持ち歩いている筆記用具がある。
 走り書き用の、何度でも洗って使える陶器の破片を差し出すと、女は、指染めの筆をまるでペンのように使って何かを書いた。
 「なんだ? なんて書いてるんだ」
 「文字じゃないな。えーと」
塗りつぶされた人の顔と、指が二本。
 「…もしかして、ここに来て指染めをした、って言ってるんじゃないのか」
女はこくりと頷いた。
 「本当に? 皮の服を着て、手ぶらだった?」
また頷く。そして、片手の五本の指を差し出した。
 「夜五時頃…。どっちへ行ったんだ」
広場の向こうを指す。東のほう。船着場へ向かう道だ。ということは、容疑者の男は、この先の路地を抜けてきたことになる。
 「朱で筆談とは、しゃれてるね! ははは! ところで兄ちゃんたち、うちの蛇たちとは遊んでいかないのかい」
蛇使いは陽気に笛を吹き鳴らし始める。
 「またあとでね。探し物が見つかったら」
 「おう。あとでまた来るよー」
ナクトとメネスは、勢い込んで路地に突き進んでいった。路地には、この聖域を訪れる参拝客を迎えるため、何十という小さな店がひしめき合っている。ヌリも他の参拝客と同じようにここを訪れ、祭り屋台を楽しんで、最後に、出口で指を染めてもらったのだろうか。
 「この人ごみの中、一軒一軒聞いて回るのは、現実的じゃないよな…」
勢い良く歩き出したものの、十歩もいかないうちに、メネスが音を上げた。
 「そうだね。もう二日前のことだし、来てても覚えてないかもしれない」
追いかけてきた足取りは、この路地で途切れた。殺されたルウティは、この路地に向かう姿を最後に、帰路につくまでの何処かで殺された。容疑者のヌリは、この路地を抜けて船着場のほうへ向かい、船着場のあたりで何かを探してうろうろしている姿を見られている。二人を結びつけるものも、切り離す証拠のない。何かが足りなかった。何か、決定的なものが。
 「――調べるとしたら、あとは本人に聞くしかないぞ。」
 「本人?」
数秒考えてから、ナクトはぎょっとした。「…まさかメネス、君…」
祭りで騒ぎを起こして警備兵に捕らえられた人々は、城壁の外側に作られた牢に繋がれているはずだった。ちょっとした喧嘩ざたや揉め事なら一晩反省させられてすぐにも釈放されるだろうが、殺人の容疑者ともなれば話は別だ。裁判が始まるまで、厳しく見張られているに違いない。面会も認められるかどうか。



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