ワアグ祭の殺人<3> 前夜祭


 日が傾き、夕刻が近づき始める頃合になると、いよいよ前夜祭が始まる。
 神殿前には参拝者にハチミツ入りのパンや酒といった晴れの食事を振舞う屋台が店を開け、護符や呪文書を売る珍しい市が、広場のそこかしこに開かれている。この聖域のあるじである冥界神プタハや、その家族である神々のしるしをかたどった護符もあれば、祭の主人公であるトト神の聖獣である黒トキの羽根が綺麗な箱に収められ、お守り代わりに売られていたりする。そうした市は神官たちが開いており、神殿の収入となる。他の市で売られているまがい物と違って、ここで手に入るのは神殿の「お墨付き」のある本物というわけだ。ご利益を求めて、わざわざ遠方から出向く人もいる。
 その、神殿主催の屋台から少し離れた辺りに、もっと安物の一般的な護符や、簡素な神像を売る屋台が並び、占いやら蛇使いの余興といった少々いかがわしい店が続く。路地裏に続く道ほど低俗で庶民的な、こうした祭りに付き物の出店が多い。
 ナクトは、小神殿前の広場から続く裏通りへと向かていた。大神殿の壁に沿って続く隠れた小道で、地元民でもなければ入ってこない。逆に言えば、表通りの雑踏に疲れた地元民が一休みするのに丁度良い場所ということになる。
 そこには、まだ祭りが始まって間もないというのに、既に酔いつぶれて隅っこに寝そべっている者がいた。神域の端に隣接する宿坊の1階からは、酔っ払った料理長の上機嫌な声が通りまで響いてくる。水で薄めた安いビールを売る店が声を張り上げ、どこかから焼けた肉のいい匂いが漂ってくる。町は隅々まで活気付き、今朝の悲劇など忘れられてしまったかのように思えた。犯人も捕まったのだ。人々にとって、事件は終わった話なのだった。
 「ナクト、ナクト」
物陰から呼ぶ声がする。明るい通りから暗がりに入ったばかりで、夜目の利かないナクトの袖を引っ張り、物陰に引っ張り込んだのはメネスだ。「こっちだ」傍目にはそうと分からないようなところについている木戸を潜り、彼は慣れた足取りで聖域の壁の内側にナクトを招き入れた。
 メネスは、物心ついたときから大神殿に暮らし、隅々までよく知っている。どんな抜け道も、どんな隠れ場所も承知の上だ。
 木戸を潜ると、そこは薬草園になっている。大神殿が経営する施薬所、つまり病院で使われる薬の材料を育てている。プタハ神の息子であるネフェルテム神は、薬学の神でもあった。生命力の象徴たるこの神に祈れば、あらゆる病や怪我が癒されるという。その信仰ゆえに国中から難病を患った信者が訪れるが、聖域にくれば病が癒える、というのは、あながち嘘でもない。神官は医学者でもある。この神殿の「生命の家」、すなわち医者の養成学校には、この国でも指折りの名医が揃っている。信仰とは、人の努力によっても創られるものなのである。
 薬草園を横切れば、裏から大神殿の最深部に近づくことが出来る。途中には神に捧げられた聖牛の館と、修行僧たちのための学び舎があり、高級神官たちの私室は反対側。つまり、厄介者に遭う可能性は低い。昔から大神殿に忍び込む時はこの道、と決まっている。


 冥界神プタハへの祈りは、日没と夜明け前に行われる。
 夜の世界を統べる冥界神であるがゆえに、日の昇っている間、神は眠っていることになっているからだ。最もナクトは、神が本当に眠るとは思っていない。眠っているように見せかけて、いつも心の目を開いている。そうでなければ、人の祈りをいつでも受け入れ、世界を見守り続けるなどということが出来るはずもない。
 とはいえ、神殿の行事、平たく言えば神のしもべたる神官たちの生活は、教義上定められた、神にとっての「一日」によって進行している。メンフィス大神殿の主神殿が開かれるのは、神の目覚めている「夜間」。だから、トト神が主役の大祭の日といえども、その時間だけは大神殿に人が集まった。月の無い新月の夜、すなわち夜の秩序たる「銀の円盤」を知恵の神が遣さない夜に、闇を統べる冥界神プタハの聖域が開かれるのは自然な流れだった。タハ神の妻、燃え盛る太陽たる獅子女神セクメトと、息子であり、太陽の輝きと生命力を体現する若き神ネフェルテムの聖域は、今は静かに閉ざされている。
 こうして、ここメンフィスでは、新月の夜にまず聖域のあるじたるプタハ神を讃える儀式からワアグ祭が始まるのだった。月を額に頂くトト神は、慎ましやかに脇に寄っている。
 壁のくぼみによじ登り、頭を下げれば、下からは誰にも見つかる心配はなかった。目の前には、神殿の内部にひしめく多くの信者たち。ふんだんに香が炊かれ、回廊のところどころに灯され燭台の灯りは、まるで天の星々の一部が落ちてきたかのよう。
 ここは、ナクトとメセス二人だけの秘密の特等席だ。
 ひときわ明るく照らされた高段の上には、今日の儀式を取り仕切る大神官と、その傍らで助手を務める高位神官たちの姿が見える。そして、さらに後ろには、香油や燭台、神への供物などを捧げ持つ、さらに下位の神官たちが立ち並ぶ。
 メネスも、あと何年かすれば、あの列にまじるのだろう。ナクトは、ちらと隣の友人を見、それから、中央で祝詞を捧げる大神官の纏う白い長衣に目をやった。周囲の高位神官たちは、独特の首飾りを提げ、神像を隠す御簾の前に頭を垂れている。神官と書記の世界は全く違っていた。どちらも堅苦しい決まりごとだらけの世界ではあるものの、書記ははるかに現実的だった。相手にするのは現世の数字や証文である。神官のように、見えない「あの世」や神秘を相手にはしない。
 目に見えるもの、手で触れられるもの、人の世界。――それがナクトの理解できる、精一杯のものだった。信仰心が無いわけではない。が、神々の世界はあまりに遠く、厳粛に祈る何尾役人もの信者たちを目の前にしても、実感が沸いてこなかった。それよりも、気になるのは殺された男のことだ。広場ですれ違った時は、確かに生きていた、あの男。まさか、翌朝を迎えることなく命を落とすなど――

 「ナクト、おい。寝てるのか?」

呼ばれて、はっとした。メネスが眉をひそめている。
 「どうしたんだよ、これから盛り上がるとこなのに」
 「…ああ、ごめん。」
 「やっぱり、気になるのか? あの事件のこと」
旧知の仲。お互い、大抵のことはお見通しだ。
 「イトネブ先生は、あの人は船で町に着いたんじゃないかと言ってた。それなら宿が見つからなくても不思議じゃない。だけど、おれが会ったのは小広場だったんだ。船を下りて、それから何処へ行くつもりだったんだろう。死体で見つかったのは、船着場のほうだった。ということは、町で用事を済ませてから、船に戻るつもりだったんだ。ごく短時間の滞在だ。そんな短い時間、しかもあんな急ぎ足だったのに、"たまたま" 物盗りに襲われる、なんてこと… あるんだろうか?」
 「……。」
メネスは、頷いて壁のくぼみの中で向きを変えた。
 「エムハトに聞いてみようぜ。あいつなら、きっと知ってる」
言うなり、壁を滑り降り始めた。
 「おい、祭りの見物は?」
 「どうせ毎年見てるんだし、今の話聞いたらそっちのほうが気になった。行こうぜ!  今なら、面倒な連中はみんなそこの祭壇にいる」
思いついたら一直線だ。ナクトは、はや暗がりに姿を消そうとしている相方の後を、慌てて追いかけた。


 エムハトというのは、神殿に勤める神官の一人で、メネスの、言うならば「同輩」だった。父親は高位神官の一人だが、彼ときたら学業はいまひとつ、頭の回転もお世辞にも早いとは言えない。年は五つ上、既に一人前の神官ではあったが、いまだ下級神官に近い仕事しかさせてもらえていない。とはいえ、この堅苦しい大神殿の中で、彼は陽気で話しやすく、身分の違いも気にしない、貴重な存在なのだった。
 祭りの最中だというのに、問題のエムハトは聖牛の館にいた。館とはいうが要するに厩舎で、中には、冥界神の聖なる獣とされた漆黒の体毛を持つ立派な牡牛が一頭、繋がれている。
 「よう、エムハト。やっぱりここだったか」
声をかけられ、牛の毛を丁寧にくしけずっていた若者は、陽気な笑顔を振り向けた。
 「やあ、メネスにナクト。どうしたんだい、祭りを見ないのか」
 「ちょっと聞きたいことがあってね。お前、今日、親父さんの助手で死体の検分に付き合ったんだろ?」
――と、いうのも、あれから遺体はここに運び込まれたからなのだった。
 普段なら、遺体はすぐさま町外れにある人気のない区域にあるミイラ工房に運び込まれる。川と城壁の間に、ほとんど張り付くようにして建てられたそこは、この聖域の中で最も人の寄り付かない、聖と俗の間に位置する世界だ。
 だが、聖域で祭りの行われる晴れの日にはミイラづくりの作業は行われないことになっていた。一度作業を始めてしまったら、体についた匂いとケガレは、そう簡単には落とせない。職人たちが祭りに参加するためには、その数日前から死体に触れずにいなければならなかった。だからその期間に亡くなった遺体は、ミイラ工房に運ばれず、家族が保管するのが普通だった。今回は名だたる高官の遺体ということもあり、確実に家族に引き渡すため、最も安全なこの神殿の一角に安置されることになったのだ。
 その死体の検分は、神殿づきの医師たちの手によって厳正に行われた。高位神官と書記の立会いのもと、その時の様子は余すところなく記録され、保管されている。記録は公文書だから、簡単に見ることは出来ない。出来ないが、その内容を覚えている者から聞くのは別だ。
 「どうだったんだ? 死因は、心臓を一突きだったって話だけど」
 「ああ、そう。その通りだよ。肺にはほとんど水が入っていなかったらしい。投げ込まれるか、突き落とされる前に息が切れてたみたいだ。」
 「ほかに傷は?」
 「なかったみたいだよ。揉み合った形跡もなかったって。本当に一突きだったんだね。狩りなら見事な腕前さ」
エムハトは、屈託なく笑う。「凶器は見つかってないけど、切れ味はよかったみたいだね」
 「持ち物は? 財布や印章は無事だったとか…」
 「ああ、あったよ。よく知ってるね」
ナクトは、朝見た状況を思い出そうとしていた。「真っ白な頭布、金糸で縫い取りした上等なシャツの上から粗末なマント… ベルトは皮製だった。サンダルは… 覚えてないけど」
 「ああ、そうそう。そんな感じだった。装飾品は何もつけてなかったね。それを盗っていったのかも、なんて誰かが話してた。それに、財布の中身は、ほとんど空だったそうだよ。」
それで、物盗りだと結論づけられたのか。人の命を奪ってても金品を強奪したいと思うような、腕のいい冷徹な盗賊でもいれば、話は別だが。
 「有難う、エムハト。何か分かったら、教えてくれよな。ただしこのことは、お前の親父さんには内緒な」
 「ああ、君のお父さんにもね、メネス。」
エムハトは笑って手を振ると、またすぐ牡牛の世話にとりかかった。彼は牛が好きなのだ。とにかく、牛の世話をさせれば右に出る者はいない。彼の父である厳格な高位神官にとっては、息子がそんな低俗な仕事で満足していることが気に食わない。だから、エムハトはこうして、人目を忍んでは牛に遭いにやって来る。メネスが神殿をしばしば抜け出すのをエムハトが黙っているように、メネスも、エムハトの秘密を誰かに喋ることは無いのだった。


 大神殿へと向かう人の流れはまだ続いていたが、二人はそれを逆流するように東の河岸へと向かっていた。前夜祭ともなれば、そこも、ありとあらゆる人々でごった返している。荷卸の船はほとんどいなくなっていたが、今度は遠方から船でやって来る参拝客の波だ。川の水位の上がり始めるこの季節、町の船着場に続く水路にも水が満たされ、船がつけられる幅は広くなっている。
 遠来の客に、事件の噂はまだ伝わっていないのだろう。いつもより警戒厳重な港の様子に、不審そうな目を向ける者もいる。だが、彼らとて、宿で一晩過ごすうちに嫌でも知ることになるだろう。
 「ここからだ」
ナクトは、つぶやいた。殺された男の足取りを辿るには、出発地点であり、最後の目的地でもあった船がつけられていたはずの、この場所に来る必要があった。
 「死体が見つかったのは何処なんだ」
 「分からない。…でも、今朝、寝かされてた場所は覚えてるよ」
それは、岸辺からそう離れていない倉庫と倉庫の間の路地だ。路地の先には小さな船着場しかなく、水位の上がり始めるこの季節でも、泥交じりの浅い水が溜まっているばかり。大型の貨物船は横付けできず、地元の人が小船で利用するくらいだ。
 二人は、その小道の先まで行ってみた。暗い水面には泥水が渦巻いて、周囲に派手に泥が飛び散ったような跡がある。
 「ここから引き上げたのか?」
 「そうみたいだね――」
ここに投げ込まれていたなら、気づいたのは早起きして船を出す地元民だっただろう。倉庫街を抜ければ、近くには外からやって来る旅人が一杯やるような店が何件も軒を連ねている。
 既に陽光の残した熱の残滓は失せていたが、今は人の発する熱気がそれを覆い尽くしている。表通りの喧騒からは少し離れ、人通りもそれほど多くない倉庫街にあってさえ、店はどこも大繁盛、普段ならそろそろ店を閉めようかという時間だというのに、まだまだ客足は途切れなかった。
 死体を最初に見つけたという人物は、すぐに見つかった。今朝からその話で持ちきりだったのだろう、何十回となく繰り返しただろう話を、今も上機嫌に飲んだ暮れながら大声で繰り返していたからだ。
 「そりゃあ、おったまげたもんよ。用を足しに桟橋に出たら、足元に何か浮かんでやがったんだからな。朝日が昇るより前のことさ。ここの通りの店はぜんぶ閉まってた」
既に赤ら顔のその男は、聴衆から話し代としてせしめた酒壷を片手に、陽気に喋っていた。「おいら、うっかりそいつの顔にひっかけるところだった。いやあ、あとで聞いたところじゃ、大層なお大尽だったっていうじゃないか。罰当たりなことをせんで良かったもんだ。もう漏れそうだったんだがな、ははは」
どっ、と笑いが起こる。ナクトとメネスは、男を取り巻く聴衆を避け、奥のカウンターに近づいた。金を持っていそうな上流階級の徒弟と見て、店の女主人が愛想よく笑いかける。
 「いらっしゃい。何にするかね」
 「適当に、つまめるもの。―ーなあ、あそこのおっさんが話してるのは、本当のことかい? 今朝の事件の」
 「ああ。本当さ、朝っぱらからここらの通りで大騒ぎして、あたしらみんな駆けつけたもんだよ」
その時はもう、誰が見ても、かわいそうな男がもう何時間も前からそこに沈んでいたことは一目瞭然だった―― と、おかみは付け加えた。
 「疑いが晴れたとたん、あのざまさ。まったく、懲りないもんだよ。…ま、あの飲んだくれも、借金までして酒を飲むくらいには駄目な奴だけどね。一刺しで大の大人を殺せるような根性座った奴じゃないからねえ」
 「で、その被害者、州知事んとこのお偉いさんらしいが、ここらの店じゃ飲まなかったのかい」
 「あはは、そりゃ、飲むわけないさ。こんな薄汚い店はお嫌いだろ、偉い人たちは… おっと。お客さんたちは別だけどね。」
 「ま、俺たちは、そんなに偉くないからさ」
メネスは笑って、ナクトを突いた。ナクトはじろりとメネスを睨む。「今は」と但し書きを付けるべきだ。
 「――でも、殺されたのはきっとこの近くなんだろ。夜中に誰も悲鳴や騒ぎを聞きつけなかったのか」
 「ああ、それがね。衛兵さんにも聞かれたんだけど、だれも聞いちゃいないのよ。昨夜は本当に静かだった。見たっていえばほら、例のクシュ人だけよ」
おかみは、自分も喋りたくてうずうずしていたに違いない。聞かれるまま、いや、聞かれなくても、知っていることを洗いざらい話し始めた。
 「あれは夜の五時過ぎた頃よ。さすがに店じまいしようと思って表に出たらね。なんか暗がりでウロウロしてるのがいたのよ」
 「クシュ人が一人で?」
 「そう、目立つでしょ。それで覚えてるの。その頃はもう人通りもほとんどなくなってたわね。」
 「そのあとは?」
 「分からないねえ。だけど、あれが犯人だったとしたら、もしあのとき、あたしが見てることがばれてたら…おお、怖い!」
そう言って、小太りな女主人は身を震わせた。肉付きのよい腹がぶるん、と揺れる。
 収穫はあった。今の目撃情報だけでは、そのクシュ人が犯人だという証拠は何もない。やはりこれは、まだ終わってはいない話のようだ。
尚も色々と話したそうな女主人に礼を言い、飲み食いの代金を支払って店を出る。他の店でも聞き込みをしてみたいが、どうせ似たようなものだろう。どこの店も、今夜の客引き用の話題にとばかり、この事件を、尾鰭をつけて吹聴しているに違いない。実際のところ、聖域の中で祭りの日に殺人事件など、大事件であることは間違いないのだから、たとえ世間的にはもう解決したことになっていても、あと数ヶ月は人々の口に上り続けるだろう。


 再び倉庫街、死体が引き上げられていた場所に戻ってきた時、ナクトは考え込んでいた。
 何かひっかかる。あの時…、男は仰向けにされていた。刺された染みは胸の辺りに広がっていた。凶器は胸の正面から刺さったのだろう。しかし…だとしたら。
 「どうした?」
 「うん、正面から刺されるのに、声を上げないものなのかなあ、って。」
飲み屋のおかみは、誰も騒ぎを聞きつけなかったと言っていた。この辺りで派手に血が飛び散った形跡もない。
 「夜中で人通りが少ないとはいえ、別の場所で殺して此処まで運んでくるのは大変だろ。誰かに見つかるかもしれないんだし。…それに、わざわざ川岸まで運ぶんなら、重しでもつけて川の真ん中に放り込めばいい」
 「確かにな。」
メネスは、腕組みした。「うーーん。酔っ払ってた、ってのは?」
 「おれとすれ違った時は、全然そんな様子は無かったな。」
 「じゃあ、すれ違った後、飲み屋に行ったとか。広場を横切ってたんだろ」
 「うん」
 「その先には宿や飲み食い処があるじゃないか。ほら、そいつ、腹へってたんじゃね」
 「そんな…  君じゃあるまいし…。」
だが、足取りを辿るのは悪い考えではない。殺された男が、ここから出て、ここへ戻る前にどこに立ち寄ったのか、確かめてみる必要がありそうだ。


 ナクトとメネスは、連れ立って事件のあった裏路地に来ていた。東の船着場から、ここまでの道を辿ってみたのだ。とはいえ、人のまばらだった前夜祭前日の夜に比べ、今は昼間だしどこもかしこも人でごった返し、まともに真っ直ぐは歩けない。これが、殺された男の辿った最後の道だったとしても、それを証明する確かな証拠は無い。
 「「とりあえず、今分かってる情報をまとめよう。まず―― 被害者の男は、東の船着場に船でついた。そうだよな?」
 「そうだね。その可能性が高い。」
 「そこからトト神の小神殿前の広場を通って、裏路地のほうへ行った。ナクトととすれ違ったのが、夜の四時過ぎ」
 「そう。で、あっちへ行った――」
横切った先には、参拝客のための宿を兼ねた食事処が軒を連ね、その間ごとに屋台がある。
 怪しいクシュ人がうろついていたのを、船着場の酒場のおかみが見たというのが、五時過ぎ。用を足しに川辺に出た酔っ払いが死体を見つけたのが夜明けよりも前。その時にはもう、死体は何時間もそこに横たわっていたのだから、時間的には、男が殺されたのは夜の五時過ぎの頃から夜明けの数時間前までだろうか。つまり、ナクトとすれ違ったのち数時間の間に、不運なルウティは、この町のどこかで命を奪われたことになる。
 だが、一体どの道を通っていったのだろう。裏路地の屋台はすべて、客を受け入れられるよう灯りを付けて開かれている。安物の護符や、お守りのついた装身具を売る店。不恰好な手製の神像や、生活で使うような籠、粘土製のうつわに祭りの絵を描いたものを売っていたり、はたまたヘビ使いの店に指染め屋。理髪店まで道端に店を構え、神殿に行く前に身支度を整えたい客の頭に剃刀を当てている。
 昨日はまだ祭りが始まっていなかったとはいえ、誰にも見られずにここを通り抜けられるものだろうか。
 「本当に、誰もあの男を見なかったのかな? マントは着ていたけど、上等な香油の匂いがしたし、頭布だって真新しくて、全然旅人には見えなかった」
 「見たけど覚えてないんじゃないのか。いちいちこんな細かいことを覚えていられるのは、お前くらいのもんだ。」
 「…そう、なのかな」
ナクトは頭をかいた。数学はてんで駄目だが、記憶力には自信がある。それは確かだったが、さすがにすれ違う人全員の風貌を覚えていられるわけでもなかった。殺された男のことを覚えているのは、ひとえに、場所と時間が不自然に思えたことと、あの香油のせいだ。神々に捧げられる最も上質な油のような、かぐわしい香り。貴族でもなければ持ち歩かないだろうそれを、日の暮れた遅い時間にたっぷりと浴びて出歩く者がどこにいるだろう。
 「なあ、ふと思ったんだけどさ。」
メネスは腕組みしながら言った。
 「夜中に身支度整えて会いに行くんだとしたら、やっぱホラ、女とか、偉い人とかじゃね?」
 「偉い人… でも、その時間なら、上位神官が外を出歩くなんて無いだろ? ましてや祭りの日に」
 「だよなあ。わざわざ、こんな目立つ場所で密会もないだろうし」
ルウティは明らかに身支度を整えていた。何のために?
 どこかに手がかりはあるだろうか。そう思いながら一歩踏み出しかけた時、思いがけない声が彼を呼び止めた。
 「ナクト?  ナクトじゃないか」
どきりとした。
 振り返ると、背の高い、身なりのよい青年がこちらに向かって手を振っている。肩にかけた真っ白なたすき、誇らしげに腰に下げた上等な道具入れ。一家の誉れ、ナクトより7つ年上で、神殿初期の中でも中の上の地位にいる長兄だった。
 「…兄上」
 「どうしたんだ、そんな顔をして。おや、メネス君も一緒か。さては、何か悪巧みでもしていたな。」
祭りに来る、とは聞いていなかった―― 意外だった。だが、様子からして、急な呼び出しで仕事をしに来たのだろう。そうでなければ、わざわざ書記の正装で出歩くはずもない。
 「意外だっただけですよ。どうしたんです? 祭りには、父上と最終日にだけ来ると」
 「その予定だったが、急用が入ってね。殺人事件の訴状を作って欲しいといわれた」
 「…!」
兄ジェフティネフェルの後ろから、見るからに厳しい顔つきの役人が一人、姿を見せた。州知事の家来の一人だろうか。武官のようだ。自身、腰に短剣を下げ、左右にも護衛を連れている。
 「こちらはホルネケン殿。亡くなられたルウティ殿の同僚の方だそうでね。これから、遺体の確認もされるそうだ」
 「ジェフティネフェル殿」
役人は、低い声で言った。「ご家族とはいえ、無関係の者に軽々しく口を開かれるな」
 「ああ、いえ。聞き取り書を書いたのは、この弟なんです」
 「ほう」
長兄は、何でもお見通しというように、末の弟の顔を覗き込んだ。「そうだったな。遺体が陸に上げられて、最初に立ち会ったのがお前だ。」
 「……。」
ナクトは、思わず視線を逸らした。すかさず、兄が耳元で囁く。
 「ははは、何を怯えてるんだ。立派なもんじゃないか。いつのまにか、あんなに書けるようになっていたなんて、父上も褒めてくださると思うぞ。…あの、インクの染み以外は」
 「だって、まさか… 殺人事件だなんて、聞いてなくて。現場についてから知ったし…」
 「書記たるもの、いついかなるときも動揺せず、私情を挟まず、淡々と真実のみを記録せよ! だ。最も… この聖域の中で、祭りの最中に殺人事件だなどと、聞いたときは私も信じられなかったが。」
そう言って、ジェフティネフェルは顎に手を当てる。訴状や公式文書は、ただ言われるままに文字を書き写せばよいのとは訳が違う。上級書記である彼が呼ばれて来たのは、そのためだろう。
 「訴状はもう出来上がってるんですか? 裁判は、いつ」
 「まだだが、明日には出来上がる予定だ。犯人からの聞き取りも必要だしね。書類が纏まれば、祭りが終わってすぐにでも裁きがあるだろうな」
 「書記官殿…」
 「おっと、ここから先は職務上の秘密だ。では、後でな。メネス君も」
そう言って、ジェフティネフェルは軽く目配せしてトト神殿のほうへ立ち去っていく。ジェフティネフェルは―― 勿論、メネスのことも知っている。だからこそ、敢えて言ったのだ。何しろ賢い兄のことだ。ナクトが何を考えているか、ある程度は察しているかもしれない。
 「なんだか胡散くせぇな、あの役人。」
州知事嫌いのメネスは、さっそく不機嫌な顔だ。「家臣が祭りで殺されたってんで、大神殿にケチつけるつもりじゃねぇだろうな。」
 「でも、殺されたほうに非がある話だったら、恥をかくだけだよ」
 「自信があるんだろ。…に、しても、まだ曖昧な話も多いのに、もう訴状かよ。」
捕まったクシュ人の傭兵を犯人だと決め付けて話を進めているのだろう。捜査に当たった大神殿の警備兵側はそうではないかもしれないが、州知事側から、殺人の容疑者として訴えられれば、裁判を行わねばならない。王の軍に所属しているとはいえ、後ろ盾もない一介の傭兵相手に、わざわざ援護を買って出る者もいないだろう。
 「訴えが起こされれば――有罪は間違いないな。」
 「ああ。祭りの間は裁判も開かれないだろうが、終わればすぐにでも…」
祭りが終われば、裁きが始まる。今のままでは、犯人扱いのクシュ人が助かる見込みは、まず無い。たとえ疑わしいところがあっても、他に疑うべき人物がいないのだから、都合よい犯人に仕立て上げられ、事件を無理やり終わらせるために処罰されるだろう。
 「あと三日、か。」
猶予は少ない。もしも犯人が別にいるのなら、数日のうちに、確固たる証拠を見つけ出さねば成らない。
 だが、手がかりは何処にあるのだろう。この雑踏の中、一人の男の足取りを辿ることは、本当に可能なのだろうか。



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