ワアグ祭の殺人<2> 不運な祭り客


 日が昇る前に目が覚めたのは、普段からの習慣の賜物だった。たとえ学校が休みの日でも、身体は勝手に決められた時間に目を覚ます。
 ナクトは、堅い寝台の上に身体を起こして大きく伸びをした。小さな窓に、堅いベッドが一つ、ベッドに腰掛けて使うための小さな卓と、油の残り少ない灯りとり皿がひとつ。そのほかには何もない。窓を覆う布の一枚すら。実用重視でがらんとした部屋の中には、寝泊りするのに必要なものだけが揃っている。
 西の丘を越えた砂漠のほうから、冷たく冷えた風が吹きこんでくる。夜を徹した準備の後、さすがに町は寝静まり、道を歩く人影もない。イヌが一匹、祭りのおこぼれを探してのろのろと道端を歩いている。それだけだ。
 顔を洗う水をとりに階下に下りていくと、既に何人かが食卓についていた。みな父の同僚か、その家族だ。ナクトのことも良く知っている。おはよう、と声が飛び交う。
 「今年は、例年より人出が多いらしい」
部屋の隅に置いてある水がめから洗面容器に水を汲みだしているとき、後ろで何人かが話しているのが聞こえた。
 「例の遠征軍の駐屯基地が出来たせいだろ?  ほとんどよそ者の兵隊ばっかりさ。異国人もいるし」
 「何事もなければいいがね。田舎者が、祭りでハメを外して暴れでもしたら大変だ。神殿の警備は問題ないんだろうな。」
書記たちにとって、兵士は野蛮な下級層の人間でしかなかった。兵士は生まれた土地を離れ、過酷な戦場に身を置き、生命を削って戦わねば成らない。土地に縛られているとはいえ、日々を安穏と暮らしてゆける農民のほうが遥かにましだ。神官や書記は特権階級の一部であり、職人と農民がその下にあり、兵士や奴隷は、さらにそれ以下の階級と見られていた。ナクトの両親はそうではなかったが、書記を目指す子供を持つ親の中には、兵士の子と遊ぶことを禁じる者もいる。それは珍しいことではなかったし、チャンバラや石投げといった兵士の子たちの乱暴な遊びは、確かに危ないと思うことも少なくはなかった。
 ――ただ、そうして身を削って戦う兵士無くしては、国は成り立ってゆかないのだ。
 現に今、この国を異国の野心から守っているのは国境を厳しく見張る兵士たちで、これから王の命によって、はるか海の向こうまで鉱石と宝石を求めて旅立つのも、ほかならぬ、その、見下された人々たちなのである。


 人々はまだ食事をしていたが、ナクトは手早く胃袋を満たすにとどめ、なるべく早く宿舎を出て行こうとしていた。父の同僚たちに呼び止められて勉強の進み具合などを聞かれるのが嫌だったし、ここにいてもすることはないからだ。
 彼が席を立った丁度そのとき、表から一人の神官が飛び込んでいた。
 「あの、すいません。どなたか来ていただけませんか。書き取りをお願いしたいのです。事件が――」
 「事件?」
席にいた人々は顔を見合わせる。
 神官は、なおも繰り返した。
 「その。書き取りを、お願いしたいのです。私では、出来ないので。」
ナクトは、神官の剃られたばかりの頭と、粗末な僧衣を見た。サンダルの鼻緒は切れ掛かり、色あせている。臨時雇いの神官ではないが、下級の神官だ。神殿の掃除や炊事を担当する下級神官たちは、神殿に仕えてはいても、読み書きが不自由なことが多い。事件というからには、何か揉め事でも起きて、その記録係が必要なのだ。こうした祭りの大市では、人が集まるだけあって小競り合いなども多い。例年、祭りの期間中には、屋台の場所のとりあいで殴り合いや、酔った勢いの喧嘩、物品の破損による訴訟など、こまごまとした事件は何件も起きる。
 「おれでよければ、行きますよ。」
そう答えたのは、自分がまだ見習いと知った上で、大した内容ではないと踏んでいたからに過ぎない。実際、言われたとおり書き取るくらいなら書記生にだって出来る。
 ほっとしたような下級神官の顔を見る前に、ナクトは察しておくべきだったのだ。その神官の顔に浮かんでいたのが、焦りや戸惑いだけではなく、恐怖の色でもあったことに。


 大通りを横切り、昨日メネスと話をしながら通り過ぎた小道を辿り、ナクトが連れられて行ったのは、川に面した城壁の東端だった。川面はまだ朝もやに霞み、係留された小船が一面ゆらゆらと揺れている。この辺りは倉庫街だ。参拝者のための食事処を兼ねた宿が何件か立ち並ぶ以外は、商品を積み下ろし、保管しておくための倉庫。そろそろ朝食を終えた人々が動き出そうかというところ。
 その中に、兵士たちが周囲を厳しく取り囲み、人の近づけなくなっている一角があった。
 「すいません。書記の方を連れてきました」
下級神官は、兵士にぺこりと頭を下げると、ナクト一人を残して後ろに引き下がってしまった。兵士は、じろりとナクトを見ると、無言に書き取り用のパピルスを渡して背を向けた。何だろう。何かがおかしい。ナクトは、地面に腰を下ろして書き取りの準備を整えながらそう思った。
 「――発見は、イティウの星が地平に沈む少し前。」
抑揚の無い声で、兵士が淡々と語る。
 「被害者は州知事の財務官ルウティ殿。凶器は小型の懐刀のようなものだろう。財布や印章の類は無事だが、中身が抜き取られているかどうかは分からない」
 「……」
書き取りながら、ナクトはさっきから鼻腔をくすぐるこの匂いは何だっただろうかと思っていた。不愉快な匂い。ここに、この晴れの日に、あるはずのないもの。
 「死亡原因は、失血と――」
はっとして、彼は顔を上げた。手元に僅かにインクがこぼれ、パピルス紙の端に余計な染みを作ってしまった。失態だ。父がここにいたら、書類にインクをこぼすとは何たることかと酷く叱られただろう。
 だが、ナクトはそれどころではなかった。血と、腐臭――死亡原因?
 目の前に、滴る水に塗れたござがあり、その上に、血の気の失せた白い四肢を大地に広げた男が、濁った目を母なる天に向けたまま横たわっている。顔は不思議なほど穏やかだったが、それは、突然の凶事に恐怖や痛みを感じる暇さえなかったからかもしれない。胸のあたりには、大きく血の滲んだ跡がある。
 「凶器は、おそらく短刀のようなものだろう。心臓を一突き… どうした、書記。手が止まっているぞ」
 「あ、いえ」
ナクトは慌てて手元に視線を戻した。なんたる失態。寝ぼけて状況が見えていなかったとは。
 「…書けました。これだけですか?」
 「ああ。あとはもう少し調べてからになる。書けたなら、横にいるそいつに渡してくれ。大神官殿に伝えねばならん」
ナクトは、まだ乾ききっていないインクに息を吹きかけ、滲まないよう気をつけて丸めた。人知れず、心臓が波打っている。目の前に死体があるということと、死体の検分に立ち会って記録文書を書いてしまったこと。些細な事件ならともかく、これは大事件だ。ナクトの書いた文書は、父の目にも留まるかもしれない。そのとき、あのインクの染みが――。
 真っ白になりながら立ち上がった時、今まさに白い布のかけられようとしている、哀れな死んだ男の顔に、目が留まったのだ。ナクトは、思わず声を上げた。
 「待ってください」
兵士は、怪訝そうな顔をした。
 「どうした」
 「その人―― 昨夜…」
丁寧に剃られていたヒゲはうっすらと伸びてはいるが、顔ははっきりと見ていたのだ。間違いない。金糸で縁取りされた上等なシャツ、今は泥で真っ黒になってはいるが、端のほつれていない真新しい布に、マント。
 「昨夜、宿舎に向かう途中、広場ですれ違った人です。何か酷く急いでいるようでしたけど」
 「何。本当か? それは何時ごろだ」
 「たぶん… 夜四時過ぎた頃だと思います。」
兵士は眉を潜めた。「詳しく聞かせてくれ。この人は、その時どちらへ向かっていた?」


 尋問、というほどでもなかったのだが、重要な目撃証言ということで、ナクトはその後、詳しく状況を説明させられることになった。
 殺されたルウティという人物は、このメンフィスのある州の州知事に仕える財務官の一人で、つまりは高級役人であった。にもかかわらず、祭りにゆくことを周囲に言ったけでもなく、供も連れず、メンフィスに何をしに来ていたのかは誰も知らない。あの身なりでは目立つはずなのに、町に入るところを誰も見ていない。およそマントでも被って自ら目立たぬようにしていたのだろう。彼がとった宿さえ分からなかった。少なくとも、あの船着場周辺の宿に男が顔を出した形跡はない。
 その日の正午までには、噂は噂を呼び、この凶事は町中に知れ渡っていた。人目を忍んで行動するからには、何か疚しいところがあったに違いない、と、まことしやかな囁きが、そこかしこの物陰から聞かれた。何しろ財務官といえば、知事の集めた税金を預かる職業なのだ。おおかた金でもちょろまかして女でも囲っていたのだろう、役人ならやりかねない、と、そんなことを言う者さえいた。
 ナクトは、鬱々として待ち合わせの場所に来ていた。証言者として身元を照会されたからには、家に知られるのも時間の問題だ。悪いことをしたわけではないが、何となく、居心地が悪い。
 待ち合わせの相手は、正午過ぎて能天気を連れて訪れた。相変わらずの丈のあわない僧衣に、起きたままのぼさぼさ髪で。
 「いたいた。おいナクト、お前あの事件の関係者なんだって?」
 「そんな言い方しないでくれよ…。おれはただ、殺された人とすれ違っただけで」
メネスは、笑いながら抱えてきた籠の中身を並べだした。
 「ほれ、干しイチジクに、ハチミツ入りのパン! やっぱ祭りといえばこれだよなー。昼飯、まだなんだろ?」
 「うん」
 「じゃ、一緒に食おうぜ。何も悪いことはしてないんだ。堂々としてりゃいい」
その通りだった。ナクトは何も悪いことはしていない。知っていることを隠すべきではないし、自分は真実を語ったまでだ。その結果、厄介ごとに巻き込まれたとしても、それは誰を責めるものでもない。
 町外れの古い塔門の跡。そこは、町を一望出来る秘密の場所でもあった。今は町の入り口は西の塔門ひとつきりだが、かつてはこの東の塔門からも出入り出来た時代があったのだろう。今は使われておらず、階段も崩れているが、登れば登れないこともない。少なくとも、彼らは幼い頃から親に内緒でこっそり出入りしてきた。
 そこからは、城壁の東に隣接する港の様子も眺めることが出来た。白い三角帆をまぶしく翻しながら、船は真昼のきらきらと輝く川を埋め尽くしている。
 「祭りは、どうなるんだって? 大神官様は、何か言ってた?」
 「今のところ、続行するかどうか検討中らしい。けど、多分心配はいらない。さっき聞いたところじゃ、犯人らしき目撃情報があったとかで―ーいま、総出で容疑者を探してる。」
 「犯人?」
 「怪しい奴が今朝、あのへんをウロついてたって話。大方、物盗りの殺人だろうって。」
仕える神の守護する城壁の内側で起きた事件だというのに、メネスは驚くほど平静だった。「犯人がウロついてちゃ、祭りなんてやってらんねぇが… 捕まっちまえば問題ないだろ?」
 「そうだね」
そう言いながらも、ナクトは複雑な気分だった。死体を見るのは初めてではないが、高級役人が「刃の死」という極めて不名誉な死を遂げた現場に居合わせるとは。しかもこのメンフィスという、この国でも指折りの名高い聖域の内側で。――それが、そんなに簡単に解決するような問題なのか?
何かがひっかかる。何かが。だが、それが何なのかがはっきりしない。
 「…殺された人は、なぜ、あの場所にいたんだろう」
 「宿に向かう途中だったんじゃなのか?  東の船着場に船で来る連中も多いし、宿が並んでる場所だろ。」
 「でも、とった宿は見つからなかった。身に着けていた財布や印章以外の荷物も見つかっていない。これから宿をとるつもりだったなら、荷物は持っていたはずだ」
 「まあ―― 確かに、そうだな。」
 「そもそも、あの人は何をしにメンフィスに来たんだろう? 州知事の使いなら供をつけるだろうし、昨日の様子からして観光にも見えなかった。ヒゲを綺麗に剃って、身支度を整えて――」
 「真面目な、というか州知事に忠実な腹心に近い役人だったらしいからなぁ」
冷たい石の上に寝そべりながら、メネスは呟く。「確かにさ、なんとなく胡散臭いんだよな。州知事とウチの大神殿は、ほれ、まあなんていうか…だろ?」
 ほかの州と違って、この州は州知事より大神官のほうが地位が高い。それはひとえに、メンフィス大神殿の権威が今もって高く、州に占める神殿の所領割合が高いからでもあるのだが、政と聖の二つの権力の間には、必ずしも調和のみ生まれるわけではない。公然と王権を批判しさえするこの神殿のことを王は疎ましく思い、そのことが州知事の立場も脅かしているのだと、世間ではもっぱらの噂だった。とはいえ、神殿の権威など、簡単に貶められるものでもない。
 「何かデカい不祥事でも探し出すとか、王に対する謀反でもデッチ上げるつもりで間者を送り込んで来てたりしてな」
 「まあ、大神殿にとっての不祥事といえば、今のところ万年サボリ魔の君くらいだから、君がハメ外さなきゃ問題ないさ」
 「違いない。」
メネスは、にやりと笑って目を閉じた。
 州知事がこの聖域をあまり良く思っていないことは確かで、つい先だって州知事の奥方が亡くなった時も、葬儀の準備は上流のアシウトの町の神殿に頼んでしまった。だから尚さら、州知事の腹心がこの町を訪れることが奇妙に思えた。この時期に、この町に、州の高官がこの町に、一体何の用事があるだろう?
 崩れかけた塔の上を吹き抜ける風は涼しく、気持ちよい。今頃、日向は焼け付くように暑いだろう。真昼の灼熱の光の下、荷物の上げ下ろしをする水夫たちは、時折厚さに耐えかねて水の中に飛び込む。水かさを増しつつある岸辺の泥が跳ね上がり、歓声と水しぶきが上がる。
 「――なあ、犯人って、どんな奴だったんだ。その、目撃されたっていう。」
 「ん…」
メネスは半目を開けた。「クシュの傭兵だって。ほれ、昨日も居ただろ、何人か。黒い肌で目立つんで、皆覚えてたらしい」
 「傭兵―― 遠征隊の…」
では、本当にただの物盗りなのか? この、警戒厳重な祭りの場所で、高級役人を堂々と刺し殺したと…?


 町のほうで、わぁっという声が上がった。
 「いたぞ! いたぞ! そっちだ」
メネスは跳ね起き、ナクトは崩れた壁を登ってもう一段、高い場所に出た。日に照らされた石の表面は焼け、手のひらをじりじりと焼く。
 眩しさに手をかざしながら、彼は声の上がる方角に目を凝らした。大通りのほうだ。黒っぽい姿が護衛兵たちにもみくしゃにされ、尚も暴れまわっている。ナクトは、猛然と塔を駆け下り始めた。
 「おい、ナクト!」
メネスの声が後ろに遠ざかる。何事かと足を止める人々の合間を縫って、彼は捕り物の現場へ向かって突っ走った。
 大通りに出たとき、そこはもう、黒山の人だかりになっていた。兵士たちが声を張り上げ、見物人たちに退けと言っている。ナクトは、引き立てられてゆく黒い肌の男の姿を、かろうじて目にすることが出来た。恐怖のためか目を一杯に見開き、涙をいっぱいに溜め、泥で顔をぐしゃぐしゃにした若い男。粗末な皮の服は腰までずり落ち、乱暴に押さえつけられたせいで手足は擦り傷だらけ。
 「ナクト」
メネスが追いついてきた。「なんだ、犯人捕まったのか?」
 周囲のざわめき。その大半は、これで祭りが予定通り行える、という安堵の声だった。
 「何であんな奴を町に入れたんだ。異国人の傭兵など締め出すべきだ。」
 「野蛮人に祭りなど必要なかろう」
嫌でも耳につくそんな言葉は、前代未聞の殺人が低い身分にある異国の傭兵の引き起こした愚かな事件だったと結論づけられたことによる、人々の安堵も含んでいた。異国の傭兵なら仕方が無い。彼らは愚かで、野蛮な生き物なのだから、と。
 ――ナクトは、まだ立ち尽くしていた。連れて行かれた男の、いっぱいに見開かれた目が忘れられなかった。あれは、人殺しの目ではない。



 昼を過ぎる頃、西の塔門は元通り開かれ、祭りの準備は再開された。
 船着場で足止めを食らっていた船も出港を許され、前夜祭に参加するために近隣の村や町からも人が集まり始めている。始まりこそ不穏ではあったものの、始まってしまえばいつもと同じ。恐ろしい殺人事件が早期に解決したことを、喜ばない者はいない。しかしナクトは、まだ納得していなかった。
 メネスと別れてから、訪れたのは大神殿の敷地内に併設された、付属書庫だった。書庫はトト神殿のすぐ裏にあるが、高い壁によって祭りの喧騒からは切り離されている。今日は仕事は休みだったが、人が全く居ないわけではない。
 「浮かない顔だね。」
そう言うのは、白い髭をたくわえた老人だった。かなりの高齢だが、いまだ矍鑠(かくしゃく)として、大神殿の用を勤めている。父の師であり、上司であり、ナクトにとっては幼い頃からよく遊んでもらった、もう一人の祖父のような存在。この大神殿付属書庫の長を勤める老人、イトネブは、座り慣れた自分の椅子に腰掛け、訪ねて来た孫代わりに、優しく、傍らの席を勧めた。
 公式に書かれた書物は、すべてこの書庫に収められる。今朝ナクトが記した聞き取り書も此処に送られて来た筈で、イトネブはその内容も既に知っている。
 「あの事件のことを気にしているんだね。」
 「おれには、傭兵が行きずりの殺人を犯した単純な話だとは、信じられないんです。」
ナクトは、言った。「それだけじゃない気がして…。」
 「お前は、あの男がこの町に入ってから殺されるまでの、今のところ唯一の目撃者だそうだね。」
 「そうです。マントで身なりを隠していたし、おれとすれ違った時もひどく急いでいた。目立たないよう行動していたはずなのに、金持ちだとすぐに分かって襲われるなんて、不思議だ」
 「世の中には不運というものもある」
イトネブは言って、机の隅に飾った狒々の小像を撫でた。「運命は神の定めたもうたもの。時にそれは、人の目には不思議に映ることもある。――だが、そうではないと?」
 「…分かりません。」
老人は、穏やかな表情で目の前の若者を見つめた。
 「真実を明らかにするのは良いことだ。もしもこの事件に偽りが影を落としているのなら、それは大神トトの御心にかなうものではあるまい。お前の心が納得するまで、謎を解いてみよう。…ナクト、まず最初からだ。お前は、どこでその不運な男とすれ違ったのだね。」
 「小神殿前の広場です。大通りのほうから、宿舎に向かう途中で」
 「男はどちらから来たのかね」
 「……向かい側から。東の通りのほうからです」
その時のことは鮮明に思い出せた。明かりもない、暗い路地から路地へ、男は足早に通り過ぎて行った。ぶつかりそうになっても、こちらを気に留めることすらしなかった。
 そう、男はあの時、真っ直ぐに路地のほうへ向かっていたのだ。翌日、彼自身が死体となって見つかる東の河岸とは全く正反対に。
 「その時、荷物は持っていたかね」
 「ええと…。 多分、もっていませんでした。軽装でしたし、一人でした」
 「ふむ。日帰りをするには遅い時間だし、最初から手ぶらだったとも思えないが…」
 「とる予定だった宿が見つかっていないとは聞きました。城壁の外か、近くの町で宿をとった可能性は、あるでしょうか?」
 「お前が男とすれ違ったのは、夜四時の頃だったね」
 「はい」
 「その時間に町の外へ向かう道ではなく、中心に向かっていたのなら、違うだろう。宿に戻る頃には真夜中を過ぎてしまう」
ナクトは考え込んだ。町の中に宿をとらず、真夜中近くに町の中心部を一人でうろついていた男。男は東の通りから来た。その先には、船着場がある――
 はたと気がついた。
 「船で寝泊りするつもりだったのかも」
 「そうだね。それがありそうな話だ。荷物も、船において来たなら持っていなくても不思議ではないだろう?」
老人は、にっこり微笑んだ。「ひとつ、解決したかね。もし被害氏の男が自前の立派な船から一人で下りてくるのを見かけていたら、どんなに身分を隠していても、金持ちだとすぐに分かるんじゃないのかね」
 「…そう、ですね」
一瞬明るくなったナクトの顔が、すぐに沈んだ。「でも、すれ違ったあの時、男をつけているような人影は見当たりませんでした。広場は人がまばらで、…ぶつかりそうになったのに足も止めなかったから、反対側に行くまでずっと見ていたんです。あの男と同じ方角に行く人が誰もいなかったのは、確かです」
 「船からつけられていたわけじゃない、というんだね。ふむ…」
 「そもそも、あの人は一体どこへ行くつもりだったんでしょうか。真夜中に…たった一人で」
足取りからして、町に来るのが初めてではなかったに違いない。目的地があり、そりも真夜中に人目を忍んで急いで行かねばならない場所だった。まさか、町の噂の言うように、女を囲っていた… などという情けない落ちではなかろう。あの時の男の様子からして、そんな浮ついた用事に向かうようには見えなかった。
 「調査はされているんですか?」
 「いいや。そんな話は聞いていない。まだ調べていないのかもしれないし、調べる必要はないと思っているのかもしれないね。何しろ相手は、州知事の腹心だから…」
 「余計なことまで知る必要はない、ってことですか」
異国人の傭兵が犯人の単純な物盗りなら、素早く片がついて誰もが納得する。誰も悲しまない。誰も異議を申し立てない。たとえそれが、真実であろうと、なかろうと。
 「行くのかね?」
ナクトが立ち上がったのを見て、イトネブは何もかも察しているような顔でこう諳んじた。
 「良心に従う者にトトの加護のあらんことを。汝の前に真実<マアト>あれ」



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