□妖精の贈り物-03


 何かただならぬ事が起きていることは、玄関に着いた時点で気が付いた。
 「あっ!」
どこかへ飛び出していこうとしていた馬丁は、玄関で勢いよくユッドにぶつかった。彼を見止めるなり、馬丁は上ずった、興奮した声で告げた。「旦那様! ちょうど良かった。奥様が…」
背筋が凍りつく思いがした。彼は馬丁を脇に押しやると、突進するように我が家の奥へと向かった。出て行った時のまま、家の中は灯りもなく暗いままで、けれど、何か空気の乱れた感じがある。
 「エリン!」
二階への階段を駆け上がりながら、彼は、妻の名を呼んだ。
 「エリン、大丈夫なのか…」
部屋に飛び込んだ、その瞬間だった。元気のよい産声が、部屋中に響き渡ったのは。
 息を弾ませながら、彼は部屋の入り口に立って、目の前の光景を見ていた。
 たったいまこの世に生を受けたばかりの小さな命が、くしゃくしゃに顔をゆがめながら、あらんかぎりの声を上げている。エリンは汗だくになって寝台に横たわり、その横には、馬丁か小間使いの少女が呼んできたのだろう、助産医がおごそかな面持ちで膝をついていた。
 「遅かったじゃない。」
血に染まったシャツの袖口に眼をやりながら、寝台の上でエリンが微笑んだ。「その様子じゃ、またこっそり厄介ごとに首を突っ込んでたってわけね。」
 「あ、いや…これは」
慌てて服の汚れを手で隠しながら、彼はおずおずと部屋の中ほどまで近づいて、助産医が手際よくへその緒を切り、赤ん坊を産湯につかわせる手元を見守った。
 「お湯をもう少し」
 「判りました」
廊下の方から返事があった。ユッドの目には入っていなかったが、小間使いの少女が部屋の隅に控えていて、出産の間じゅう、固唾を呑んでいたのだった。エリンは、安心しきったように半ば眼を閉じている。
 「ごめん。側にいられなくて。まさか、今夜だとは思わなかった…」
 「私もよ。急に陣痛がきたと思ったら、あっという間で。」言いながら、彼女は「あら、リュカ? ――いつ来たの。本物よね?」
何事かと追いかけてきていたリュカが、扉の影から、遠慮がちに姿を現した。
 「すみません、大切な夜に…ユッドを借りてしまって」
 「どうせ本人が行きたがったんでしょ? 判ってるわ。それに、あなたの頼みなんて絶対断れないでしょうし」
小さく声をたてて笑うと、エリンは、傍らで体を拭かれ、布にくるまれようとしている赤ん坊を見つめた。赤ん坊は、もう鳴き声をたててはいなかった。この世に生まれ出ることに疲れきって、今はもう、うとうとしかかってるようだった。
 「元気な女の子ですよ」
言いながら、助産医はその子を母親の腕に抱かせた。それから、父親であるユッドのほうに向き直って軽く頭を下げた。
 「もう大丈夫でしょう。これでお暇しますが、何かあったらまた呼んでください。」
小間使いの少女が、お湯の入った桶を手に、助産医のあとについて部屋を出て行く。あとには、静けさと、新生児からほのかに立ち上る甘い香りとが残された。ユッドは寝台の側に腰を下ろすと、静かに寝息をたてはじめた娘の頬を撫でた
 「小さいな…それに、暖かい」
 「名前、決めてくれた?」
と、エリン。
 「あ…」
 「もう、まだなの?」
 「ごめん…」
リュカが口を開いた。
 「フィリス、っていうのはどうですか」
二人は、同時に戸口のほうを振り返った。彼は、照れたような顔で俯いた。「人間の子供には…似合わない…かもですが」
 「いいえ、とても素敵。素敵な名前だと思うわ。ユッドはどう思う?」
 「うん、いい名前だと思う。それに、リュカがつけてくれたんなら最高だ」
微笑みを浮かべて、彼は、赤ん坊に向かって語りかけた。
 「お前の名前は、フィリスだ。サウィルの森の主が名付け親だぞ。」
 「良かったわね。」
 「……。」
リュカもまた、照れたような微笑みを浮かべながら、幸せそうな家族を見つめていた。



 明け方になって、雨が降り出した。
 空気は本格的な冬の到来を告げる、最後の雨だ。この風の冷たさからすれば、もう間もなく木枯らしが吹き荒れ、次に雨が降るときには雪か、みぞれ混じりに変わっているだろう。
 駆け出していった馬丁は、近くに住むユッドの両親を呼びにいったのだった。そして、間もなくしてユッドの母親が、真夜中だというのに大急ぎで駆けつけてきた。ユッドの母が大騒ぎして小間使いの少女に指示を飛ばしている間に、ユッドは、リュカを見送りに出てきていた。
 「本当に、もう帰るのか? エリンが眼を覚ますまで、待っていてくれれば…」
リュカは微笑んで、首をふった。
 「そろそろ戻らないと、フィルダーナに心配かけてしまいますから。それに、シルフィールのことも報告したい」
 「…そうか。それなら…仕方が無いな」
残念ではあったが、納得はしていた。静かな夜明け前の雨の中に出て行きながら、リュカは、ふと、思い出したように振り返った。
 「そうだ、ユッド。もし、男の子が生まれていたら、何て名前をつけるつもりだったんです?」
 「ん?」
 「言ってたでしょう、男の子の名前なら思いついたんだけど、って。」
 「ああ…」
ユッドは、頭をかいた。「…ユーシス。ユーシスって、名前にするつもりだった」
 「その名前を貰ってもいいですか? もし、僕が息子をもつことになったら」
 「えっ、…」
思いがけない言葉に驚いているユッドに向かって、リュカは、微笑んだ。
 「…フィルダーナは今、子供を宿しているんです。春には、生まれるはず」
 「お前…」
そういうことは早く言え、と言い掛けて、そんな余裕もなかったことを思い出した。ユッドは、笑みを浮かべた。「ああ。喜んで、お前の息子にその名前を与えるよ。」
 リュカもまた、微笑みを浮かべていた。二人は、どちらからともなく手を差し出し、肩を抱いて抱擁を交わした。
 きっといつかまた、逢える日が来る。その時には、互いの子供たちも一緒だと。



 明け方の白みつつある空の下、銀色に輝く蝶がひらひらと遠い空に向かって去ってゆくのを、ユッドは、柱にもたれかかりながら眺めていた。
 問題は解決したが、これで終わりでないことは、ツァディのあの態度や、オレイアスから聞いた断片的な言葉からも判っていた。けれどそれは当面は、大きな問題にはならないだろう。皮肉なことに、人間同士の戦争が、異種族との関係の緊張を弱めている。
 (西の国境は…、あの先はソルナレイクだから、きっと大丈夫だろう。けど、グロッサリアとの国境は…)
オレステスとともに次に赴くことになる戦場のことを、彼は考えていた。そして、この先、自分が果たすべき役割のことも、

- To the next stage....


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