□領界を継ぐもの/後


 羊たちの騒々しい声が群れになってこだましている。
 新芽の伸びはじめた春の草原のあちこちに、群れをなす白い塊が散らばり、羊飼いと犬たちがそこから離れた羊を追っていく。それを遠くに眺めやりながら、リュカは、出来たばかりの仮ごしらえの木柵を確かめていた。
 「はぁー、全く。こんなものに守られきゃならないなんて」
妖精族の言葉で溜息混じりに呟く声が、後ろから聞こえてくる。
 「うちの領界<ファリア>にあの下品な獣を入れないっていう約束のためだからしょうがないけどさ」
やや蓮っ葉な口調で言いながら、不承不承という顔で腕組みをしているのは、若い女性の姿をした妖精族。他の妖精族と同じように人間離れした端正な顔立ちをして、真っ白な長い髪と肌、それに、肌に張り付くような薄い衣装を身にまとって浮かんでいる。彼女の足元には、色とりどりの花が咲き乱れる良く手入れされた小さな庭のような沼地があった。沼の真ん中からは、透明な水がこんこんと湧き出している。
 それが、彼女の作りかけの領界なのだった。
 広さはまだ、ちょっとした広場ほど。年月を経た領界にはある、望まざるものの侵入を拒む壁は、今はまだ無い。振り返って、リュカは、浮かんでいる女性のほうを見た。外見は、人間でいえば十代の半ば。妖精族にしてはまだ若く、百年ほどしか生きていない。
 「少しだけ我慢してください、ファルニス。人間の眼には領界の端は見えない。可視化は必要ですよ。それに、これなら羊がこちら側に入って来るのを防げて楽でしょう?」
 「判ってるわよ、自分のためでもあるってことは。でも見た目がダサいわ。」言いながら、彼女は人間たちが作っていった柵に近づいて、思案顔になる。「…柵に沿っていばらを育てるわ。それくらい構わないでしょ?」
 「いいと思いますよ。でも、それって羊に食べられませんか?」
 「……。」
ファルニスと呼ばれた女性は、遠くにある白いもこもことした群れを見やった。
 「とげがあるものまで食べるかしら? 食べるかもしれないわね。だから羊は嫌いなのよ。何でもかんでも食い散らかして、地面を禿げさせてしまう。人間があんなものを増やさなければ、もっと森だって育つはずなのに。あーもう鬱陶しいったらありゃしない。何でここに住むのかしら」
 「それは、ここがいい牧草地だから、だと思いますよ」
リュカは、彼女と同じ方向に視線を向けた。「妖精族の住む場所では、よく草木が育つ。それを求めて人間が家畜を連れてやって来る。必然なんですよ。妖精族が居なくなれば人間も困る…。だからこそ、取り決めが成立する」
 「あなた本当、よくそういうの思いつくわよね。それって、人間と一緒に居るときに身につけた方法?」
 「まあ、そうですね」
 「ふーん。…変わってるわね。ま、でも、悪くない。人間と争うのも羊を追い出すのも面倒だし、あと百年も我慢すれば、自力で結界も作れるもの」
振り返って、リュカは微笑んだ。
 「お役に立てて良かった。領界<ファリア>に助けを求める者を拒絶しないことが、サウィルの掟。何かあったら、いつでも連絡を下さい。」
 「ええ。頼りにしてるわ、全ての領界主を纏めるもの<ファラス=エン=ローダ>殿」
リュカがをひらりと飛び越えて去りかけたとき、後ろで、独り言のように呟く声が聞こえた。
 「にしても、人間と混じってるなんて。せっかくの男なのに、勿体無い…あの髪の色……。」
聞こえなかったふりをして、リュカは、その場を立ち去った。


 木柵に囲まれた領界からそう遠くないゆるやかな丘のふもとに張られた天幕の下で、人間の男たちがさばいた羊を前に夕食の準備をしている。
 リュカが近づいていくと、年配の男が顔を上げ、にこやかに手を降った。
 「よぉ、あんた。お嬢様との話は終わったかい?」
男は、ファルニスのことを茶化すようにそう呼んだ。
 「ええ。あの、彼女のこと、よろしくお願いします」
 「約束は約束だ。それに、悪くねぇ取り引きだ。あの柵より向こう側には入らない。そのかわり、あのお嬢ちゃんは羊の草葉をうまいこと茂らせてくれる。だよな?」
 「そうです。時々様子は見に来ますが…、もし何かあったら、サウィルの森へ来てください。それじゃ、これで」
ひとつ頭を下げて去りかけたのを、天幕の端で赤ん坊を抱いて乳をやっていたおかみさんが引き止める。
 「もう帰っちまうのかい? せっかくだし、一緒にごはんたべて行けばいいのに」
 「おいおい。こちらの方は、こう見えて妖精族だぞ。人間の飯なんか食うか」
 「あら、そうだったわね。見た目が人間みたいだから、つい」
 「…すみません。植物なら食べられるんですが、肉は受け付けなくて。」
断りながらも、リュカは、さばかれた羊の肉が鍋に放り込まれていくのを、興味深そうに見つめていた。
 「肉って、やっぱり…人間からすると美味しいものなんですか?」
 「勿論だとも。ごちそうさ」
火をかき混ぜていた男が、満面の笑みを浮かべる。「羊はうまいぞ。他に牛や馬も美味いが、うちじゃ肉をとるほど持ってないからな。ほかには、鶏くらいだ」
 「鶏? 鶏って、あの、毎日卵を産む鳥ですよね…」
リュカは、天幕のそばで餌をついばんでいる、黒と褐色の飛ばない小さな鳥を見やった。そして、はっとしたような顔になった。
 「あの…お願いがあるんですが…。」



 「おい、リュカ。どうしたんだ、それ」
サウィルの森に戻って来たリュカの持っているものを見て、ラーメドは思わず、木を削る手を止めた。弦を編んでつくった籠の中に、鶏が二羽。籠から首を出して、きょときょとと周りを見回している。
 「分けてもらってきたんです。雌鶏だけでいい、って言ったんですけど、つがいのほうが増えるって…。」
 「何だってまた」
 「ラーメドの食料ですよ。」
籠の中から鶏を放してやりながら、彼はちらりと男の方を伺った。「毎日木の実じゃ、人間には物足りないですよね?」
 「そりゃあ、まあ…。」
頭をかきながら、ラーメドは、自由になって大喜びで地面を突きまわしているつがいの鶏を視線で追った。飼う為には、鶏小屋も作らなければならない。
 「けど、いいのか? 家畜を森に連れ込んだりして」
 「もう、馬がいますからね」リュカはちょっと肩をすくめた。「それに、羊や牛よりは鶏のほうが飼いやすそうだったから。…飼い方、わかります?」
 「そりゃ判るさ。まぁ、お前がいいっていうんなら、有り難く育てさせてもらうけどさ」
鶏たちは、赤いとさかを振りながら、好き勝手に歩き回っている。作りかけの家があるからだろう、人間の住処から遠くに離れる気は無さそうだ。
 「フィルダーナとは、うまくやれました?」
かまどの上に置かれている鍋を見やりながら、リュカが訊ねる。そこにはまだ、今日一日の穏やかな気配とともに、火のぬくもりが残っている。
 「まぁな。良くしてくれた。この森が好きだとも言ってた。故郷よりもずっといい場所だと。けど…、」
 「けど?」
 「あの子は、自分のことを醜いと言ってた。可愛い子なのになぁ。名前も呼んで貰えなかったとか、よほど故郷で酷い目に遭ってたのか…」
 「…ラーメド」
遮るようにして、リュカが口を開いた。「それは…しょうがないんです」
 「しょうがない?」
 「人間と妖精族は、美しさの基準が違うんですよ。僕も、妖精族の基準だと相手にしてもらえない外見なんですよ」
 「はぁ?!」
ラーメドは、驚いて思わず声を上げた。「何で、また」
 「この髪の色。ほかの妖精族に比べたら、暗すぎるでしょう?」
と、少年は自分の髪に触れてみせる。
 「それに肌の色も、あまり白くないですからね。」
 「そんなことで? 他の妖精族はみんな、お前のことをそんな風に見てるのか」
 「おそらくは」
あっけにとられたまま、ラーメドは、人間の基準ならばどこにいても目を引くだろう端正な横顔を眺めていた。冗談で言っているようには見えない。本当のことなのだ。
 「ああ、でも、気にしないでください。見た目の問題で、仲間はずれにされるようなことはありませんから。」
そう言って、少年は笑って見せた。「それに、貴重な男としてひっきりなしに求婚されるよりは楽だから。」
 「ばっ…な、お前」
 「冗談ですよ。」
 「ったく。いつのまに、そういうこと…」
思わず、溜息をついてしまう。額に手をやりながら、男は、うろたえた表情を大急ぎで元に戻す。
 「あの子を哀しませるなよ。その…お前は…」
 「判ってますよ。」
笑って、リュカは湖の上に足を踏み出す。「それじゃあ、家に戻ります。」
 「ああ。」
かすかな水紋が足元に広がっては消えていく。湖の対岸へは、水の上を歩いていけば一直線だ。去って行く後姿は最初に会った時よりもずっと大人びて、…一瞬、懐かしいひとの後姿に重ね合わさる。
 ラーメドは、思わず眼をこすった。
 (そういえば、あいつ、今年で幾つになる?…)
春先の芽栄えのように、少年から大人へと移り変わる季節は一瞬だ。人間の年ならば、今がちょうど、その時期になる。
 (なあ、セラ。俺たちが最後に会ったのは、いつだっけなあ…)
それは、はるか昔のようでもあり、つい最近のようでもある。自分の仕事に戻りながら、彼は、ほんの一抹の寂しさとともに、満足も感じていた。
 光が降り注ぐ森。時は過ぎてゆく。夕刻の、赤味を帯びた輝きが、湖を朝とは反対の方角から照らしていた。



 春――芽吹きの季節。
 およそ二十年続いた、竜人族との長い戦いが集結し、無人となっていた荒野に妖精族が、打ち棄てられた集落の跡に人々が帰還しつつある。そこには、戦いの始まる以前には無かった二つの種族の秩序が生まれつつあった。


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