□領界を継ぐもの/前


 頬を撫でる風の冷たさに、眼を開ける。
 意識を取り戻すのと同時に、頭上から降り注ぐ鳥たちの賑やかな声が耳に届く。朝露の僅かな湿り気を含んだ、明け方の澄んだ緑の空気の中、森は既に動き始めている。瞬きもせず、ほんの数秒、自分が何処にいるのかを考え、それから、視線を吊り床の向こうに向ける。朝もやに包まれた湖水――波一つなく、鏡のように静まり返った水面に、周囲の木々の姿が映りこんでいる。ゆらめく白い靄の幻のなかに、一瞬だけ、かつてこの森の主だった人の姿を思い出す。
 横になったまま、男は、ゆっくりと覚醒していく意識の中で思い出していた。
 すべてが終わり――、ここへ戻ってきた。
 そして、それから、数ヶ月が経った。
 冬の寒さは薄れはじめ、早春の気配が迫っている。自分用の小屋を作り始めたのは、ほんの数週間前のことだ。何となく一緒の家に住むのがむず痒かったのと、今ある家は、大柄な彼には少し狭すぎたからだ。最初は反対した森の主も、正直にそう言うと、無理に引きとめようとはしなかった。選んだ場所は、湖の対岸だった。そこなら、近すぎず、遠すぎもしない。もっとも、この森の中に住む以上、森の全てを瞬時に把握できる森の主からすれば、何処を選んだとしても同じことなのだが。
 毛布代わりに体の上にかけていた上着を取り上げながら立ち上がった男は、上着を羽織りつつ、片足を微かに引きずりながらゆっくりと歩き出す。眠っていたのは、屋根と作りかけの壁だけがある簡素な小屋の中の前だった。地面の上に敷物だけ敷いて、その上に横になっていたのだ。
 小屋のすぐ裏手には、水が岩を伝い落ちてくる小さな水場がある。冷たい清水で顔を洗っていると、後ろから、呆れたような声が聞こえてきた。
 「また、地面で寝てたんですね。」
雫をたらしながら顔を上げると、森の、今の主が、隣に少女を連れて立っている。「せっかくフィルダーナが寝床用の草を集めてくれたのに」
 「なんだかフカフカ過ぎてな。俺には勿体無い」
 「使わないほうが勿体無いのに。人間らしく暮らしてもらったほうが気が楽ですよ。風邪ひいても知りませんよ」
そう言った本人たちのほうは、見るからに薄着で、朝の冷たい空気の中でも体の輪郭が透けて見えそうな薄いケープと短いマントしか身につけていない。けれど、それが妖精族にとって調度いい衣装らしかった。
 リュカは、ひとつ溜息をついて気を取り直してから隣の少女を見た。
 「しばらく出かけて来ます。何か必要なものがあったら、フィルダーナに言ってください」
 「ん? どこへ行くんだ」
 「ルーヴァ川の向こうの仲間のところです。竜人族がいなくなったので…新しく住み始めたんですよ。でも、近くに人間が集落を作ろうとしているそうで」
 「揉め事か?」
 「そういうわけでも、ないんですが。住み始めたばかりの領界は、結界を張りなおすのに数十年、まともに機能するようになるまで百年くらいかかるんです。今はまだ、力が弱い。人間が意図せずに荒らしてしまうこともあるかと…」
 「…で、それをどうにか仲裁すんのか? お前が」
 「うまく取り決めが出来ればいいと思ってます」
 「ふうむ。」
フィルダーナが近づいて差し出した布で顔を拭いながら、ラーメドは小さく唸った。「…ま、気をつけてな。」
頷いて、リュカは身を翻した。ちょうど、木立ちの隙間を抜けてきた朝日の最初の一条が、森の中心にある湖面に上に届こうとしている。光に照らされた靄が金色に輝き、鳥たちの声が響く早春の森の木立ちの間を、森の主は音も立てずに飛ぶように去って行く。
 あとには、人間の男と、最近この森に住み始めた妖精族の少女が立っている。
 切り出したのは、少女のほうだった。
 「あのね、これ」
 「ん?」
ずっと大事そうに抱えていたかごの中身を、男に見せる。入っているのは、明るい色の小さなきのこと、淡い色をした草の芽だ。
 「おお、朝メシを採ってきてくれたのか。助かるなあ」
 「茹でたほうがいい?」
 「こっちのは生でもいける。これは茹でないと食えない――あ、おい」
 「大丈夫、やり方はわかる」
腰まである長い白い髪をゆるやかに翻しながら、フィルダーナは音も無く滑る様に小屋の端に石を積み上げてつくった雑なかまどに近づいて行く。ラーメドの見ている前で、彼女は器用に火種をおこし、小枝に燃え移らせて火を大きくする。
 「驚いたなぁ、ずいぶん馴れたもんだ。料理なんて、やったことあるのか?」
頷いて、彼女は火の上に鍋をのせる。
 「母様のところで…ときどき、人間が来ていたから。もてなし…人間は、毎日食べないと死んでしまう…」
 「ああ――そういうことか」ラーメドは片手で頭を搔いた。「あんたのとこは、"恋人"を連れ込む領界主だったんだな。」
 「……。」
少女は、片方ずつ色の異なる金と青の瞳を、怪訝そうに男の方に向ける。
 「ああ、いや。責めてるわけじゃない。大抵の妖精族がそういうもんだってことは、よく知ってるよ。ここの、前の領界主は、違ってたけどな。」
ほんの少しだけ、フィルダーナの表情が動いた。
 「…あなたを誘惑しなかった?」
 「んー、まぁ…されたといえばされた気もするし、されなかったといえばされなかった。何となくここが気に入って、何度も通ってたのは俺のほうだからなぁ」
伐り掛けの丸太に腰を下ろしながら、男は懐かしそうに湖面に眼をやった。「最初に許可貰ってからは、休みの日によくここへ来てな。そこの草っぱらで寝てた。そうすると、いつのまにか隣にあいつがいて、呆れた顔で"またそんなところで寝て"って言うんだ。…それで、色々話をして、ぶらぶらして帰る。ずっとそんな繰り返しだった。」
 「……。」
 「ま、なんだ。昔の話だよ。ああ、ちなみに調味料はそこだ。岩塩を削るナイフはそっち」
少女は、白い影のように沈黙を保ったまま鍋の中に水を入れ、沸騰するのを待っている。
 ここに住むようになってからも、この少女と二人きりで話したことはまだ、あまり無い。話すことがあっても、彼女はあまり自分から多くを話そうとはしない。必要最低限、…リュカと話すときでさえ、それに近かった。しかしそれでも、最初に出会った頃よりは多弁になったほうだ。それは、今までに出会った数少ない妖精族と比べてさえ、特異なことのように思われた。
 「なぁ、フィルダーナ。あんた、リュカのどこが気に入ったんだ?」
 「え?」
真剣に鍋を見つめていた視線が、驚いたようにラーメドのほうに向けられた。
 「住んでた領界を出て、ついてきたんだろ? 竜人族のいる中をかいくぐって追いかけてきたのは吃驚したと、リュカに聞いたぞ。何か思うところあったんだろ?」
 「…わからない。心配だったし、役に立ちたかった…それに」
フィルダーナは口ごもり、視線を足元に落とした。
 「…それに…リュカは…私の名前を呼んでくれた…」
 「名前?」
 「要らない存在だったの。だから誰も…」
小さな吐息と、口を開くのをためらう僅かな間。
 「姉様たちは母様にそっくりで…それに、人間の誘惑がとても上手で。…私は、役目を果たせなかった。誰にも名前を呼んでもらえなくて…ずっと消えてしまいたかった」
 「あんた、領界主の命令を拒んだのか」
頷くことも、首を振ることもせず、彼女はただ黙って火の加減を見つめている。
 なるほど、とラーメドは合点がいった。
 妖精族の見た目の年齢は、実際の年齢と連動しない。そして、本人の精神状態と意志が反映される。無邪気な、子供のような精神状態のまま年を重ねた妖精族の中には、歳をとっても子供の姿のものがいる。けれど目の前の少女は、そうではない。だとすれば、思春期を迎える前の少女のままの姿に留まり続けるということは、大人になりたくない意志の現われだ。
 「子が親に似なきゃならん道理はないし、言うとおりにする必要はない。…人間ならな。だが、そうだな。妖精族は、そうはいかない、か。」
フィルダーナは頷いた。
 「…私は母様の分身でなければならなかった。より強い人間の男を誘惑して、領界<ファリア>の守護者として…ほかの人間や、竜人族と戦わせる。それが…アイユールの掟…だった」
 「嫌だったんだな」
 「…出来なかっただけ。私は、きれいじゃないから…」
 「そんなことはないだろ」
 「……。」
少女は、小さく首を振って、癖のあるゆるやかに波打つ髪をぎゅっと掴み、うつむいてしまった。 
 鍋から白い湯気が上がりはじめる。それきり、フィルダーナは口を閉ざすと、料理のほうに意識を集中させた。
 傍らで腰を下ろしてそれを眺めながら、ラーメドは、かつてこの場所で、先代の森の主と話したことを思い出していた。

 セフィーラは、言っていた。
 『妖精族にとって、生まれた領界の主の決めた掟は絶対だ』 と。



 「掟…?」
いつものように寝そべって、半分うとうとしながら話を聞いていたラーメドは、半分閉じかかっていた目を開いた。
 「人間で言う、法のようなものですね。でもそれよりももっと強い。…全ての妖精族は、どこかの<領界>に所属するものなのです。そうでなければ生きられません。一人前になるまでは生まれ育った<領界>の掟が絶対。そこを出ても、自分の<領界>をもてるかどうかは分からない。命がけの冒険になります」
 傍らに腰を下ろす、すらりとした女性は、膝の上に両手を置いたまま湖の向こうに視線をやっている。人間にはない、どこか透明でこの世ならざるもののような横顔。春の芽栄えを思わせる鮮やかな色の瞳。銀色に輝く長い細い髪の束が、腰から足元へ、彼の腕の直ぐ側まで草の上に豊かに広がっている。
 「人間は、生まれ故郷を離れてもそれなりに生きていけるのでしょう?」
 「ああ、まぁな。とはいえ、旅をするのもある意味じゃ命がけだ。金も力もねぇ子供が一人で遠くまで行くのは無理だ」
 「――それでも、異国へ旅することも、気に入らない掟に従わないことも、自由です。妖精族の場合は…清らかな水の側でしか生きられない。自分の生まれた<領界>で生きるにしろ、他に<領界>を持つにしろ、生きてゆくために、住みかとなる領域と従うべき掟を持たなければならないのです」
柔らかな笑みを讃えた女性は、古風な発音の、しかし上品で完璧な、人間の言葉で語る。「ほとんどの領界主は女性です。大きな領界になるほど一人で守り、切り盛りすることが難しくなる。ですから、旅の男が渡ってきた時に、領界の維持のために自らの分身となる子供を作ります。そうして生まれた娘たちは、母の<領界>の掟に従うことを定められている。それが気に入らないのなら、自分の<領界>を持つ為に、命がけの冒険に出かけるしかない」
 「ふうん。そうやって、妖精族の領域はあちこちに増えていくわけだな。…だが、旅立った全員が<領界>を持つのに成功するわけじゃあない、ってことだな」
 「ええ。…<領界>を新たに作るのには、とても長い時間が…かかりますから。」
柱のような太い木々の作る高い緑の天上の間から、木漏れ日が斜めに振り降りてくる。木々の樹齢は、どれも数百年から、千年にも及ぼうとしているように見える。この森を育てた、セフィーラ自身の過ごしてきた長い時間を反映しているのだ。
 「で、あんたは? いまの話だと、あんたも娘を持ってもよさそうなもんだが、このだだっ広い森じゃ他の妖精族に会ったことは無ぇな」
 「そうですね」
 「娘をつくる気には、ならなかったのか。それとも、妖精族の男には会ったことが無い、とか?」
 「会ったことはありますよ。千二百年生きてきて、二度だけですが。そのどちらも、ここは素通りしていきましたけどね」
くすくすと笑ってちらりとラーメドのほうを見、それから、彼女は再び視線を遠くへと向けた。
 「一人でもこの森を守ることは出来ましたから。それに、気に入らなかったんですよ。その男性たちが」
 「そいつぁ手厳しい。次は、あんたのお目がねに叶う男が来るといいがなぁ。」
 「……。」
セフィーラは、何故か少し、寂しそうな表情を浮かべた。それから、少しだけ、いつもと違う口調になっていた。
 「妖精族には――男はあまり生まれてこない。理由ははっきりしています。領界の主である母たちが、自分を補佐してくれる娘をほしがるから。男の子は、大抵、一人前になる前に<領界>を追い出されてしまう。彼らは、種を撒くもの<シェーダ>と呼ばれる。母の元を離れて旅に出ると、各地の領界主たちのもとを渡り歩き、求められれば、その名のとおり<種を撒き>、次の女のもとを目指す――。一つの領界に留まることは、ほとんどありません。」
 「何故だ?」
 「何故でしょうね」
少しの間。
 「…人間の子は、両親を知っているでしょう?」
 「ああ」
 「それが、羨ましかった。私も、もしも、いつか子供を持つのなら、…その子の父親とも、ずっと一緒に暮らしたかったから。そういう相手とめぐり合ってみたかった。でも、待ってるうちに、ただ時間だけが過ぎていった…。」
 静かに、片手を自分の胸に当てる。「私の残り時間は、もう、それほど長くはない」
 「何?」
驚いて上体を起こしたラーメドの前で、彼女は、いつもと変わらない微笑みを浮かべ、明日の天気でも語るかのような何気ない口調で告げた。
 「妖精族にも、寿命はあるんですよ。自分の寿命は、自分で解ります。あと、数十年…。そのくらいだと思います」
それはまるで、ごく当たり前の出来事のような。
 「……あんたが死んだら、この森は、どうなる」
 「結界が消えれば、もう、妖精族の領界ではなくなる。誰でも自由に出入りできるようになる。いつか、誰か他の妖精族が住むようになるかもしれませんが…それは、分からない」
 「寿命を延ばすことは?」
セフィーラは首を降った。
 「私の寿命は、無理です。…でも、この森を今のまま、領界として残す方法は一つだけ」
 「何だ」
 「私が、私自身の後継者として、新たに領界主となれる子を生み出すこと」
 「けど、妖精族の男は…」
返って来たのは、意味深な微笑み。その時、ラーメドは気づいた。さっきまで少し離れた場所に腰を下ろしていたセフィーラが、腕が触れ合うほどすぐ側に近づいてきていたことに。
 「試してみたいのです。貴方となら出来る気がする。それに、貴方なら…構わない」
 「おい、…」
白い腕が差し出される。
 「怖いですか?」
 「いや」彼は笑って、その腕をとって引き寄せた。「あんたとなら、何だって出来る気がするよ」
何も恐れていなかった、何も持っていなかったからこそ、失うことの意味も知らなかった、青くほろ苦い日々の思い出。
 掟は、その時書き換えられた。
 定められた可能性の限界――二つの種族の間にあった壁。
 それを越えて、やがて生まれた子は、セフィーラでさえも予想しなかった道を選び取った。



 「…ラーメド?」
名を呼ばれて、男ははっと我に返った。フィルダーナが、首を傾げながら湯気の立つ椀を差し出している。
 「できた。食べてみて」
 「おお、ありがとう。」木をくりぬいて造った椀を口に運び、満面の笑みを浮かべる。「うん、美味い! こいつはいい。」
 「よかった」
少女は、少しほっとしたような表情を浮かべると、膝をはたいて立ち上がり、ラーメドの腰を下ろしている丸太の端に、ちょこんと腰を下ろした。食べ終わるまで待つつもりのようだ。
 あれほど賑やかだった鳥たちの声は、いつの間にかほとんど聞こえなくなっていた。寝床を出て、めいめいにどこかへ飛び立っていったのだろう。
 昼間の森は、静かだ。この森の中には、大きな動物は殆ど住んでいない。…そういう森なのだ。
 「私、この森が、すき」
フィルダーナが、木立ちの合間から降り注ぐ光の筋を見上げながらぽつりと呟いた。「アイユールの暗い丘の下より、ずっと好き…」
 「いい森だろ?」
 「うん」
かまどの中から、細い煙が立ち上ってゆらめきながら消えてゆく。
 「なぁ、フィルダーナ。あんた、ずっとここに住むつもりか? なら、リュカのことはよろしく頼むな」
 「え?」
 「俺ぁ一度は棺おけに片足まで突っ込んだ人間だ。そう長く、生きてられるわけじゃ無ぇから…」
普段は滅多に感情を見せないフィルダーナの表情が、ふいに崩れた。
 「そういうこと言っちゃ…だめ。」ぎゅっ、と眉をよせる。「リュカの前では、絶対だめ。」
 「…すまん」
迫力に負けて、思わず謝ってしまう。苦笑しながら、ラーメドは、椀に視線を戻した。「まぁ、そうだな。あと、数十年くらいは…セラと約束した分は、頑張って生きてみるさ」
 それきり、沈黙が落ちた。
 ゆっくりとした、朝の時間が過ぎてゆく中で、二人は、それぞれに別のことを考えていた。遠い過去の回想と、いつか来る未来と。


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