■9


 その日の二つ目の目的は、マリッドという名の町だった。交易所があり、砦の近場では大きめの町の一つだが、大きいといってもせいぜい五十軒ばかりの家が集まっているに過ぎないという。それでも、平原を横切る道はいつの間にか幅を増し、向かいからやってきた荷馬車とすれ違っても苦にならないほどの広さになっていた。
 「この辺りはもう、国境に近いはずだ」
天頂を過ぎた太陽の光を横から受けて、馬は順調に走り続ける。竜人族の気配はなく、辺りは平和そのものだ。
 「川のあたりにある大きな街道の先に、国境の関所があるんだ。そこが、ルナリアとグロッサリアの国境だよ」
 「関所?」
 「国と国の境目を見はる門番のようなもの。犯罪者がよその国へ逃げたり、またその逆に逃げ込んできたりするのを防ぐのが平時の役目だ。そのための兵もいる」
 「そういえば、人間は同種族で争いあうんでしたね」
リュカの何気ない言葉に、ユッドは苦笑する。
 「妖精族は――そういうのは、無いんだっけ?」
 「そもそも、他所の領界の同族と出会うことはあまり無いですからね。」
 「近所にほかの領界があっても?」
 「ええ。」
それは、人間の感覚からすると少し不思議な気もしたが――よく考えれば、人間とて親戚でもない見知らぬ他人の家をわざわざ訪ねたりはしない。一つの領界が、人間でいう一つの国家に当たるとすると、その感覚も何となくわかる。
 行く手に、さきほど訪れた小さな村とは全く違う雰囲気を持つ、石造りの高い壁に囲まれた集落が見えてきた。壁の外には畑と牧場があり、サイロらしき高い石の塔が聳え立っている。
 ぴく、とリュカが反応した。
 「近くに領界<ファリア>がある」
 「領界?」
 「この近くに――妖精族<フィモータル>が住んでいます」
彼は馬の速度を落とし、周囲に視線をめぐらせた。
 「あそこです」
視線の先には、町と川の間に挟まれるように、こんもりと茂る緑の塊がある。小さな森――川の流れに面した場所。町のすぐ近くにあって、そこだけが手付かずのまま太い木々に囲まれているのは、確かに不思議でもあった。
 「そう、妖精族が住んでいる」先頭で馬を駆けさせていたウェインが、振り返りながら言う。「森の奥の泉に昔から住んでいると、この町の顔役から話を聞かされたことがある。ただ、滅多に姿を見せることはないという。町の人間も、あの森には用がなければ近づかないそうだ」
 「こんなに近い場所に住んでいるのは珍しいですね」
と、リュカ。
 「妖精族<フィモータル>は人間族<ヒューリット>の近くには住みたがりません…あとから町が出来たんでしょうね」
 「そういうものなのかい? この町もそう新しいものではないはずだが。町の顔役に聞いてみよう」
速度を緩めながら、馬は町の石畳へと突入していく。馬の蹄鉄が石にぶつかって軽快な音を立てた。その音で、通りにいた人々が振り返る。
 「砦の巡廻だわ」
 「ああ、例の件じゃない? きっとグレイさんとこへ行くのよ」
住人たちの話し声が聞こえてくる。
 小さな広場まで来ると、先頭のウェインが馬を下りて広場に面した二階建ての石造りの建物へと駆け寄っていく。立派な木の扉を持つ建物だ。ほかの三人がめいめい馬を降りている間に、ウェインは、扉を叩いて家の主の名を呼んでいた。
 「ヘットさん! グレイ・ヘットさん、いらっしゃいますか。」
 「おるぞ。ちょいと待っとれ」
二階の方から声がして、白髪交じりの髭をした、いかつい大男が姿を現した。腕の筋肉は並みの新米兵士などよりはるかに鍛えられ、鋼の束のように盛り上がっている。フレイザーが近づいていくと、男は、片方の眉を跳ね上げ、両手を広げて抱き合うように挨拶した。どうやら、二人は旧知の仲らしい。
 「あんた自ら来るとは珍しいな。司令のボンボンが竜人にやられたと聞いたが、砦を空けていいのかね」
 「今のところは問題ない。既に伝達があったと思うが、見張りと狼煙の件は準備できているか?」
 「一応な。」いかつい男は、視線を町向こうにやった。「だが、正直信じられんな。レグナス砦の件もそうだが、こんなところまで竜人族が入り込むなど有り得るのか? 連中は今まで、一度だってルーヴァ川を越えて来た事はなかったろう」
 「信じられなくても、信じてもらうよりほかない。斥候が何度か遭遇しているし、実際に我々の砦も川とは反対側から襲撃を受けた。もはやルーヴァ川は天然の要塞たりえない。奴等がいつ、どこの集落を狙ってもおかしくない。出来る限り備えてくれ」
 「ああ、判っとる、判っとるよ。だがなぁ…」
言いながら、グレイは、フレイザーの連れて来た三人を見回した。その視線が、リュカで留まる。
 「おいフレイザーよ、いくら戦力が足りんからと言って、子供まで駆り出すとは関心せんな」
 「子供?」
 「徴兵は17歳からだろう。そこの子は、どう見てもそれ以下だぞ」
 「ああ」
視線の先を辿ったフレイザーは、苦笑した。
 「リュカのことか。彼は新兵ではないよ。我々に協力してくれている妖精族だ」
 「何?」男の表情に、困惑の筋がありありと浮かび上がる。「これが? 妖精族ってのは、もっとこう、真っ白な…掴みどころの無い白い奴じゃ…」
言いかけて頭をかいた。本人を目の前にして言うことでもない、と思ったのだろう。
 「妖精族は見た目じゃわからんからなあ…。ま、なんだ。話は、中でしようか」
男が、のっそりとした動きで家の中へ消えていく。フレイザーが後についていき、ウェインは外に残る。
 「馬は私が見ているよ。物資輸送の相談もあるから、ここでの話は少し時間がかかる。君たちは、自由にしていて構わない」
 「そうか。どうするかな…リュカ、せっかくだし、さっき見た森に行ってみないか」
 「え?」
リュカは、考えてもいなかったような顔をした。「でも――」
 「同族なんだろ? 会ってみたくないか」
 「同族といっても、面識もないですし…。領界<ファリア>に入れてもらえるかどうかは、そこの領界主<ファリア=エンダ>次第ですよ」
 「行ってみて拒否されたら、仕方ないけどさ。領界の近くに竜人族が来たら判るんだろ? もしかしたら、何か知ってるかもしれない。」
 「……。」
しばらく迷ったのち、リュカは、意を決したように頷いた。「そうですね、聞いてみる意味はあるかも。…行ってみましょう」
 「そういうことなら、馬は連れていっていいよ」
と、ウェイン。「夕方になる前には戻ってきてくれ」
 「わかりました」
そんなわけでユッドとリュカは、二人だけでマリッドの町のすぐ近くの森へとやってきたのだった。


 その森は、ほんの少し小高い場所にあった。雰囲気はリュカの棲むサウィルの森にどことなく似ているが、面積ははるかに小さい。馬を降り、二人は、木々の作る薄暗い日陰の奥を覗き込んだ。
 「なんか小さいな、ここ。こんなんでも住めるのか?」
 「ええ。領界<ファリア>としてはそんなに広くありません。たぶん、五百年くらい…ですね」
 「五百年?」
 「領界<ファリア>の大ききは、領界主<ファリア=エンダ>と土地の相性で決まるんです。一般的には長くそこに棲んでいるほど土地との結びつきが強くなり、領界も広くなります。例外は、そこが生まれ故郷である場合。領界で生まれた者は、その領界と最初から結びついていますから。…僕の場合のように」
森の奥の空気が動いた気がした。足を止め、リュカは、片手を宙に翳した。ふわり、と風が吹いて空気が動く。
 「…拒否は、されてないみたいです」
一歩踏み込むと、風の匂いが変わる。濃い水の匂い、誰も踏み固めていない土の感触。ほんの数歩入っただけでまるで別世界にように雰囲気が変わるのは、サウィルの森と同じだ。そして、外から見ていたときはほんの一握りの緑の塊だったのに、中に入るととたんに無限に広がっているように感じられる。リュカは、まるで浮かんでいるかのような足取りで迷い無く一直線に歩いていく。きょろきょろしているとあっという間に置いていかれそうだ。
 やがて唐突に、木立が途切れた。
 目の前に、黒々とした水をたたえた水面が現われる。木立の間にすっぽりと収まるような小さな泉。これが、ここに住む妖精族の住処に違いない。リュカは足を留め、水面に向かって何か、妖精族の言葉で話しかけている。ユッドは少しは馴れた木立の間に立ち止まり、様子を見守った。やがて、答えるように水面に泡が浮かんできたかと思うと、その中から、真っ白な人の姿が形を成す。
 「うわ」
思わず声をあげてしまい、ユッドは慌てて口に手をやった。
 (今…水が人の形になった…?!)
水から現われた人の形は、そのまま水面の上にふわりと浮かぶ。長い真っ直ぐな髪も、長い睫も肌も真っ白で、外見の雰囲気はフィリメイアとよく似ている。見た目の年齢は、人間でいえばリュカとそう変わらない十代前半の少女に見える。だが、その口から零れ出たのは、まるで老人のような古風な喋り方だった。
 「後ろにいる人間はお前の荷物持ちか何かか? 変わった趣味だのう」
 「友人です。あの…人間族<ヒューリット>の言葉をご存知なんですね」
 「そりゃあの。連中がここの近くに住むようになってから、もう二百年は経つからの」
泉の水と同じ黒い瞳を面白そうに輝かせながら、少女の姿をした妖精は、客人の二人を見比べた。「しかし面白い取り合わせじゃ。同朋と人間の取り合わせ。しかも男か。男の同朋なぞ、四百年も前に見たきりじゃわい」
ぽかんとしているユッドを見て、泉の主は笑った。
 「なんじゃ、その顔は。こう見えて、わしはもう六百年ほど生きておるのじゃぞ。ここはずっと、わしの棲家じゃ。のう? リュカといったか。おぬし、見たところまだ人間の歳と大して変わらぬな? どこの領界<ファリア>から来たのじゃ」
言いながら空中で体制を変え、少年の顔を覗きこむ。
 「サウィルの森です。僕は、そこの領界主<ファリア=エンダ>なんです。」
 「なんと! 知っておるぞ、この辺りで最も大きな、古い古い領界<ファリア>ではないか。ということは、――セフィーラは水に還ったのか?」
目に見えて、リュカの表情が強張るのが判った。
 「彼女は…ええ」
 「そうかそうか。それで、おぬしが継いだか。だが、領界主<ファリア=エンダ>を男が継ぐのは珍しいのう。珍しいといえば、その"色"もだ。ふむ…」
 「あのう。ラーフィー」
リュカは、おずおずと相手の言葉を遮った。ラーフィーというのが、この妖精の名前らしかった。
 「僕らは、聞きたいことがあってここへ来たんです。」
 「おお、そうじゃったな。何を聞きたいのじゃ?」
 「竜人族<ドラグニス>のことです。最近、この近くに来ていませんか。」
少女の姿をした妖精は、きょとんとした顔になった。
 「竜人族<ドラグニス>じゃと? 何でまた」
 「僕の領界のあたりには、頻繁に出没するようになっているんです。僕のところには今、西から来た、竜人族<ドラグニス>に領界<ファリア>を奪われた仲間がいます。」
 「竜人族<ドラグニス>が領界<ファリア>を奪った? どうやってじゃ。」
 「判りません――それを調べるために、こうして、ユッドたち人間と一緒に行動しているんです。竜人族<ドラグニス>の動きが活発になってきていて、ここの近くの町でも襲われるかもしれないと考えて準備しています」
 「それは初耳じゃな。ふむ」
その様子からして、この近くには竜人族<ドラグニス>は一度も来ていないのだ。…少なくとも、ラーフィーの領界から感知できる範囲には。少しほっとしたが、油断は出来ない。森から町は少し離れているから、その距離では、ラーフィーには分からないかもしれないのだ。
 「僕は、ここから西の人間たちのすみかに居ます。もし竜人族<ドラグニス>が近くに来たら、教えてもらえませんか?」
 「判った、そうしよう。」
ラーフィは頷いた。
 「…気をつけて下さいね」
 「なあに、このレイレの泉は、小さいがわしの自慢の土地じゃぞ。竜人族ごときに手出しはさせんわ」
にっこり笑って、リュカの頭をぽんぽんと叩いた。
 「おぬしこそ、自分の領界<ファリア>を大事にするんじゃぞ。」
それから二言、三言、リュカは妖精族の言葉で何かを話して、泉を後にした。薄暗い森から外に向かうと、眩しさで目がくらみそうになる。妖精族の領域の気配が背後へ遠のき、人間の世界が目の前に広がっている。
 振り返ると、リュカはまだ森の入り口に立って、何か考え込んでいるようだった。思い切って、ユッドは口を開いた。
 「あのさ、さっきラーフィーが言ってた、"セフィーラ"って?」
 「…マール。人間の言葉で言うと母…先代の領界主<ファリア=エンダ>です」
はっとして、ユッドは口に手をやった。あの森には、今はリュカしか住んでいない。
 「悪い。聞かないほうが良かった」
 「気にしないで下さい。寿命だったんですよ。…長命な妖精族<フィモータル>にも、いずれは死が訪れます。竜人族<ドラグニス>のことが無くても、あと数十年ほどしか持たなかったはずです」
 (それでも、数十年は縮まった、ってことなのか)
少年の表情を見て、ユッドは、何があったのかおおよそのことを察した。リュカが人間のように戦う手段を身につけようとした理由も、きっとそこにある。


 町に戻ってみると、ちょうどフレイザーとウェインが、顔役のグレイの家から話を終えて出てくるところだった。
 「どうだったかね?」
ウェインが訊ねる。「その顔からするに、芳しくない会談だったのか。」
 「いえ、友好的に話をしてもらえました。ただ、今まで竜人族<ドラグニス>の気配は感じたことがないそうです。もし近くに来たら教える言っていました」
 「ほほう。あの森の妖精族に会ったのか」
グレイは興味深そうな顔をしている。「どうだった? 真っ白で、子供みたいな顔だっただろう。」
 「ええ。会ったことがあるんですか?」
 「わしは、ない。だが爺さんが一度だけ、森の入り口で見かけたと言っていた。腰まである真っ白な長い髪をして、見た目はきれいだが毒舌で年寄りのような話し方をするとか。…そうか、今もまだ同じ姿なのか…」
腕組みをして、男は感慨深げにリュカをちらりと見た。「妖精族ってのは、歳をとらんもんなのかな?」
 「……。」
 「おっとすまん。悪気は無いんだ、忘れてくれ」」
 「さて、そろそろ出発したほうがよさそうだ。」強引に話を打ち切るように、フレイザーは馬に飛び乗った。「日が暮れる前に砦に戻らなければ皆が心配する」
 「それでは、失礼します」
ウェインが頭を下げ、馬の手綱を渡した。ユッドたちもそれぞれの馬に跨って、町を後に走り出した。
 太陽はもう西の低い空にかかり、ラーフィーの森も陽の光の中で暗い影の色に染まり始めている。リュカは一瞬そちらに視線をやり、何か思うような表情をした。だが、ほんの一瞬だけだ。
 「例の行商人の足取り、どうやら掴めたようだ」
馬を走らせながら、フレイザーが口を開いた。
 「本当ですか?」
 「ああ、数日前にあの町で宿を取って、そのあと国境を越えていったそうだ。海の国との商売の帰りだとかで、荒野を越えてきたと言ったらしい。」
 「…荒野を? オアシスを通ったかもしれないってことですか」
リュカが反応する。
 「可能性は、ある。荒野には、商隊が利用する街道がいくつも走っている。どの街道を通ったかまでは分からないが、水場を通った可能性はある」
 「フィリメイアの領界か」
ユッドにも、リュカが考えていることの見当がついた。「竜人族がどうやって、妖精族の領界を奪うことが出来たのか。…人間が協力してたなら可能。そうだよな? リュカ」
 「ええ、まさかとは思いますが…。」
彼は、言葉を詰まらせた。「その人間は、今、どこに?」
 「国境の向こうのどこか、だ。隣国のことは、我々には干渉できない」
 「……。」
馬を走らせる速度は、行きよりも早い。帰路を急いでいるせいだ。風とともに風景が次々に背後へ流れ去って行く。西へ落ちてゆく陽と競うように走る、馬の影が長く背後へと伸びている。振り帰ると、ラーフィーの住む小さな緑の塊は、もうすっかり見えなくなっていた。
 (砦からは、けっこう距離があるな…)
もしリュカが、ラーフィーから竜人族の報せを受け取ったとしても、砦から馬で飛ばしてあの森へ辿り着くには一時間以上はかかるだろう。決して近所とは言えない距離だ。ユッドは、かすかに不安を覚えた。今日行った村や町から実際に緊急を告げる狼煙が上がって駆けつけることになったとして、果たして間に合うのだろうか、と。敵がルーヴァ川を越えて、武装の無い無防備な集落の中に入り込んだ時点で、もう打つ手はなくなっているような気がした。


 砦に帰りつくと、入口で待っていたカリムが出迎えてくれた。副指令フレイザーの乗る馬に近づいて、馬から下りるのを手伝う。
 「いかがでしたか、東のほうは」
 「準備は滞りなく済んでいた。何かあれば手はずどおり。…何かあったのか?」
 「サニエル・ブラッドが戻りました。中央からの返事を携えています。」
 「わかった、すぐに行こう」
馬をウェインに預けながら、フレイザーは振り返ってユッドたちのほうを見た。
 「君たちも、ご苦労だった。ゆっくり休んでくれ、では」
休む間もなく、フレイザーは外套を翻しながらカリムとともに内陣のほうへ消えていく。日はとっぷりと暮れ、既に篝火が焚かれはじめている。点呼も夕食も終わっている時間だろう。
 「オレのぶんの夕飯、残してくれてるといいけどなぁ」
ユッドがぼやくのを聞いて、ウェインが苦笑する。
 「何なら、今日はうちで食っていくか?」
 「本当ですか?! やったー、上級士官用の食事だ!」
 「…内容が違うんですか?」
 「ああ、オレたち下っ端用とは別に、偉い人向けにちょっといい飯が準備してあるんだよ。ごちになります、先輩!」
 「ははは、元気だなあ君は」
 「リュカ? どうする」
 「僕ですか?」
 「晩飯、食ってかないか」
 「おいおい、何を言ってるんだ」
ウェインが慌てている。「妖精族用の夕食なんて無いぞ」
 「いや、リュカはわりと人間用のものも食えるから…と思って。せっかくだし、試してみないか? ムリそうだったら、代わりに食うぞ」
 「うーん、パンは美味しかったし…」
 「試すだけなら損は無いだろ。行こう行こう」
半ば強引にリュカを連れ、ユッドは、ウェインにくっついて丘の中腹に立つ司令塔の隣の建物に向かった。フレイザーとカリムが向かっただろう司令塔の窓の木戸は閉ざされ、その隙間からランプの明かりが漏れている。それを横目に見ながら、三人は兵舎の一階にある食堂へ入っていく。
 「ここへ入るのは初めてかい?」
と、ウェイン。
 「入隊の挨拶の時に一度。それ以来です」
 「そうか。ま、君なら直ぐにここに上がれるはずだよ」
と、中から威勢のいい若い女性の声が飛んできた。
 「だから何度も言ってるでしょう? 帰りませんからね!」
びくっ、となって、思わず三人は足を止めた。正面のテーブルの前に、腰に手をあてて仁王立ちしている若い娘の姿がある。肩までで切りそろえた栗色の髪の一部を編みこんで作った洒落た髪型に、ぱりっとした落ち着いた色の上下つなぎのスカート。汚れていない白い袖口が覗く。一目で、砦にやってきたばかりの町の住人と分かる。
 会ったことのない顔だ。意志の強そうな大きな眼をしている。
 その彼女が怒鳴りつけているのは、意外な人物だった。
 「足手まといだ。そもそも、ここがどういう場所か知らないだろう」
困り果てた顔で言い返しているのは、ラーメドだ。
 「知ってるわ、散々聞いたもの。ちゃんと正規の雇用契約で来たわ。遊びのつもりじゃない」
 「学校はどうした」
 「今年卒業したわよ! 言ったじゃない、忘れたの? 卒業したら自分で進路を決めますって」
 「知らん。少なくとも、許可した覚えはない」
ほかの兵士や給仕係は、揉め事に関わりたくないのか、遠巻きにしているばかりだ。苛だちと困惑を浮かべたままテーブルを叩いて立ち上がろうとしたラーメドは、入り口に立ったままぽかんとしている三人に気づいて、はっとした顔になる。
 「…この話は終わりだ。俺は司令塔に行かにゃならん」
言うなり、逃げるようにそそくさと、三人の脇を擦り抜けて慌しく表へ姿を消す。
 「ちょっと。まだ話は終わってないのよ、お父さん!」
娘が拳を振り上げている。
 「"お父さん"?」
ウェインとユッドは顔を見合わせた。
 「兵士長の娘?」
 「どういうことだ?」
 「……。」
リュカは、黙ったままだ。
 「あなたたち、お父さんの部下なの?」
気が付くと目の前に、腕組みをした不機嫌そうな娘が立っていた。学校を卒業したばかりと言っていたから、年はたぶん同じくらいだろう。怒りで眉がつりあがっていなかったら、なかなか可愛い顔立ちのはずだ。ラーメドとは全然似ていないが。
 「まあ…そんなところだけど。君、あの人の娘なのか?」
 「一応ね。今日からこの食堂で働くつもり。エリンよ、よろしくね」
 「町からわざわざ、こんなむさくるしいところに炊き出しの出稼ぎ? 学校を出たのに?」
 「それがどうしたの」
むっとした顔になる。
 「いや、まあ…、ちょっと珍しいなと思って。」
ユッドは助けを求めるように隣のウェインを見たが、ウェインのほうは、他人を決め込んで一人先に食堂の奥へ入っていってしまった。後ろで、リュカが様子を伺っている気配がある。どう口を挟んでいいかわからず、黙り込んでいるような雰囲気だ。
 「ねえ。あなた、ここでは長いの?」
エリンと名乗った娘は、挑みかかるような口調で言う。
 「長くはないけど…何」
 「お父さんのこと教えてよ。ここで何してたのか、とか」
 「は? だって君、娘なんだろ?」 
 「一応、って言ったでしょ。養女よ。それもずーっと寄宿学校に預けられっぱなし。半年に一回しか顔見せに来なかったし、ここでの仕事のことは、ほとんど話してくれなかった」
ユッドは、額に手をやった。
 「それで…、まさか、ここがどういうところかも判らずに働きに来たのか?」
 「竜人族と戦ってる砦でしょ? 馬鹿にしないで、ちゃんと求人広告は読んできた。レグナス砦が落とされたばかりで、人手不足ってこともね」
 「なら尚更、女の子には向かない職場だってわかるだろ」
 「まさか、あなたまで反対?」
睨みつけられて、ユッドは慌てた。
 「いや…そういうわけじゃ…。」
ユッドはさっきすれ違った時のラーメドの、何とも言えない表情を思い出していた。この気の強さからするに、きっと、どんなに反対しても押し切られるのだろう。
 それにしても、ラーメドに養女とはいえ娘がいたとは知らなかった。訓練の時は鬼のような形相を見せる男の、意外な一面を見つけたような気分だった。


 あとで知ったことだが、その日、砦に増えたのはエリンだけではなかった。
 町へ行ったサニエルは、人の増えたリオネス砦で下働きを受け持つ労働者の募集も行っていたのだ。"優秀な"伝令役であるところのサニエルの手腕で、街道沿いのいくつかの町から砦で働く志願者が集められ、翌日から新米兵は訓練と斥候任務に一日じゅう全ての時間を割けるようになった。食料の追加も届き、残りは麦の刈り入れが終わると同時に送り込まれる手はずになっていた。
 ただし肝心の、前線で戦える兵士の数は増えてはいない。
 農民がとつぜん剣を持てるようになるわけでもない。一からずぶの素人を訓練していては襲撃に間に合わないだろうことも確かだった。出来ることといえば、斥候部隊の数を増やして、竜人族の襲撃の予兆を出来るだけ早く察知し、次に襲われるのがどこかを予測することだけだった。


 だが、目立つ巨体を持つにも関わらず、竜人族の目撃情報は途切れたままだった。
 ルーヴァ川を越えた竜人族が何人いるのか、どこからやってくるのか、何も分からないまま、日は、一日ずつゆっくりと過ぎていった。


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