■5


 リオネス砦は、川べりの丘をとりまくようにして作られている。
 丘の西側は川の流れが削った崖になっており、反対側、つまり東側のなだらかな斜面に兵舎や武器庫、食料庫などの建物が並ぶ。東側は浅い堀と防壁で守られている。その建物の間を、道は、丘をとりまくように曲がりくねりながら頂上へと続いていた。丘の高さはそれほどでもないが、周囲が開けているお陰で、少し登っただけでも周辺が見渡せるようになる。ユッドとリュカが歩く側を、見張りの交代を終えた若い兵士たちがふざけながら駆け下りていく。賑やかな声が背後へと遠ざかり、代わりに、年配の兵士たちのしかりつける声が響いてくる。
 「こら、お前ら! 厩舎の掃除はどうした!」
ざわめき、人の気配。馬の嘶き、食事の支度をする匂い。話し声。歩きながら、リュカは興味深そうに辺りを見回している。その表情に浮かんでいるのは、純粋な好奇心のようだった。
 「ごちゃごちゃしてて、妖精族のあんたには居心地がよくないかと思ってたんだけど」
 「そうでもないですよ。ただ不思議ですね、竜人族<ドラグニス>と長いこと戦っているのに、ここの人たちはみんな楽しそうに見えます」
 「あー…そりゃ、単に危機感がないだけだよ」
ユッドは、一つ溜息をついた「すぐ南のレグナス砦が攻撃されて陥落したのはつい最近だし、次はここじゃないか、って言われてるのにさ。ったく、皆、"英雄"様に頼りすぎなんだよ」
 「"英雄"?」
 「"英雄"オウル。この辺りの国じゃ有名人さ。生身で竜人族と互角以上に戦える唯一の人間。竜人の毒も効かない。十年前の猛攻でもこの砦が落ちなかったのは、その人のお陰だって言われてる」
語りながら、ユッドは繰り返し聞かされた武勇伝の数々を思い出していた。――遠い辺境の山岳地方の山から下りてきた、学も身よりもない若者が、貧しい国の存亡の危機に剣一本で人々に崇められ、尊敬される英雄へと昇りつめてゆくという物語。ここへ来たいと希望した理由に、嘘か本当かも定かでないその物語への憧れが無かったとは言えない。少なくとも、心のどこかには何時かその人に会ってみたい、という気持ちはあった。軍学校を進路に選んだのには、そんな理由も多分、どこかに隠れていた。
 「その人は、今どこに?」
 「残念ながら今はいないよ。そのレグナス砦へ、様子見と生存者の回収に行ってる。忙しい人でさ、この一ヶ月でほとんど砦に戻ってきてない」
だから、この砦に来てから憧れの相手の姿を見ることが出来たのはほんの数回で、それも、遠目に眺めた程度だった。


 話しているうちに、二人は丘の頂上へ辿り着いていた。
 上から見ると、丘のふもとに作られた陣地が曲がった川に沿うようにして防衛拠点になるよう巧く作られているのが判った。兵舎と厩舎。それに武器庫などの倉庫。丘の道は長年人の踏み固めた道がくっきりとした白い筋になって続いている。
 リュカは瞬きして、丘に吹いてくる風のほうを振り返った。
 「結構大きなすみか――とりで――ですよね? ここには何人くらい住んでいるんですか?」
 「兵士って意味なら、百と五十少々。非戦闘員も入れれば二百五十。馬が五十。」
 「そんなに? でも、ここには食べ物は…ええっと、人間は確か、畑…とかで食べ物を作るんでしたっけ」
 「ああ、こには畑はないよ。食料は近くの町や村で作ってて、そこから輸送してる。備蓄は常時、一ヶ月ってとこ。あんたたち妖精族と違って人間は毎日何食も食うからさ、兵站ってのは大事なんだ。」
ユッドにとっては当たり前のことでも、リュカには一つ一つが物珍しいようで、眼差しは真剣だ。あまりに熱心なので、ユッドのほうが心配になってくる。
 「…なあ、見張り台へ行ってみないか?」
 「見張り台?」
 「丘の頂上の、端と端にあるんだ。ここら全部が見渡せる。上から見たほうが砦の説明もしやすいし」
 「いいですね。お願いします」
やや平らになった丘の一番高い部分には、司令塔を含む幾つかの重要な建物がある。ユッドのような新兵は丘の下の方の狭い兵舎で相部屋だが、古参兵や上級士官は、丘の上のゆったりした兵舎に個室を持っている。そのあたりは、新兵にとっては見張りと報告以外では普段訪れることのない敷居の高い区画でもあったが、今日のユッドには「客人の案内」という大義名分がある。
 けれど、建物の間を抜けて見張り台に向かう小路に入ろうとしたとき、ちょうどすれ違おうとしていた馬の手綱を引いた若い兵士が、鋭い口調で彼を呼び止めた。
 「待て、クレストフォーレス。何だ? その子供は」
聞き慣れた声。むっとしたながら振り返ったユッドは、できるだけ表情を隠しながら答える。
 「"子供"じゃない。しばらく滞在する客人だ。カリムの預かりになってる」
相手はなかなかの美男子で、ユッドが普段身につけているのと同じ、鮮やかな青と銀の上着を羽織っている。背中と胸の部分にルナリアの紋章が縫い取られた、丈夫な上着。それは王都の軍学校に入学した者が揃いで身につける、一種の制服のようなものだった。
 「カリムが? 誰かの親戚なのか」
 「直接聞けばいいだろ。それよりサニエル、あんたこれから任務じゃないのか? こんなところで立ち話している場合じゃないだろう」
厭味のつもりだったのだが、相手は余裕たっぷりの表情でそつなく答えた。
 「ああ、そうだな。これからロジェール司令の迎えに行かなくては。」
それだけ言って、サニエルは馬にひらりと跨った。
 「お前は客人の案内でもしていろ」
 「な、」
言い返す暇も無い――ユッドがようやく言うべき言葉を思いついた時にはもう、馬は、軽快な足取りで丘を下り降りていってしまった後だ。
 「何だよ、そっちこそ竜人に出くわして泣くんじゃないぞ!」
その言葉を耳にする相手がとっくに見えなくなってしまってから言い終わり、ばつが悪そうに頭をかきながら、彼はくるりと踵を返した。
 「…行こうか。」
 「ユッドと同じ服でしたね」
小路を歩き出す。
 「同じ軍学校の卒業生だからな。ここへ来たのは去年。頭の回転が早いし腕もそこそこ立つ奴で、何かと重宝されてる」
その口調には、最近送り込まれてきたばかりのユッド自身ははそれほどでもない、ということが暗に隠されている。サニエルに対しては、羨ましさと妬ましさのような感情がないまぜになって、いつも、必要以上に毒づいてしまう。
 「ここには半年に一度くらい、援軍と称して学校を卒業したての実戦経験もない連中が送り込まれてくる。大抵は兵役を何事もなく終えてハクだけつけて、町に帰って上級職に就きたいって連中さ。あいつだってどうせ、そのつもりだろ」
 「ユッドは、違うんですか?」
 「オレは…、」思わず口ごもり、無意識に腰の剣に手をかける。「ここへ来たのは、自分の意志だ。戦えるようになりたい、…竜人族と」、
 「それなら、一緒に学びましょう」
 「あんたはもう、自力で戦えるだろ?」
 「まだまだですよ。」
リュカは小さく笑って、目の前に現われてきた大きな木組みの台を見上げた。「ああ、これが"見張り台"なんですね?」
 「えっと、そう。」
見張り台と言ってもほとんど展望台のようなもので、十人は上がれるくらいの広さがある。ユッドが先に立って登っていくと、見張りについていたそばかすの少年が驚いたような顔になった。ユッドと同じ兵舎に寝泊りしている、顔見知りの新兵だ。
 「まだ、交代の時間には早いぞ」
 「交替じゃない。お客さんの案内だ。ほら、そっちは仕事してろよ」
手で追い払うような仕草をして、ユッドは、見張りに立っている少年の好奇心旺盛な視線を避けるように柱の影に移動した。
 「ほら、よく見えるだろ? ここからなら、丘の周囲ぜんぶが見渡せる」
ユッドの隣に立って、リュカは、丘の周囲をぐるりと見回した。
 「……。」
川の流れより向こうには、緑はまばらで、森や町もなく、だだっ広い中に薄くかつての街道の跡だけが残されている。
 「あっち側はもう、人間は住んでない。七年か、八年くらい前になるのかな。竜人族の"大進攻"があったんだ。その時に、全部やられた」
 「……。」
リュカの表情がかすかに歪む。「――沢山、死んだんですか」
 「そう聞いてるよ。この砦は辛うじて落ちなかったけど、それでも、犠牲は大きかったって。」
それはカリムから直に聞いた話だった。竜人族との戦いの初期からずっとこの砦にいるという最古参のカリムは、戦いの全てを覚えていた。
 「けど、それほど大きな戦いは今まで起きなかったんだ。ずっと小競り合いばかりで、…だから最近レグナス砦が落ちたって報せが来た時には、皆けっこう怖がってたりしたんだけどな。」
 「だってよお、ちっとも敵が見えねえんだもん」
見張り台の向こうから、退屈そうなあくび交じりの声が聞こえてくる。むっとした表情で、ユッドは言い返す。
 「盗み聞きなんかしてないで、仕事しろよ」
 「してるよぉ。平らなんだから竜人なんてデカいもんが出てきたらすぐに判るよ。動くもん何もないんだぜ? 飽きるよ」
 「ったく、緊張感無いな。ここの近くで斥候が竜人と出くわした話は聞いてるんだろ? 近くまで来てるんだよ。少しは考えろ」
 「へいへい。軍学校卒のエリート様は頭がおよろしいことで。」
からかうように言って頭をかきながら、少年兵は視線を川向こうの平原に向けた。肩をすくめ、ユッドは見張り台から降りていく。微かな怒りが沸いて来ないでもない――ユッド自身、昨日は竜人族と出くわして死に掛けていた。運よくリュカに助けられていなければ、いまごろは死体として砦に運び込まれていたはずだ。それなのに、砦の仲間たちはまだ、危機感を抱けずにいるとは。
 ――けれど誰しも、自分自身が危機に晒されない限り、本気で心配したりはしないものなのかもしれない。長く続きすぎた平和な時代は、十年も経っていない"大進攻"の記憶さえ、薄れさせてしまっていた。


 「さて、と…」
丘を一巡りして、次はどこを案内しようかと思案していたユッドに、リュカが訊ねる。
 「あれは、何でしょうか?」
 「あれって?」
 「ほら、あの、木で組み上げたようなもの」
指した先には、地面に固定された木の台の上に斜めに傾けられた荷車の上部のようなものが縛り付けられた装置がある。
 「あれは…」
それが何なのかは知っている。が、それがこの砦にあることは、今の今まで気がついていなかった。
 リュカとともに道を下って近づいていくと、それの側にいた男が顔を上げた。
 「どうした、見学か」
 「ええ。それ…投石器ですよね?」
 「そうだ。いいだろう」
兵士は腰に手をやりながら、何故か嬉しそうに大きな木組みを見上げた。「武器商人が売りこみにきたやつだ。必要ないと言ったんだが、試供品代わりだと言って無理やり置いていったんだ。で、せっかくだからと組み立ててみた。」
ユッドは苦笑する。
 「どうせなら丘の上で組み立てたほうが良かったのに」
 「ん? 何でだい」
 「ここからじゃ石を投げても、敵を攻撃する前にそのへんの兵舎の壁を壊しますよ。丘の上で川の方に向けて置いておけば、平原に敵を見つけたときに打ち込めるでしょう」
 「ははあ、なるほど! そいつは考えてもみなかったな。そうやって使うのか、さすがは軍学校卒だな」
 「いや…基本ですけど…」
呆れたようなユッドの表情に気づいた様子もなく、農夫あがりで馬の世話役として雇われている男は愉快そうに笑っている。兵士でもなく、兵器の知識など皆無。ただ、見たことのない大掛かりな装置が珍しい、というだけなのだ。ここには、剣より鋤をふるうほうが得意な者も沢山いる。
 リュカは、木組みに近づいて、太い心棒をさすっている。
 「これは…どうやって使うんですか? 投石っていうからには石を投げるもの?」
 「そ。そこの台車みたいなとこの上に石とかレンガとか投げたいものを置いて、反対側を思いっきり押さえこむ。そしたらテコの原理で石が吹っ飛ぶっていう道具だ」
 「詳しいんですね」
 「攻城兵器のことくらい一通り軍学校で習ってるよ。ただ、竜人族との戦いで役に立つとは思えないな。これは、城壁を壊すか大軍のど真ん中にぶち込む用だ。小規模の乱戦で使える兵器じゃない。」
 「しかしな、竜人族は動きが鈍い。あんがい、数撃ちゃ当たるかもしれんぞ?」
厩番の男はあっけらかんとして言う。
 「うーん、まあ…運がよければ…。」
苦笑しながら去りかけるユッドに、厩番が声をかける。
 「おお、そうそう。あんたに会ったら伝えてくれとカリムさんに言われてるんだ。お客さんの寝床を準備しといたって」
 「寝床?」
 「そっちの子、今日は泊まっていくんだろ?」
そこまで考えていなかった。
 確かに、既に時刻は夕方になろうとしている。今から森に帰るのは遅すぎるし、砦の周りには寝泊りできそうな場所は他に何も無い。
 「えーっと…多分、狭苦しいところで寝てもらうことになるけど、人間の住処にも色々あって、ここなんかは前線基地だから」
 「判ってますよ」
リュカは平然としている。「行きましょうか」
 「……。」
その時、微かな違和感を覚えた。人間のことはほとんど知らないのに、どうしてこうも平然としていられるのだろう、と。そして、異種族のはずなのに、なぜ彼はこんなに人間の中に馴染んでいられるのだろう。
 人間を信用している、というのとも何か違う。
 違和感の正体に、その時はまだ、気づくことは出来なかった。その時は。


 眠りに落ちていたはずなのに、何かが意識を呼び覚ました。固いベッドの上でうっすらと眼を覚ましたユッドは、毛布を肩に引き上げながら寝返りを打った。ぎりぎりと耳障りな音がどこかから聞こえてくる。それが、眠りの奥底から意識を浮上させた原因だった。
 寝ぼけ顔のまま、ユッドは寝台から立ち上がり、向かいの二段ベッドの上を見上げた。新兵用の兵舎は一部屋が四人用になっていて、部屋の中には、硬い板作りの二段になった寝台が、すれ違うのも難しいほどの狭い通路をはさんで壁に沿って向かい合わせにふたつ。そのうちの片方の上から、歯軋りといびきが聞こえてくるのだ。毛布を突き破った足が片方、にょきりと廊下に向かって生えている。
 「……。」
腹立ち紛れにその足をぐいと押し込んでみたが、いびきの主は目覚めるどころか、むにゃむにゃと何か寝言を言うなり、さっきより大きな音でいびきをかきはじめた。真夜中にいびきの音で起こされるのは一度や二度のことでは無い。この大音量で寝ていられる他の同室者たちのほうがおかしいのだ。
 この爆音の中で寝なおすのは無理だ。
 仕方なく、ユッドは枕元にかけておいた上着をひっかけて部屋を出た。廊下には一晩中ランプの灯が灯されているが、それは交替で見回りや見張りを受け持っているからで、真夜中といえど兵舎には絶えず人の出入りがある。ユッドが階段を降りて表へ出て行くのを誰かが見つけても、単に、今日の夜番か用を足しにいくのだろうとしか思うまい。
 人の気配と寝息やいびきの雑音に満たされていた兵舎を出ると、辺りは、とたんに静まり返る。
 月の位置からして、今はちょうど真夜中を少し過ぎたあたりだろうか。丘の上の幾つかの建物と見張り台、それから砦の入り口のあたり以外はほとんど真っ暗で、月明かりにうっすらと建物の輪郭が浮かび上がる。
 (そういえば、ロジェール司令も今は留守なんだったな…)
丘の上を見上げながら、彼は、ふとサニエルとすれ違った時のことを思い出していた。「司令を迎えに行く」と言っていた。ということは、近くの街道沿いにある軍の駐屯基地あたりに出かけたのだろう。レグナス砦陥落の報せを受けて、砦の上層部が戦力増強の必要があると危機感に駆られていたことは何となく知っている。たぶんロジェール司令は、援軍か物資の要請のために砦を離れたのだ。サニエルが迎えに行ったのは、砦の近くに竜人族が出たという急報を届け、予定より早く砦に帰還してもらうつもりだからだろう。
 (だとしたら、遅くても明日の昼前には帰ってくるはずだ。…リュカのことは、…どう説明すればいいんだろう)
入隊した時ですら、ろくに顔も見ていない相手だ。どう説明すればいいのだろう。
 考えながら歩いているうちに、丘の下の川べりに出ていた。ちょうど、川の流れが丘に当たって大きく蛇行する辺りだ。剥き出しの岩に当たった流れが音を立てながら銀の飛沫を上げ、月明かりがそれを照らしている。先客がいることに気づいたのは、月に反射する光が揺れているのはなぜだろうとしばらく考えた後のことだった。
 「…リュカ?」
名を呼ばれた少年が振り返る。動き始めると、今まで影のように気配の無かった輪郭が夜の中でも判別がつくようになった。暗い色の髪と、それに合わせた暗い色のぴったりとした衣装のせいで、背景の夜に紛れていたのだ。
 「眠れないのか? あっ、…やっぱ部屋が微妙だったか。ベッドもいまいちだし、うーん…」
 「そういうわけではないんです」
リュカは慌てて首を振った。「ただ、妙に胸騒ぎがして。…微かな気配なんですが、何かが近くにいると思ったんです」
 「何か? 何かって、竜人族?」
 「かもしれない…でも、はっきりしないんです。まだ遠いかもしれないし、近くを通り過ぎただけかもしれない」
ユッドは思わず、流れの向こう側に眼を凝らした。竜人族は水を嫌うはずだから、川がある側には柵すらない。けれど、川幅は十分に広いし、レイノリア山脈からの雪解け水がひっきりなしに流れ込む今の季節は水量も多い。人間だって簡単には渡れない。
 「…気のせいだよ、多分。夜も見張りがいるし、今夜はこんなに明るい月夜だ。真夜中に攻めてきたってすぐに判る」
自分に言い聞かせるように言って、ユッドは、元来た道のほうを振り返った。「オレは、そろそろ戻るよ。あんたはどうする?」
 リュカが口を開きかけたとき、どこかから重たい、空気の震えるような振動が響いた。
 「…何だ?!」
ずずん、ともう一度。何か大きなものが空から振ってきて遠くに落ちていくのが見えた。空気が揺れ、どこかから悲鳴が上がる。
 「ユッド、これは…」
リュカの声が最後まで言い終わらないうちに、目の前に、それが降って来た
 「うわっ!」
 「ユッド!」
足元がゆれ、砂埃が舞い上がる。一瞬失われた視界が戻って来ると同時にユッドが見たものは、体にまきつけるようにして縮めていた腕と尾を解きながらのそりと立ち上がろうとする、輝くウロコを持った巨体だった。
 「…あ、りっ」
喉が掠れて、悲鳴も上げられない。
 (竜人…!)
目が合った。動けない。震えながらまさぐった腰には武器はなく、――寝台の横に立てかけたまま出てきたことをようやく思い出し、絶望が過ぎった――その瞬間。
 一閃。
 目の前を、黒い影が素早く過ぎった。美しい銀に輝く剣が弧を描き、竜人の首を胴から切り離す。反撃のそぶりをする隙すら与えられずに、竜人の巨体は、どす黒い血を吹き上げながらゆっくりとその場に落ちていく。月の輝きの中に、着地した少年は、顔色一つ変えず剣についた露を払った。呼吸一つ乱していない白い端正な顔立ちは、まるで幻想の世界から浮かび上がったかのようで、ユッドはひと時、その横顔に見入っていた。
 「…ユッド? 大丈夫ですか」
名を呼ばれ、はっとする。我に返るのと同時に、ユッドの耳に、四方から響いてくる悲鳴や馬のいななきが届き始めた。どすん、という振動がまた響いてくる。
 「竜人族が空から降ってきてる?! どうやって…どこから!」
トカゲのような巨体で、空が飛べるはずがない。けれど現に今、敵は、空から弧を描いて砦の中に次々と飛び込んできている。
 …弧を描いて?
 「まさか」
はっとして、彼は川向こうを見やった。「…リュカ、敵の数は?」
 「十と少し。倒します――構いませんよね?」
言うなり、リュカはユッドの答えを待たず駆け出していく。柵を身軽に飛び越え、積み上げた樽を踏み台に建物の屋根から屋根へ。ユッドにはとても、そんな芸当は無理だ。それに、武器もない。いま、竜人と出くわしても、何も出来ずに死ぬだけだ。
 (武器を…予備の剣は武器庫か…、それから、あいつらがどこから降ってくるのか確かめないと!)
騒ぎは丘のふもとまで拡大しているようだった。あちこちで小さな火の手が上がっている。床に零れた油にランプの火が引火したのだろう。そんな中を、竜人らしき異形の大きな影が幾つも歩き回っている。応戦しているのは年配の熟練兵たち。新兵たちはどうしていいか分からず、逃げ回っているだけだ。
 ユッドは唇を噛んだ。
 このままでは、ここもレグナス砦の二の舞になる。それが判っている古参兵たちはなんとか食い止めようと戦陣を張っているが、急なことで対応が追いついていない。司令が戻っていない今、この事態の指揮をとれる者はいない。おまけに、…砦の最大の戦力である"英雄"は、部下たちとともに出払っている。この夜襲はまるで、それらの事情を全て計ったかのようだ。けれど、竜人族にこちらの事情など判るはずもない。だとしたら、これは偶然なのか。それとも…。
 月明かりの下、指揮を摂る古参兵たちの怒号が響いている。
 「剣じゃダメだ、槍を持ってこい! 早く! 死にてぇのかっ」
武器庫の前で、カリムが新人たちをどなりつけている。
 「油はダメだ! あのトカゲどもは火には強いんだよッ。盾なんていらねぇ! 意味のねぇ武装はすんな!」
武器庫の前はもう戦場になっている。複数人で取り囲んで竜人と戦っている古参兵たちの後ろで、新兵たちは泣きそうな顔で盾を投げ捨て、言われたとおり槍を取り上げる。柄の長い槍なら、離れた場所からでも攻撃できるし、構えているだけでも一定の威嚇になる。生まれて初めて竜人と相対した時の恐ろしさは、ユッド自身すでに良く判っている。近づくことも出来ず、武器を構えるので精一杯。あの新兵たちも、昨日のユッドと同じのはずだ。
 彼は、予定を変更して向きを変えた。今から武器を手に参戦したところで、あまり意味はない。それより、敵がどこから"降って"きたのかを確かめるほうが先だ。砦に侵入した敵の数は十と少しだとリュカは言った。それ以上に増えたら、この砦だけでは持ちこたえられないかもしれない。
 広場を通り過ぎると、人の気配が一気に引いた。火がちろちろと燃えている。地面に寝そべっている人の姿に気づいて足を止めようとしたユッドは、近づいて思わず息を呑んだ。
 死んでいる。
 あらぬ確度に曲がった首。投げ出された四肢。せり上がってくる吐き気をぐっと堪えて、何も見ないふりをとして脇を走りぬける。戦場は人が死ぬことも有り得る場所だと、今更教えられるまでもない。けれど今の今まで、そんなことは意識せずにいた。おそらく、この砦にいた多くの新兵たちもそうだろう。体の奥底から湧き上がってくる言いようのない嫌悪感と戦いながら、ユッドは、丘の上の見張り台を目指して走った。
 息を切らしながらかけつけた見張り台の上には、まだ、夜の当番が残っていた。表情をこわばらせたまま、火の手の上がる砦の方を見ている。猛烈な勢いでハシゴを昇ってきたユツドを見て、見張りたちが息を呑む。
 「お、おい…下で、一体何が」
 「お前ら見張りだろ。何も見てないのか?」
 「何もって…判るわけないだろ」
 「見るのは、そっちじゃない。反対側だ!」
うろたえている同輩を押しのけて、ユッドは手すりから身を乗り出し、川向こうに眼を凝らした。月夜の闇の中に沈む平原と。声も音も風とともに遠くなり、頭上から見下ろす砦の全景は、まるで自分とは無関係な世界で起きている出来事のように錯覚させる。冷たい夜風が火照った体と頭脳を冷やしていく。
 (一体、どこから来てる? あと何体だ)
見張り台の手すりを両手で強く握り締めながら、彼は、必死で眼を凝らした。
 (どうやって空を飛んできたんだ…どうやって)
リュカは、微かな気配しか感じていなかった。竜人族が近くにいれば気配に気づく、だとすれば十分な距離を置いていたはず。
 と、彼の視界の端に、かすかな光が揺れた。
 川の向こう側、遠い平原の奥に、ちらちらと揺れている光がある。
 誰かがそこにいる。大きな天秤のようなものを持って…
 「…そうか」
彼の脳裏に、夕方、丘の下で見た投石器が浮かんだ。すべてが、かちりと音をたてて嵌ったような気がした。
 気づいた瞬間、背筋に冷たいものが滑り落ちた。
 「くそぉっ」
声を上げて見張り台の手すりを叩く彼を、夜番の見張りたちが呆然と見守っている。それが、彼のいらだちをさらにつのらせた。
 「お前ら、警鐘は鳴らしたのか?」
 「えっ」
 「警鐘だよ! 砦が竜人族に攻撃されてるんだぞ?! もう皆起きてるだろうけど、鐘を鳴らせ! 緊急時代、緊急度・高! 全員戦闘態勢!」
見張り番は自分たちの役目を思い出したように、はっとした顔になった。どういうときに何をすればよいか、教わって頭で覚えてはいても、いざという時にそのとおり動けるかどうかは意識の問題なのだ。慌てて、一人が見張り台の端の紐に飛びついて、体重をかけて思い切り引っ張る。その先にぶら下げられた鐘が、がらん、がらんと大きな音を立てて錆びた音を響かせた。
 遅すぎた警鐘。
 打ち鳴らされる甲高い鐘の音と共に、砦の、平穏だった日々は終わりを告げたのだった。


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