3 Interlude〜〜サウィルの森


 月の輝きを乗せた風が、森を静かに駆け抜けていく。
 木立の間から差し込む夜空の光が森の奥の湖面を鏡のように照らしだしている。静まり返った水面を乱すものは何もなく、光は澄んだ水の奥底まで届いている。そのほとりに屈みむ森の主の姿は、木立の落とす影のようだ。真剣そのものの眼差しの向けられる手元では、、昼間の戦いで不快なぬめりを帯びた剣が丁寧に洗われていた。ただ洗っているのではなく、それは、同時に水で洗い流した汚れを浄化する作業でもあった。
 刃がを光に翳し、目的が達せられたのを確かめようとしていた、ふと木立の間へと視線を向けた。
 「そんなに気になりますか?」
白い影がびくっとなり、それから、おずおずと姿を現す。
 「お邪魔するつもりは…」
 「もう終わったから、大丈夫です」
剣を鞘に収めながら、リュカはわずかに微笑んだ。さっきまで纏っていた、近づきがたい鋭い雰囲気は既に消えている。ほっとしたような表情になって、フィリメイアは、リュカの手元に視線をやった。
 「それは、人間の道具ですよね? 材料は黒銀のようですが…まさか、ご自分で?」
 「竜人族<ドラグニス>と戦うのに必要だったので。」
フィリメイアが眉を寄せるのを見て、彼は苦笑する。「人間族<ヒューリット>は戦うのが得意な種族です。竜人族<ドラグニス>とも、もう長いこと戦っている。この点においては、彼らのを真似をしたほうが効率がいいと思ったんですよ」
 「でも――わざわざ領界<ファリア>を出て戦いに行く意味が、どこに?」
 「領界<ファリア>に助けを求める者を拒絶しない。人間とも隣人として生きる。それが、ここの領界<ファリア>を育てた、先代の領界主<ファリア=エンダ>の決めた掟なんです。…ユッドも、フィリメイアも、僕にとっては等しく助けるべき存在でした。」
 「……。」
フィリメイアはじっ、と月の輝きを写す水面に反射した光が照らし出す少年の顔を見つめている。「還る前に後継となる種を残すのも、領界主<ファリア=エンダ>の役目。――先代の領界主<ファリア=エンダ>は、既に水に還られたのだな」
 「ええ。」リュカは頷いた。「予定されていた寿命より、少しばかり早かった。だから…僕はまだ…」
 「それでも、貴殿が広大な領界<ファリア>を維持できるお方なのは間違いない。」きっぱりとした口調で、フィリメイアは言った。「領界<ファリア>の心臓。この土地は紛れもなく、貴殿をそう認めている。今の私は流浪の身だ。この領界<ファリア>に受け入れてもらって生きる以上、領界主<ファリア=エンダ>の掟には従わねばならない。」それから小声で付け加えた。「…たとえ、人間族<ヒューリット>の手助けをするようなことになっても。」
 「無理強いをするつもりはないですよ。ただ、今の状況を考えると、人間族<ヒューリット>と協力するのも悪くないと思う」
 「どういうことです?」
 「竜人族<ドラグニス>の動きが変わってきているんです。あなたの領界<ファリア>が竜人族<ドラグニス>に襲われたことだって、その一つです。どうして領界<ファリア>を襲ったりしたんですか? それに、どうやって奪ったのか? 幾ら小さなオアシスでも、魔力は竜人族<ドラグニス>より妖精族<フィモータル>のほうが上のはず。領界主<ファリア=エンダ>だったのなら、何か感じませんでしたか」」
フィリメイアは俯いた。長い、白い髪が足元に落ちる。
 「それが…よく判らなくて。急に結界が薄れ始めたんだ。異変に気が付いたときにはもうどうしようもなくなってた。そもそも竜人族<ドラグニス>が群れで現われるなんて、今まで無かったし」
 「水脈は? 妖精族の魔力の源である"水源"に何かされたのでは?」
 「そうだと思う。水脈があっという間に弱っていったのは判った。でも、オアシスの水源は、中心のオアシスの真下…つまり地面のずっと下のほうで、砂の下。そこは私の住処だったから、何かされるはずもないんだ」
 「ふうん…。」
リュカは口元に手をやり、考え込む。
 「きっと何か仕掛けがあるはずだ。竜人族<ドラグニス>が妖精族<フィモータル>に対抗できる手段を手に入れたのなら、他の領界<ファリア>も安全ではなくなる」
フィリメイアは息を呑み、困惑した表情になった。
 「でも、それは…」
 「これは、人間族<ヒューリット>と竜人族<ドラグニス>だけの戦いでは、なくなるかもしれない。人間たちの防衛線は押されつつあります。妖精族は守に徹する種族。もし…妖精族<フィモータル>が戦いを挑まれたら、ほとんどの者が竜人族と戦えない。」
 「貴殿を除いては?」
 「そうですね、今のところ」
リュカは、腰に下げた剣の鞘に指環滑らせた。「――竜人族<ドラグニス>が領界<ファリア>の結界を破った方法を調べないと。それから…なぜ急に勢力を広げ始めたのかも」

 月の光が揺れる。
 白い影が音も無く姿を消したあとも、少年は、じっと鏡のような湖面を見つめていた。


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