■28


 馬の嘶きと大勢の人間の足音。物資を輸送する馬車の、車輪の軋む音。それらが入り混じって、坂道を越えてゆく。かつては西方と当方を結ぶ主要な交易路だったその道は、荒れ果ててはいたが、長年踏み固められた土までは完全に埋もれていない。数十年放棄されていたその道を今、ルナリアとグロッサリアの軍を主体とする兵士たちが踏み越えてゆく。
 道案内のため先頭に立っていたベースが馬を止め、丘の向こうに眼を凝らした。
 「あれだ」
振り返って、ユッドたちを呼ぶ。指差した方角に遠く、青く輝く湖水が見えている。そのほとりに、竜人族の拠点がある。途中で敵と出くわすことは無かったが、進軍速度を速めるために街道のど真ん中を突っ切ってきたのだ。さすがに、気づかれているはずだ。
 (ここからは、お互いの策の読み合いになる)
ユッドは、高ぶる気持ちを抑えながら表情を押さえて振り返る。
 「リュカ、近くに敵は?」
 「いないようです。本拠地で待ち構えているのかも」
 「…よし。それじゃここで作戦通り二つに別れるぞ。ベースさん、船のほう。よろしくお願いします」
 「おう、任せとけ」
案内役の男は厚い胸板を叩いて馬の首を巡らせる。
 「サニエル、そっちの指揮、よろしく」
 「…ふん」
金髪の青年は、不本意そうな顔を作りながらも、どこか嬉しそうに意気揚々と去っていく。船は、妖精族の支援を受けて川の支流を湖の近くに既に届けられている。そちらが攻撃の本体で砦に正面から突撃するのは囮だが、囮とは思われないよう、主力部隊で固めてある。ユッドは、二つに分かれて去ってゆく部隊を見送ったあと、溜息まじりにちらりと後ろの荷馬車に眼をやった。
 「ほんとに、ついてくるつもりなのか?」
荷車の上には、エリンとフィルダーナが座っている。
 「医療班の手が足りないんでしょ? 後方支援よ。別に、前線に出るわけじゃないから大丈夫よ。守ってくれるんでしょ?」
 「いや、まあ…そうだけど」
フィルダーナのほうは、じっとリュカを見上げている。何も言わなくても、言いたいことは判るだろうといわんばかりだ。
 「おーい兵士長サマー」
日に焼けた顔でにやにや笑いながら、ディーシュが野次を飛ばす。「イチャついてないで、さっさと次の指示出せよー」
 「余計なこと言うな! ったく。…それじゃおさらいだ。昨日決めたとおり、ここからの作戦は五班に別れてもらう。目的は敵主力部隊を前面に集中させ、船からの襲撃が成功するまでの時間稼ぎをすること。これは敵情視察も兼ねている。突っ込みすぎず、適度に距離を置いて逃げ回れ」
その作戦は、昨日、砦の近くまで先行して様子見に行った結果と、リュカが近隣の妖精族から集めた情報を総合して決めたものだった。
 事前に予想したとおり、かつての交易拠点を利用して作られた竜人族の住処は新たに作られた堀によって取り囲まれ、跳ね橋がかかっている。弓の射程範囲には馬止めが設置され、見張り塔が随所にある。接近しすぎれば頭上からの一斉射撃で全滅は必至。堀のせいで、迂闊に近づくことも出来ない。何か罠があるかもしれず、跳ね橋を通過するにしても小回りの利く人数にしておく必要がある。五つの班に分けるのは、二十人ずつの小集団で別れて動くためだ。
 「敵の数は二百。うち戦闘可能な竜人が半分だとすれば、一人一体倒せば船の連中には手間をかけさせずにすむ計算になる」
冗談だと判っているから、何人かが小さな笑い声を上げた。通常の戦法では、竜人一体に対し、四人で四方からとりかかる。囲まれたら終わりだということは誰もが判っていた。確実に勝てる見込みもないのだと。
 「各自別れてくれ。作戦開始は太陽が天頂に差し掛かるとき。先方はオレのところが出る。それを合図にしてくれ。解散!」
五つに別れて、騎馬兵たちが動き出す。医療班や物資輸送班たち、動きの鈍い馬車の護衛に一定数が残り、戦場から離れた場所へ誘導していく。ユッドのもとには、リュカと、ほかに十人ほどが残っている。その中にディーシュもいた。この突撃班に、自ら志願してきたのだ。正直に言えば、それはユッドにとっては意外だった。彼はもっと安全に、うまく立ち回るほうだと思っていたからだ。
 「…後悔はないな?」
見回す顔のどれにも、迷いはない。
 ユッドは、丘の上から湖を見下ろしてひとつ、大きく呼吸した。出来るだけのことはやった。ここから先は――
 「…時間だ」
剣を抜いて、坂の下に視線をやる。そして。「突撃開始!」馬が走り出し、次第に加速していく。坂道を飛ぶように、僅か十騎の兵士たちが一直線に敵の待ち受ける拠点目指して駆け下りていく。
 「堀の中に待ち伏せ多数!」
隣を走るリュカが、一歩前に出ながら叫ぶ。「弓の射程範囲に入ります」
 「全員、反転!」
ユッドが怒鳴る。馬が大きく弧を描いて、馬止めよりはるか手前で進路を変えた。その足元に、ぎりぎりで届かなかった毒矢が突き刺さる。振り返りながら、リュカは見張り台の上を見上げた。
 「頭上にも、弓兵います。予想通りですね。どうします? 矢が尽きるまで撃たせますか」
 「物資の量によるな。堀に飛び込んじまえば上からの矢は避けられるが…」
ユッドたちの突撃を合図にして、他の四つの班もめいめいの方向から突撃を試みている。矢の届くぎりぎりまで押し寄せては、反転。だが、この方法ではすぐに読まれる。通常の竜人なら、目の前にエモノがいれば何も考えずに突進してくれるのだが、ここの竜人たちは用心深く堀に身を潜めたまま、動こうとしない。
 「やっぱり指揮官が居るな。頭のいいやつが」
馬を走らせながら、ユッドが呟く。「船は? この調子じゃあ、背後からの接近に気づかれるかもしれない」
 「一か八か、目くらましを試してみますか?」
 「目くらまし?」
 「ええ。フィルダーナに教わった方法です」
そう言って、リュカは空中に片手を上げた。指先から零れるように白い靄が広がり、馬の走るのにつれて視界を乳白色のカーテンで覆っていく。
 「すげえ…」
後ろでディーシュたちが呟く。これなら、どこにいるか見張り台からも見えない。矢を打ち込むことは出来るが、見えない相手に打ち込むのだから当たるはずがない。混乱したように、堀の中の竜人たちがむやみやたらと矢を撃ち続ける。その隙に、一番端から突撃した班が堀の内側に飛び込むことに成功した。
 「堀の弓兵を倒せ! 上から槍で突け!」
古参兵たちの手際のいい攻撃が容赦なく浴びせかけられる。
 「ギャアアア!」
断末魔の叫びが霧の向こうから響く頃、ユッドたちも跳ね橋に差し掛かっていた。頭上の見張り台から、矢が射掛けられる。
 「そのまま真っ直ぐだ! 障害物の陰に入るんだ」
跳ね橋を上げようとあわてて飛び出してきた竜人の首をすれ違いざまに薙ぎ落としながら、馬は、土塀に囲まれた拠点の中に突入していく。かつては人間の町だったはずのそこは、今では完全に竜人族の町だ。家々は荒れたまま朽ち果て、あるいは解体されて燃料と化し、かわりに、土を盛って作られた土まんじゅうのような家がひしめきあっている。
 「グェアアアア!」
手に武器を構えた竜人たちが、わずかな人数で飛び込んできた侵入者たちを打ち倒すために集まってくる。
 「ユッド」
 「…ああ、判ってる。この数を相手にすんのは、無理だ。」
だが、時間からしてもうそろそろのはずだ。太陽が傾きつつある。敵はこちらに全ての注意を傾けている。狙い通り――
 じりじりと間合いを計っていたその時、町の湖側で爆発音が響いた。火の手が上がるのが見える。
 「間に合った」
緊張していたユッドの顔に、ようやくわずかな笑みが零れる。それを合図に、リュカが剣を抜いた。
 「出ますか?」
 「ああ」
言いながら、ユッドも剣を抜く。揃いの、黒銀の輝きがひらめいた。町の奥のほうから斧を手にした大柄な竜人が一体、先陣を切ってこちらに向かって突撃してくる。咆哮とともに振り下ろされる一撃をかわすと同時に、リュカが馬の背から跳躍する。
 「後ろに弓兵!」
怒鳴りながら、ユッドは肩にかけていた皮のマントを大きく掲げる。分厚いマントは盾代わりだ。マントに矢が突き刺さり、貫通して止まる。狙いが逸れさえすれば問題ない。後続の竜人たちが次の矢を番えようとしているのが見える。彼は馬の速度を上げた。迷い無く突っ込んでくる馬と人間に竜人の動きが一瞬鈍った。その隙をついて、懐に飛び込む。顎の下の柔らかい部分めがけて、斜め下から一閃。鮮血が迸り、手元に生暖かいものが降り注ぐ。
 「ブオオ!」
低い、空気を震わすような叫び声。弓矢を投げ出し、顔を覆って暴れる竜人の側を通り過ぎる時、後ろからリュカが追いついてきた。
 「戦い馴れはしてはいませんが、なかなか手ごわいですね。人間と同じように、考えながら動く」
 「ああ。ただ、皮膚が薄い」
あちこちで戦いが起きて、拠点の中は乱戦状態になっていた。船から突入してきた兵士たちと、途中、すれ違う。金髪の若い男がじろりとユッドを見て、憎まれ口を叩いた。
 「フン、生きてたか」
 「そっちもな」
サニエルの連れて来兵士たちが、次々と船を降りてくる。合流すれば人数はこちらが有利だ。四人が一組となり竜人を取り囲んで、隙をついて攻撃を繰り出しながら倒していく。それをさらに、騎馬のままで突入してきた槍を手にした部隊が縦横無尽に撹乱していく。夏よりは低い気温の下、動きの鈍い竜人族は馬で移動する人間に狙いを定めることが出来ず、いいように分断されていく。
 (戦闘員だけじゃない…指揮命令系統も未熟だな。ここには、あいつはいないのか?)
レスカトーレで出くわした、あのザインという竜人。リュカからは、リオネス砦が陥落したあの日の指揮官も同じだったと聞かされた。
 (あいつが、本命のはずだ。どこだ? どこにいる…)
戦況は、次第に人間側が有利になりつつあった。残っているのは、人間並みの知能は持たない普通の竜人族ばかりだ。身体能力は驚異的だが、戦い方は単調で、怪力と巨体を恐れなければ勝つのは難しくない。
 「リュカ、残りはどのくらいだ?」
 「およそ三十。外に出たのはほとんど倒されているようです。ただ…」
リュカの視線は、何かを探している。彼も同じことを考えているのだ。
 「罠だと思うか?」
 「いえ。敵も全力です。少なくとも、ここが捨て駒ということは考えにくい。とにかく今は、ここを落とすことに集中しましょう」
行く手に、大きな土饅頭が見えてきた。入り口に飾り布が駆けられ、いかにも地位の高い者が住んでいそうに目立つ作りになっている。
 「…指揮官がいるとしたら、どう考えてもここだよな?」
 「そうだと思います」
 「中には?」
 「気配はあります。」
二人は武器を構え、用心しながら中へ入っていく。小さな窓しかない土盛りの中は薄暗く、動くものもいない――
 と、リュカが、はっとして頭上を見上げた。
 「上!」
 「え? …うわああっ」
慌てて飛びさする。間一髪、さっきまでいた場所に土ぼこりとともに石と土の塊とが降り注ぐ。咆哮とともに中二階になっている場所から、五体ばかりの竜人が姿を現した。
 「待ち伏せか。やっぱここにも、少しは考える頭のある奴がいるらしい」
 「ユッド。一匹お願いします」
言いながら、リュカの姿が土ぼこりの中へ消えていく。
 「一匹だけでいいのか?」
軽口を叩きながらも、ユッドの眼差しは寸分の隙も無く、向かってくる敵に向けられている。構えられている武器は、大振りで不恰好な鉄の斧。ありあわせの材料をそれらしく固めて作られたお手製のようにも見える。
 叫び声を上げながら、竜人はそれを真っ直ぐに振り下ろす。掠るだけでも脆い人間の体にとっては致命傷になりかねないほどの強力な一撃だが、当たらなければ脅威では無い。武器の風圧で髪が舞い上がる。攻撃を繰り出した直後は胴体ががら空きで、隙が生まれている。落ち着いて攻撃をかわしたユッドは、手馴れた反撃で竜人の喉元に剣を突きたてる。
 「グボッ」
濁った音。手ごたえは十分だ。剣を引き抜いたあとからどす黒い血が噴水のように噴き出して、飛沫が顔にかかる。武器を取り落とし、首元を押さえながらのたうつ敵をその場に残し、彼はリュカと合流した。リュカのほうも、手際よく四体を片付けている。返り血も浴びず、手も体もきれいなままだ。
 「相変わらずだな」
顔にかかった赤いものを拭いながら、ユッドは苦笑する。
 「残りは、この奥の一体だけ」
リュカは剣で部屋の奥を指し示した。そこには、一段高くなった台座があった。そしてそこに、鮮やかな色のローブに包まれた小柄な竜人が腰を下ろし、きっとねめつけるように侵入者たちを見つめていた。長い黒髪が、足元に垂れている。
 「…女?」
驚いているユッドの目の前で、女の竜人は隠し持っていた懐刀をすらりと抜いた。
 「女王ギメルの娘、バーダ…人間どもに辱めは受けぬ!」
言うなり、それを自らの喉元に突きたてる。鮮やかな赤が迸ってローブの色を塗り重ね、体ごと崩れ落ちていく。
 あっけにとられたまま、二人はただそれを見つめていた。流れ出した血が床に滴り落ち、ガラス球のような目が天井を睨んでいる。
 「自害…した…?」
 「妙なところが人間に似たんですね」
リュカは冷めたような口調で言い、事切れた竜人の女に近づいて見下ろした。「でも、この竜人はギメルではなかった」
 「娘、とか言ってたっけ。これでも十分、人間に似て不気味だってのに、こいつらの母親は一体どんな姿してるんだよ」
 「きっと、とんでもない姿なんですよ。」
突き放すように言って、リュカは外に意識をこらす。そして、はっとしたような顔になった。「遠ざかる気配がある…、今の戦闘の間に一部が脱出したのかもしれない」
 「まあ、全滅が無理なのは最初から判ってた」
ユッドは、外にでて辺りを見回した。戦っている音は、もうほとんど聞こえてこない。
 「兵士長!」
外の敵を片付けて駆けつけてきた仲間たちが駆け寄ってくる。いまだその呼び名には馴れず、呼ばれてしばらくしてから自分のことだと気づく。
 「こっちは片付きましたよ。そちらは?」
 「片付いたはずだ。首領らしき奴も倒した。ただ、逃げられた奴もいる。誰か追いかけてるか?」
 「わかりません…そこまで見てなかったかも」
 「そうか。まあいい」
脱出した残りの敵は、本隊を潰したあとで追撃して虱潰しに倒すしかない。妖精族の情報網があれば、ある程度は行き先も絞れるはずだ。
 静まり返る土盛りの間を二人は並んで進んで行く。ついさっきまで仕事をしていたかのような、掘り起こされたばかりの土と掘られたばかりの穴。焚き火の跡、乾いた肉のこびり付いた何かの骨。つい最近、殺されたような人間の死体も幾つかあった。思わず足を止めて、まじまじと顔を見つめてしまう。――結局見つからなかった、ここに居るはずのない死者を探してしまう。
 「ユッド?」
 「…今行く」
返り血に染まる剣を振るって雫を落としながら、ユッドは、リュカについて乗り捨てた馬を探しに戻った。
 戦いはほとんど終わっており、そこかしこに点々と、竜人族の死骸が転がっている。
 「重傷者は?」
 「いません。毒矢にやられた人が数人いるけど、解毒はフィルダーナがやってくれてる」
怪我をした兵士の手当てをしていたエリンが答える。医療班が合流したのだ。顔を上げて、彼女はユッドとリュカを見た。「そっちは怪我はしないのね」
 「おかげさまで。」
 「勝ったのね?」
 「今回はな。」
ユッドは、離れたところで風を確かめるように手を差し上げているリュカのほうに視線をやった。協力してくれている妖精族たちに戦況を伝える伝令を飛ばすと同時に、戦況を受け取ってもいるのだ。近くに敵の気配があれば、彼が察知してくれるはずだ。
 町の外では、サニエルが野営地の設営を指揮している。周囲の警戒も万全、今すぐにやらなければならないことは無い。――気が抜けるのと同時に、めまいが襲ってきた。ユッドは、よろめきながら物陰へと走りこんだ。
 「うぇ…」
口元を押さえて蹲る。震えが止まらない。緊張の糸が切れるのと同時に、どうしようもなく体の奥底から込み上げてくるものがあった。
 生き残れた――今回は。
 敵陣のど真ん中に突っ込んでいくなんて無茶をして、無傷で生き残れた。奇蹟のようだ。
 (オレ、なんてことしたんだろう)
胃袋の中はほとんど空っぽで、どんなに吐こうとしても吐けなかった。苦い胃液を吐きながら、涙目になって胸を押さえていたとき、背後で息を呑む音がした。
 「あ、えーと…」
ディーシュが、眼を丸くして立っている。
 「なんだよ」
 「いや…」
頬をかきながら、眼をそらす。「あんたでも、緊張することあるんだなぁと思ってさ」
 「どういう意味だよ。…はあ、水、持ってないか?」
 「ん」
腰から水筒を外して、ぽいとユッドに投げて寄越す。石の上に腰を下ろしながら、ユッドは生ぬるい水を貪るように喉に流した。胃の辺りの不快感はだいぶ収まってきた。さっきまで押し寄せていた体の震えは消えている。
 ディーシュは、その様子をじっと眺めていたが、やがて、ぽつりと言った。
 「前にさ、一緒に厩番してた奴らがいたの、覚えてるか? 赤毛のと、そばかすの」
 「ああ。よく一緒につるんでた」
 「あいつら死んだんだ。砦の居残りでさ、グロッサリアへは行かなかった」
水筒に蓋をしようとしていたユッドの手が、止まった。
 リオネス砦が陥落した、あの悪夢のような日のこと。砦に残されていた、沢山の戦死者たちの遺体…。
 「あん時さ、分かったんだよ。このまま竜人族が進攻してきたら、皆死ぬんだってさ。で、どうせ死ぬんだったら、戦って死のうと思ったんだ。」
 「だから今回の突撃部隊にも志願したのか? 単純だなあ」
 「お前が立てた作戦だろうが、エリート様」
 「そうだよ、だから無茶苦茶なのはオレが一番良く分かってた。はあ…本当もう、二度とやりたくない…」
溜息をついて、ユッドはほとんど空になった水筒をディーシュに投げ返した。「生き残ったんだから、命は大事にしろよ。」
 「あんたが言うことかよ、それ」
笑いながら、若者は冗談めかした口調で言った。「んじゃ兵士長様、ごゆっくりどうぞ。」
 「なあ、ディーシュ。昔、新米用の兵舎で同じ部屋だったとき、…向かいのベッドに、鼾のうるさい奴いたよな?」
去りかけていたディーシュが振り返る。
 「ん? いたっけ。そんな奴」
 「そう言うと思ってた」
 「なんだよ」
 「お前のそういう大雑把なところ、羨ましいよ…。」
首を傾げているディーシュをその場に残し、ユッドは、野営地の設営が進む広場のほうへと歩き出した。
 「ユッド」
すぐにリュカが近づいて来る。
 「周辺に竜人族の気配はありませんでした。それと、ルーヴァ川とその周辺の川を越えた竜人族もいない。東に奇襲をかけられることはないはずです」
 「そいつはひと安心だ。なら、安心してここに基地を作れそうだな」
前線を、このエルム湖まで引き上げる。それが最初から第一の目的だった。敵の本拠地のあるソルナレイクまでは、ルナリアからもグロッサリアからも遠すぎる。エルム湖からなら、直接行軍できる。それに、リオネス砦よりずっと、面積が広い。ただしそのためには、前回のように背後を突かれる可能性を排除しなければならなかった。
 「どこに行っていた」
サニエルが、相変わらずの調子で食ってかかる。「少しは手伝え。自分の泊まるテントくらい張れるだろうが」
 「ちょっと用を足しに行ってたんだよ。ったく、人使い荒いな…リオネス砦のフレイザー司令への伝令は?」
 「とっくに送った。順調に行けば三日で着く。」
 「なら、遅くても十日だな。」
それまでに、このエルム湖のほとりを攻撃拠点として機能させなければならない。これはまだ、作戦の序盤に過ぎない。ほんの小さな失敗で覆される。既に多くを失ったユッドたちにとっては、たった一度の勝利を祝っている余裕はなかった。


<前へ表紙へ次へ>