■26


 ルーヴァ川に沿って馬を駆る。この道を辿るのは、砦に来てすぐの頃、斥候任務で来て以来だ。あれから、まだ数ヶ月しか経っていない。サウィルの森は、かつて見たままの姿でそこにあった。せせらぎの音の聞こえる草原と豊かな花畑。季節が変わり、咲いている花の種類だけが変わっている。
 領界に踏み込むと、空気が変わった。近づいた時から既に気づいているはずなのに、リュカが迎えに出てくる様子はない。何か、雰囲気が妙だ。けれど、進むしかない。
 馬を森の入り口に繋いでおいて、彼は、徒歩で森の奥を目指した。以前来た時の記憶を辿りながら、巨木の作る道を進んで行く。森は静かで、物音ひとつしない。深い眠りに落ちているかのようだ。
 と、その時、視界に白いものが過ぎった。
 「リュカ?」
はっとして顔を上げたユッドは、木立の間に立つ長身の女の姿を見つけた。
 「…フィリメイアか」
 「リュカ殿は会いたがっていない。が、これは私の独断だ」
言って、くるりと踵を返した。「ついて来い」長い真っ白な髪がふわりと揺れ、浮かぶように木々の間を進んでいく。
 「ちょ、待てよ! 会いたがってないって、どういうことだよ。何があった?」
 「聞きたいのは私のほうだ」
頭の先からつまさきまで、全身が真っ白な美女は、僅かに振り返ってじろりとユッドを睨んだ。「何をどうすれば、あんな状態になる? 領界主<ファリア=エンダ>に何かあれば、ここは失われてしまうんだぞ」
 「怪我してるのか?」
 「…自分で確かめるがいい」
ぽつり、と緑の雫が木立の間から落ちてくる。
 足元の岩の間を流れ落ちる冷たい水。フィリメイアは、まるで風のように音も立てずに森の奥へと向っていく。以前訪れた、リュカの家のあった場所よりもずっと奥のほうだ。
 やがて千年の齢を生きる苔むした木々の間を抜けた時、目の前が唐突に開けた。ユッドは、光の指す小さな泉の前に導き出されていた。透明な水が沸き立ち、水底まで光が降りている。
 リュカは、そこにいた。泉の側に座り込んで、じっと水面を見つめている。
 「リュカ! 無事だったのか…」
言いかけたユッドの声が、掠れて消える。透き通るような眼差しと血の気の失った白い肌のせいか、普段とはまるで別人のようだった。
 存在が遠い。
 何故、こんな顔を――
 リュカの視線が投げかけられた方向を見やって、ユッドははっとした。水の中に、半分透明な少女の姿が沈んでいる。
 「…眼を覚まさないんです、ずっと」
少年は、ぽつりと呟いた。
 「僕のせいで、こんな」
張り詰めたような沈黙とフィルダーナの眼差しが、何が起きたのかを示していた。ユッドは奥歯を噛み締め、言葉を飲み込んだ。妖精族にとって生命力に等しい魔力を、限界まで使い切るとどうなるのか。
 この状況で、戦線に戻ってくれ、などと言えるわけがない。
 ユッドは、籠を取り出した。
 「エリンから、これ。渡してくれ、って言われてたんだ。彼女は無事だよ。カリムも。それから――」
無理に明るい声を出そうとすればするほど、悲惨なことになってしまう。「それから――これ――」腰に提げていた物入れから取り出した包みを、リュカの膝の上に置いた。パンにしては重たい感触と、微かな金属音。はっとして、少年の視線がそこに釘付けになる。
 「これは…」
包みの中から、使い込まれた黒光りのする剣の柄と刃の破片が姿を現した。リュカは無言のまま、両手の中の柄を見つめていた。
 言わなくても、言いたいことは分かる。言葉に出して知らせたくないことも。
 リュカは大きく体を震わせると、搾り出すように名を呼んだ。
 「ラーメド…」
膝の上に大粒の涙が零れ落ちる。背中を丸めながら、少年は泣いていた。何度も名を呼んで、残されたものを抱きしめていた。
 「…オレは戻るよ。それじゃ」
それだけ言って、ユッドは、泉に背を向けると、元来た道を歩き出した。
 リュカがどちらを選ぼうとも、恨むつもりはなかった。これはもとより、人間と竜人族との間で始まった、人間自身が種をまいた争いなのだ。彼とこの森はきっと、この先も生き残るだろう。…たとえ、周囲の人間の国すべてが滅び去ったとしても。


 リュカを迎えに行ってから数日後、かつてリオネス砦のあった焼け跡の前の仮陣地に、グロッサリアから帰還した部隊が到着した。誰もが皆、変わり果てた砦の姿に呆然としている。
 「おいおい、せっかく作リ直したもんが全部おじゃんだ。これじゃーどうしようもねぇぞ」
ディーシュが怒鳴っている。「どーすんだよこれから」
 誰も答えられる者はいない。
 「戦死者の数は? 生き残った兵力と現在の物資は」
帰還したばかりの古参兵の一人がカリムに食って掛かっている。
 「…確認できた死者は、三十ほどだ」カリムが答える。「砦の備蓄はほぼ全て喪失したが、最低限の武器や馬は遠征中で無事だった。食料も、そろそろ刈り入れ時期だし、商人ギルドからの支援がじきに届く手はずになっていた。兵力が整えば、反撃に移れる。問題ない」
 「問題ない? どこに反撃するんだ。ほかに敵の拠点がまだあるっていうのか? オウルはどうした。兵士長は」
 「…戦死した」
 「なんだって?」
ざわめきが広がっていく。
 「"英雄"オウルが戦死? おい…そんな…」
 「それでどうやって反撃するんだよ…」
 「やるか、それともここから際限なく逃げるか。そのどっちかしかない」
動揺のざわめきに向って声を上げたのは、ユッドだった。皆、胡散臭そうな目で、どこからともなく出てきたこの新参者の兵を見ている。「一人に頼るな。ここからは、自分たちで戦うしかない」
 「何を偉そうに。何様のつもりだ」
 「そうだ、お前は今年の春から加わったばかりの新兵だろうが」
 「地位や軍歴の長さが、戦いで役に立つのか? 大事なのは覚悟と戦いの経験値。それと、自分の知恵だけだ。戦うのか、それとも逃げるのか? どっちなんだよ」
 「……。」
沈黙。
 「だが、どうやって反撃するつもりだ」
年配の、最初に食ってかかっていたのとは別の兵が馬上のままで言う。「攻撃目標は?」
 「それはまだ分からない。ただ、商人ギルドが協力してくれて、本拠地を探り出せた。ソレナレイクだ。」
再びざわめき。
 「ソレナレイクだと? 遠すぎるぞ」
 「街道がまだ生きていたとしても…」
 「一体誰が指揮を取る。"英雄"オウルがいないのに」
 「いい加減にしろ」
大きな声が、辺りに響き渡った。ユッドは、隣に立った人物を見上げた。フレイザーが、普段は見せない怒りの表情を向けている。「拠点が他にもあるならば、全て叩くしかない! 本拠地を叩かない限り、この戦いは終わらない。お前たちはまだ剣が握れるのに、戦わずして逃げるのか。誰かに戦わせて後方で眺めているつもりか?」
 「勝ち目がない戦はごめんだ、と言っているだけですよ。司令」
 「そうだ。トカゲどもになぶり殺しにされるのはごめんだ。何か勝ち目があるならともかく」
 「やけくそに進軍するほうがおかしい」
ユッドは、唇を噛んで俯いた。確かに、その通りなのだ。反撃はしなければならないが、今の自分たちは、攻撃目標がどこにあるのかさえ分かっていない。探り出すにしても、時間がかかるほど敵に次の攻撃の余裕を与えることになる。しかも竜人族の繁殖の速度は、人間よりずっと速いのだ。
 と、その時だった。
 目の前を、銀色の輝きを持つ白い蝶が一匹、ふわりと通り過ぎた。
 (え?)
はっとして振り返った彼の視界の端に、こちらに向って手を振りながら近づいてくる少年の姿がある。その姿は、跳ぶような足取りでぐんぐん近づいて来る。
 「…リュカ!」
 「遅くなってすいません。お待たせしました」
息を弾ませながらやったきた少年の周囲には、色とりどり、形も様々な無数の蝶が乱舞している。
 「って、何だよこれは!」
蝶たちの乱舞は、容赦なくユッドまで巻き込んでいた。顔に近づいて、鼻の頭にとまろうとするものまでいる。リュカは、あっけにとられているフレイザーを見上げた。
 「レイノリア山脈から下る水脈の届く範囲、その周囲の領界すべてと連絡をつけて、説得しました。彼らが竜人族との戦いに力を貸してくれます。水脈の届く範囲なら敵を発見することが可能です」
 「何…妖精族が味方…?」
 「ええ。この蝶の一匹ずつ、すべてが領界主の協力のしるしですよ。皆さんには、これだけの数の味方がいます」
誰も、言葉を発することが出来ないでいる。
 リュカは、風が梢を揺らすような音を連ねた聞き取れない言葉で何か言った。妖精族の言葉だ。それとともに、蝶たちが舞うのをやめ、距離を置く。リュカは腰に提げていた皮袋を外して、中の水を空中に放り投げた。その水が平らに引き伸ばされて、宙に浮かんだまま何かを形作ろうとしている。太陽の輝きが、陰影を浮かび上がらせてはじめて、その正体がはっきりと判った。
 「…地図?」
はっとしたように、カリムが呟いた。近づいて、宙に浮かんだ水の膜を表から、裏から眺める。「こいつは…地図じゃないのか」
 「そうです。判り易くするために人間の使っているものに似せてみました。」
言いながら、リュカは水の中心部に指で触れる。
 「ここが、今いる砦です」
指先から水紋が広がっていく。
 「そしてここが、先日訪れたレスカトーレ。…ここ最近で竜人族の目撃された場所を表してみます」
地図の上に、幾つもの水紋が現われ、波と波がぶつかりあう。砦の周囲、ルーヴァ川とその支流のあちこちに波が起きる。ルナリアの領内だけでなくグロッサリアも、さらにその向こう側の国々も。フレイザーは息を呑んでいる。
 「他国まで? こんな広範囲に斥候は送っていない―― 一体、どうやってこれを?」
 「妖精族に、国境は関係ありません」
リュカが静かに答える。「川の水源を管理する妖精族たちは、水辺で起きる出来事を感知することが出来ます。特に、竜人族が水辺に近づけば必ず判る」
 「妖精族の監視網、というわけか」
 「彼らの協力があれば、連中の動きを先手を打って潰すことができる…」
 「この動きから、竜人族の攻撃拠点の可能性のある場所を割り出しました」
一匹の蝶がひらひらと近づいて、地図の一点に近づいた。
 「この場所です。」
 「…エルム湖だ」
フレイザーの表情が変わった。「街道の交わるところだ。レスカトーレ近くの拠点も、かつての街道沿いにあったという報告だったな? そして、本拠地がソルナレイクだと。…まさか、奴らは人間の作った交易路を辿って攻め込んできているのか」
ざわめきが起きる。人々の、力を失いかけていた眼差しに力が戻って来る。
 「すぐに全軍に通達を。」きびきびとした口調で、フレイザーが言った。「ロンフェからの援軍の到着時期は?」
 「ロンフェに伝令を送って確かめさせましょう」
とカリム。「確か…当初の予定では、そろそろだったはずです」
 「それまでに砦を機能させておかねばならないな。到着してから驚かれないよう、伝令には、襲撃は受けたが兵力は無事だと伝えさせないと。ああっ…と、そうだ」
フレイザーが動きを止め、リュカのほうに向き直ると、慎重な口調で訊ねた。
 「その、妖精族に協力してもらうのに、何か必要なものは? 代償などは必要とされるのか」
リュカは首を振った。
 「必要ありません。彼らが求めているのは、領界を脅かす竜人族を確実に根絶やしにすること。"監視網を受け持つ代わりに人間が戦ってくれること"です」
 「それはまた、ずいぶんと気前のいい取引だな」
まだ納得していないらしいさっきの古参兵が、皮肉めいた笑みを浮かべる。「ただ監視して、情報を流してくれるだけ? 人間は、いいように使われるわけだ」
 「前線に立つのが一人では、不満でしょうか?」
リュカは腰の剣に手をやると、不敵な笑みを返した。
 「くっ」
年配の兵は、それ以上言えなくなって顔をそらす。
 「納得いかない点や、不安があるのは判る」と、フレイザー。「だが、我々は前に進まねばならない」
微かに不満げな一部の兵たちを気に掛けるそぶりも見せつつ、フレイザーはユッドのほうに向き直る。
 「というわけだ、戦場に立つ任務は、君の方に任せるしかない。ラーメドはもう居ない――代役を頼めるだろうか」
 「オレ…ですか?」
 「今から君が、兵士長となれ」
数秒の間。しばらくフレイザーを見つめたあと、ユッドは何も言わず、拳を胸に当てて軽く一礼した。
 こんな形で就任するはずでは無かった役目。逃げることの許されない大役。かつて見つめていた背中は、もう目の前にはない。今度は自分が、仲間たちの命を背負う番なのだ。
事の成り行きを見届けたかのように、蝶たちが空へと舞い上がっていく。
 「あ、そうだ。ユッド、渡したいものが」
 「?」
 「手を」
差し出した手の上に、通常の兵士たちが使うのよりは少し小ぶりな一振りの剣が置かれる。見た目に比べると、やけに軽い。リュカは、自分の腰に提げていた剣を外してユッドの剣と並べてみせた。
 しばらく見つめていたあと、彼ははっとした。
 「まさか、これ?!」
リュカは、頷いた。
 「作り直してみました。僕の元々持っていたのと合わせて」
それはおそろいの、二振りの同じ金属で作られた剣だった。柄の部分――使い込まれた柄の部分はリュカの手元に。砕けた欠片をつなぎあわせた刃は、ユッドの手元にある。
 二人は、それぞれに剣を、自分の腰に収めた。考えていることは同じだ。
 「まだ終わりじゃない、ですよね」
 「ああ。ここから先は、オレたちが戦う」
リュカが空を見上げた。
 「――反撃をはじめましょう」

 戦いの中で、季節は過ぎ去ろうとしている。
 夏が、間もなく終わろうとしていた。


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