■24 Interlude〜サウィルの森


 最初の記憶は、森の中心に広がる湖のほとりから始まる。
 木漏れ日の照らす水面、日差しの透ける鮮やかな緑。水と、空気の境目である水面の上に座り込んだまま、ぼんやりと森全体の気配を感じていた。おそらくその瞬間が、「自分」と「世界」の違いを理解した最初の時だったのだろう。森は、自分自身であると同時に別のものでもある。森の中にはあらゆる生き物が暮らしている。それらは自分の意志とは関係なく、日々を生きている。それらは日々、自分とは無関係に生まれて、死んでいく。けれどそれらの命は、森から生まれ、森へと還る――自分自身である森と繋がっているものたちなのだ。
 「リュカ」
生まれる前から知っている、柔らかい声が彼の名を呼ぶ。振り返ると、水辺に立つほっそりとした白い女性の姿が見えた。水面に立ち上がると、彼はゆっくりと呼ぶ人の広げた両腕の中へ向かって歩き出す。
 この森に生きる命の中で、名前を呼んでくれる人は、ただ一人だけ。
 自分をこの世界に生み出した人。この森を育てた人。母<マール>、セフィーラ。
 千年をゆうに越える時を生き、寿命の迫った彼女が、次代の領界主<ファリア=エンダ>として宿したのが自分だった。だからサウィルの森は生まれた時から自分の一部のようなもので、自分の役割を、存在理由を疑ったことは一度も無い。
 セフィーラの跡を継いで、この美しく豊かな森と、そこに生きる命の巡りを守り抜くこと。
 それが、領界主として生まれた自分の、何よりも優先されるべき役目だった。


 『セフィーラ<母さん>と過ごした記憶は、あまり長くない』
誰に話しかけるでもなく、リュカは、心の中で呟いた。目の前で暗い水面が揺れている。月明かりのとうに消えた暗い空が木立の向こうに広がる。自分の、最初の記憶の始まった場所だ。セフィーラはここが好きだった。湖のほとりで唯一の草が隙間無く生えた緑の岸辺で、昼間は日当たりが良い。
 「いつもここで日向ぼっこをしていたわ」
彼女はよく、懐かしそうに眼を細めてはそう話してくれた。「何もしないで、ただ草の上で寝そべってるだけなの。それが気持ちいいって言ってた。おかしな人よね、人間なのにまるで草花みたいに」
 「それって…ラーメドのこと?」
 「ええ。あなたの名付け親ね」
笑いながら、セフィーラが髪を撫でてくれる。その人のことは名前しか知らなかった――けれどセフィーラがいつも嬉しそうに話すので、それだけで楽しかった。
 「どんな人だった?」
 「とても勇敢で、責任感の強い人。でも、意外と臆病なところもあるのよ。大きな芋虫が落ちてきて、悲鳴を上げたりね。笑うと子供みたいなの。髪の色は、お前と同じね。雨に濡れた森の木の幹の色。瞳は大地の色…。」
 「いつか会えるかな」
 「勿論よ、約束したもの。」
セフィーラの言葉には、少しの迷いも疑いも無かった。けれど、その頃から彼女が少しずつ弱り始めているのに、リュカは気づいていた。魔力の放出が、回復を大幅に上回っていること。領界は魔力の供給源でもある。本来なら妖精族は、領界が傷つけられでもしない限り自分の領界内で魔力が尽きることはない。例外は、契約によって外部に魔力を供給している場合。セフィーラは、森の外で戦っている男に男が毒や致命傷を受けるたびに、そのダメージを肩代わりしていた。いくら解毒や治癒の力を持ってはいても、何度も致命傷を受け続けていれば回復が追いつかなくなる。少しずつ腕は細くなり、やがて彼女は、起き上がって動くことが難しくなっていた。
 最後の日々の記憶の中のセフィーラは、森の水源の側で石のように動かなくなっていた。
 瞬きも出来なくなった瞳を、枯れ枝のように細くなった腕を、ただじっと見ていることしか出来なかった。契約の解除は出来るはずだった。それでも、体を維持することか限界に達しようとする中でも、彼女は決してそれをしなかった。自分も、どうしてもそれだけは言い出せなかった。
 それは、彼女が待ち望んでいた人の「死」を意味していたから。
 「ねえ、リュカ」
側に腰を下ろして、次第に浅くなっていく呼吸を感じていたあの日、セフィーラは唐突に、不思議なことを言った。
 「人間の血は赤いの、知ってる?」
 「…え?」
 「赤い血は暖かいのよ。妖精族の銀色の血とは違うの。赤い血のせいで、人は、顔を真っ赤にして、泣いたり、怒ったりできるの。とても激しい感情…とても、熱い…」
瞳を開いて、彼女はこちらを見ながら、静かに微笑んだ。
 「お前はもう、一人でもこの森を守れるわね。」
そして、それが最期の言葉になった。
 その夜、セフィーラは静かに水に還っていった。何一つ痕跡を残さずに、かつて母だった水は水源の流れへと入り混じり、自分の涙とともに森を巡る水の一部へと姿を変えた。
 湖へと流れ込み、森の木々に吸い上げられ、木々の葉から水蒸気となって空に昇り、雲を作って雨となり、また、森へ戻ってくる巡る水の一部へと。
 約束の日は、来なかった。
 その日からそう時を経ずして、森の周囲に今まで感じたこともない気配が時折、現われるようになった。竜人族<ドラグニス>。人間たちが戦ってきた"敵"だった。
 (ラーメドも、死んでしまったのもしれない…)
漠然と、そう思うようになっていた。セフィーラが死んで契約が切れてしまった今、彼を守る加護の魔法は何も無い。もしそうだとしたら、いつかここにも"敵"が攻めてくるかもしれない。サウィルの森を守れるのは自分だけだ。そのために、――強くなりたいと思った。
 (戦わなきゃ…)
そのために、見よう見まねで作った剣を手にした。森の側を通り過ぎる旅人たちや、時折やってくる武装した兵士たちを観察して人間の戦い方を学んだ。それでも、最初は失敗続きだった。竜人族のうろこは強靭で、うまく魔力を使って武器を強化しなければ刃を通すことさえ出来なかった。それに、妖精族に比べれば鈍い動きにも独特のリズムがあった。一度など、竜人族の攻撃をまともに受けて、しばらく動けなくなるほどの深い傷を負った。辛うじて領界に逃げ込むのが間に合わなかったら、そこで終わっていたに違いない。
 何度も武器を作りなおし、傷を負ってはやり方を変えながら、一人で戦い続けた。――あの日までは。
 暗い木立の向こうを見上げ、彼は、回想から身を起こした。ユッドとの出会い。人間たちの砦の訪問。そこで果たした、思ってもいなかった出会い。…とっくに死んだと思っていた男は、まだ生きていて、自分と同じように、一人で戦い続けていた。
 『ラーメドが生きてたことを、もっと早く知っていたら、どうしていただろう』
あの時、かけるべき言葉が見つからなかったのは、お互いに同じだった。本当は、どうしたかった? 今でも、それがよく分からない。妖精族には人間のような親子兄弟の概念がない。あるのは、自分を生んだ「母」と、所属する「領界」との関係。それから、「名付け親」という関係。サウィルの森の主として対面する限り、彼は、先代の領界主を殺した人間だった。
 でももし、あの時、妖精族としてではなく人間として対面していたなら?


 答えは出せない。
 それに、過ぎ去った時は、もう戻らない。
 たとえ自分以外の誰がいなくなったとしても、唯一つの役目――この森を守るという存在意義に変わりは無く、そのために自分は、どんなことがあっても生き続けなければならないのだ。


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