■2


 出来るだけ花を踏みつけないように歩きたいのに、巧く行かない。そんなユッドの隣を、リュカは苦笑しながら追い抜いていく。白い花畑の中をそよ風のように歩いていく少年の後姿は、まるきり存在や重力を感じさせず、風のように見えた。
 「そんなに笑うなよ。これでも精一杯歩いてるんだから」
 「急がなくても大丈夫ですよ。竜人族<ドラグニス>はまだ遠いですから」
 「ドラグニス?」
あまりに自然な口調だったので、草の間から足を引きぬこうとしていたユッドがその意味を理解するまでには少しの間があった。
 「…それ、竜人族のことだよな? まだ、って他にもいるのか? さっきの以外に。どうやって判る?」
 「自分の領界の近くのことは、ある程度まで感知できるんです。前から時々、川を越えて偵察しに来てるんですよ」
そう言って、少年は視線を遠くに向ける。
 「ただ、数日前から妙に数が多くなってます。それで警戒していたところに、丁度、ユッドが逃げ込んで来て」
 「……。」
ユッドは、途中で分かれた年長の兵士のことを考えていた。もう少しこの辺りを見回りしてから砦に戻る、と言っていた。この戦争の初期から砦に詰めている熟練の兵士で、自分などよりはるかに経験と機知に富んではいるものの、そのぶん年齢もずっと上だ。
 「カリムの爺さん…無事だといいけど」
 「仲間ですか?」
 「ああ、先輩みたいなもんかな。俺は新米だから、色々教えてもらってた。この辺りには馴れてるはずだから、大丈夫だと思うんだけど…。」
足元の草を掻き分けると、白い蝶々が舞い上がり、ひらひらとどこかへ消えてゆく。長閑な風景だ。ついさっき死に掛けたことがまるで嘘のように。
 リュカは、風が揺らす草葉のようなかすかな吐息の音のまじる妖精族の言葉を織り交ぜながら話しかけてくる。話し慣れているようではなかったが、人間の言葉を話すのにそれほど苦労している様子はない。
 「人間族<ヒューリット>が作った高台のすみかのことは知ってます。ユッドは、そこから来たんですよね」
 「ああ、そう。ルーヴァ川のほとりにあって、もう二十年近く竜人族とやりあってる前線なんだ。」
 「戦いの状態は? 芳しくないんですか」
 「報告じゃ膠着…つまり勝っても負けてもいない、ってことになってるけど、実際は追い込まれてるよ。最近、すぐ南にあるレグナス砦が落とされた。連中の行動範囲は年々広がってる。ルーヴァ川まで越えて来るようになったとあれば、この辺りが戦場になるのも時間の問題かもしれない」
それは、ユッドが任地に訪れたまさにその時、司令官たちの間で白熱していた議題でもあった。"このままでは、前線が持たない。"もっと増援を呼ぶべきではないのか、と――。
 「ずっと不思議に思っていました。竜人族<ドラグニス>は闘争心が強いために大きな群れを作ることはない種族だったはず」
言いながら、リュカは小さく首を振った。雨に濡れた森の緑のような、鮮やかな色の眸が煌く。
 「それに寿命も短い。せいぜい三十年、人間<ヒューリット>の半分ほど。知能はともかく、文化レベルは低かった…。どうして急に大きな群れを作って、攻めてくるようになったのか。ずっと戦ってきたなら調べているんでしょう? 何か、判ることはありますか」
 「うーん…。そのへんは都の学者連中もあれこれ議論してたと思うけど、結局、答えは出てなかったと思う。妖精族のあんたに分からないんなら、尚更、俺たち人間に判るわけがない」
 「ほとんどの妖精族<フィモータル>は、ほかの種族にあまり興味を持たないんですよ。それにこの辺りは竜人族<ドラグニス>の本来の住処からも遠いし、彼らに関する知識は人間族<ヒューリット>と変わりません。」
涼しげな音を立てて流れる細い小川をふわりと飛び越えるリュカに続いて、ユッドも、不恰好に水の流れをまたぐ。さっきまでとは風景が変わった。風の匂いも。
 (領界の外に出た、ってことか)
周囲を見回しながら彼はそう思った。ここはもう、妖精族の領域ではない。人の住む世界だ。だとすれば、目指していたルーヴァ川まではもう少しのはず。そう思いながら振り返ると、少年が、足を止め、強張った表情で視線を天に向けていた。
 「どうした?」
 「弱いけど、近くに同族の気配がします」
言いながら、彼は周囲を見回した。「…こっちだ」
 「仲間ってことか?」
 「ええ、でも、近くの領界から来たわけではなさそうですね」
言うなり、リュカは何の前触れもなく軽々と跳躍した。一瞬、空を飛んだのかと思うほどの高さで。ユッドは、思わずぽかんと口をあけて、美しい放物線を描いてはるか視界の彼方に下りてゆく姿を見つめていた。それから、数秒遅れて慌てて追いかける。
 「ちょっ…待てよ!」
幸い、少年の姿はそれほど遠くには行っていなかった。草をかきわけるようにして追いついてみると、リュカは草の中で白っぽいぼやけたものの上に屈みこんでいる。
 (何だ、これ…?)
人の形はしているが半透明で、白い靄のようにも見える。リュカが顔を上に向けさせたので、それが真っ白な髪と肌を持つ、おそらく妖精族の女なのだと気が付いた。
 「……。」
リュカは、さっきまでユッドに話しかけていたのとは全く異なる言語で女に何かを囁いている。たぶん、妖精族本来の言葉だ。
 「……?」
女が薄っすら眼を開けた。眸の色は薄い緑だ。銀色の輝く水滴のようなものが、きらきらと零れ落ちた。
 血だ。
 妖精族の血は銀色をしている、と聞いたことがある。それが本当なのだと、ユッドはその時はじめて知った。
 リュカと女の間でやりとりが交わされ、女は静かに眼を閉じた。リュカが頷いて銀色の血を流す傷口に手を翳す。手が白く輝くと、傷口が塞がっていく。
 (さっき俺にやったことか?)
妖精族の持つ不思議な力を目の当たりにして、ユッドはしばし我を忘れて立ち尽くしていた。
 だが、静寂はそう長くは続かなかった。
 「!」
リュカが小さな声を上げて振り返る。「ユッド、屈んで!」
 「え? かが…」
ビュッ、と耳元で空を切る音。はっとして振り返った彼は同時に、低い唸り声と、地を踏み荒らすような重い足音を耳にした。
 竜人族。
 「その人を先に領界の中へ!」
風のようにリュカが脇を通り過ぎる。いつの間に抜いたのか、見慣れない輝きの剣を手にしている。向かってくるのは、人間の頭ほどもある石を結わえた鈍器を手にした巨体の竜人で、もう一体の小柄なほうは弓矢を手に、口から黒い舌を垂らしている。小柄なほうでさえ、人間の大人をゆうに上回る体格だ。それなのに、少年は臆した様子もなく武器を手に迎え撃とうとしている。対するユッドのほうは、迫ってくるのを見ただけでもう、膝が震えて前に出ることも出来なかった。剣にかけたままの手は痙攣して、武器を抜くことさえ敵わない。
 (何でこんな…こんな…、オレは…)
英雄にはなれない。判っていたけれど、敵を前にして、まさかこれほどまでに動けないとは。
 「早く、その人を!」
リュカが再び、背中ごしに叫んだ。頷くしかなかった。唾を飲み込んで、ユッドは足元の白い女の体を抱え上げる。長い髪がふわりと地面まで垂れた。驚くほど軽い。それに、――ぬくもりが感じられない。
 「こっちは大丈夫だ、無茶すんな!」
けれど、リュカには聞こえていないようだった。
 次の瞬間、見えたのは、ユッドにとっては信じがたい光景だった。
 大柄なほうの竜人<ドラグニス>が武器を振り上げた瞬間、少年は、大きく跳躍した。そして武器を交わすと、上空から、竜人の首筋めがけて黒い鋭利な剣を叩き降ろしたのだ。竜人がぐらりと前のめりになると、その背を蹴って勢いを乗せ、驚いて矢を向けるのが遅れたもう一体の首も横なぎにする。
 (な、…)
 時間にすれば、ほんの数瞬。
 再び少年が跳躍したとき、二体の竜人たちは首から鮮血を迸らせながら、どう、と地面を揺らして崩れ落ちていた。
 (こんな簡単に…?!)
リュカが、くるりと宙で一回転して音も無く地面に降り立つのが見えた。そうして彼は、息一つ乱さないまま、何事もなかったかのように、体格に見合った小ぶりな剣を腰に収め、こちらに歩いて戻って来た。
 「だい…じょうぶなのか?」
 「このくらいなら」
何事もなかったかのように答えて、彼の視線は、ユッドが肩に担いだ白い女に向けられた。
 「ここ数日うろついていた竜人族の狙いは、この人だったのかもしれない。ずいぶん弱っているけど、まだ間に合う。領界に連れていけば…」
リュカは顔を挙げ、申し訳無さそうに彼の方を見た。
 「運ぶのを手伝ってもらうことは出来ますか?」
 「構わないけど…いいのか? オレ、人間だけど」
一瞬の間。
 「あ、いや、領界に人間を入れたりして他の妖精族に怒られたりしないのか? ってことで」
 「ああ。」
リュカは、意味ありげな微かな笑みを浮かべた。「その心配はないですよ。ここに住んでるのは僕一人なので」
 「え、そう…なのか?」
 「近道しましょう、こっちです」
聞き返す間もなく、リュカは、身軽に草むらを飛び越えていく。ちらりと空に視線をやったユッドは、西へ傾きつつある太陽を見やった。さっきのリュカの口ぶりからして他にも竜人族が居そうだし、馴れない道を夜間に一人で動く気にはなれなかった。
 砦に戻るのは、明日になりそうだった。



 領界は妖精族の住むいわば「ナワバリ」のようなもので、そこに住む者に招かれない限り中に入ることはできない。無理やり入り込もうとすると、二度と戻ってこられないこともある――。
 そう聞いていただけに、花畑を越えて森に入る時には緊張していたけれど、実際は拍子抜けするくらい簡単で、特に何も起きなかった。けれどその先には、信じられないほど深い、恐ろしく巨大な森が広がっていた。
 すべての木々が齢千年をゆうに越えていそうな太さ。苔むした岩が転がる崖のような斜面に絡まる木々の根はまるで生き物のようで、その間を涼やかな音とともに流れ落ちる幾筋もの小川は、細い白糸を無数に垂らしたかのようだ。地平線の向こうに去り行く太陽の日差しは、分厚い緑の天井を越えてくることはできず、足元はすでに暗い。それでも不思議と明るく開放的な雰囲気があるのは、木々の多くが真っ直ぐ高く空に向かって枝葉を伸ばし、その合間に白い、昼間の輝きをたたえた名も知らない花々が揺れているからだ。
 これが、妖精族の住む領域。
 確かに木々の後ろから絶世の美女がふわりと現われてもおかしくないような、この世ならざる場所だった。水の流れと、光と、緑。不思議と居心地がよく、拒絶されている感じは全然しない。それは、森の住民の心を反映してのことだろうか。
 「着きましたよ、あそこです」
先を歩いていたリュカが足を止め、木立の奥を指差した。岩の間に扉が取り付けられているのが見える。
 「地下世界への入口?」
 「まさか。」
くすっと笑って、少年はドアを引いた。「入口は少し屈んでくださいね。頭をぶつけないように」
 中に広がっていたのは、驚くほどごく普通の"居間"だった。
 床に敷かれた簡素な絨毯と、机と椅子。振り返ると台所らしき場所が見え、見上げると、岩をくりぬいて作った高い丸天井の上の方にハンモックや籠が吊るされている。ランプに削りかけの丸木とナイフ。それに繕い途中のマント。
 「ここの長椅子に寝かせてください」
言いながら、リュカは椅子の上にかけたままになっていた上着を取り上げた。「散らかっててすいません」
 言われたとおり女を寝かせながら、ユッドはなおも視線を巡らせていた。
 「なんか…普通に…、家だな。あんた、ここに住んでるのか?」
 「ええ」
 「妖精族ってのは、お花畑とか木の上とかで寝てるもんかとばかり」
ユッドが言うと、リュカは苦笑した。
 「毎日が晴れなら、木の上で寝てもいいんですが。よその領界のことは知らないですけど、ここは昔からずっとこうですよ」
 「ふーん…意外と、オレたちとあんまり変わら――」
 「…うう」
振り返ると、ちょうど女が頭を抑えながら起き上がるところだった。不安げに周囲を見回し、リュカに視線を止めると、困惑したような口調で何か呟いた。ユッドには分からない言葉でリュカが答え、ちらとユッドのほうを見て人間の言葉に切り替えた。
 「ここはサウィルの森。彼はユッド。ここまで、この人が運んでくれたんですよ。」
 「……。」
真っ白な長いまつげをしばたかせ、女は、うさんくさそうにじろじろとユッドを見回した。が、すぐに視線を逸らし、ユッドのほうに向き直ると床に膝をついて何か言いながら頭を深々と下げた。
 「え? いや、大したことはしてないですよ」
女は構わず床につくほど頭を下げ、ひたすら何か言っている。リュカは困った様子だ。
 「…何て言ってるんだ?」
 「大したことは。お礼を言われてるだけなんですが」
 「おい人間」
女は、いきなりぎろっとユッドをにらみつけた。妖精族の言葉ではない。ユッドにも判る、人間の言葉だ。
 「さっきから無礼極まりないぞ。誰に向かって言っている! この方は、ここの領界主<ファリア=エンダ>様だ」
 「ファリア…何?」
 「領界主<ファリア=エンダ>も判らんのか、無知者め。領界主<ファリア=エンダ>は、領界<ファリア>の主だ! つまり、ここを総べておられるお方だ。領界を育み、存続させる心臓そのもの」
 「いえ、あの、…この領界は、最近受け継いだばかりなので…。」
慌ててリュカが言う。
 「それより、話を聞かせて欲しいんです。」
リュカに言われて、女は、慌てて居住まいを正した。立ち上がると、女は――身長は、リュカやユッドよりずっと高い――容赦なくユッドを見下ろしてきた。真っ白な髪は足首に届くほど長く、身につけている薄い衣の下からは象牙のようななめらかな白い肌が覗く。黙って立っていれば美女なのだろうが、ユッドに向けられるあからさまな敵意や拒絶感は、リュカとは全く違っている。
 (こっちが本来の妖精族の反応…。学校で聞いた話のまんまだ…)
髪も服も真っ白で古風な"美女"。それに、気位が高きて気まぐれで、人間とは相容れない。まさに"そのもの"の存在を前にして、ユッドにはやはり、もう一人のほうが妖精族らしくないと思えた。けれど、そのもう一人のほうが、妖精族としては「位が高い」らしいことは、二人の会話と態度からして何となくわかる。
 「あなたは何処の領界から来たんですか? 名前は? なぜ竜人族に追われていたんですか。」
リュカに問われて、女は、唇を嚙んだ。
 「…名は、フィリメイア。本来の住処はローウェ・オアシスだ。そこが私の領界<ファリア>だった…失われた。奴らに奪われた。二週間ほど前のことだ」
 「"奴ら"?」
 「竜人族<ドラグニス>。」
 「有り得ない」
声を上げたのは、ユッドだった。「妖精族の領界ってのは他の種族を拒む絶対の結界じゃないのか? だからこそ、人間も竜人も領界には決して手出ししない。そう聞いてる――」
 「それは人間族<ヒューリット>の思い込みです」
と、リュカ。少し悲しげな顔をして、視線を窓のほうに向ける。「妖精族<フィモータル>は…清らかな水とともにしか生きられません。水源が汚されたり、水を断たれたりすれば、領界は失われる。過去、人が川の流れをせき止めたり、町を作って地下水を汚したりしたことで幾つもの領界が失われてきました」
 「小さな領界ほど人間の影響は受ける」
 「……。」
 「私のオアシスも、そんな小さな領界の一つだった。人間どもは家畜を連れてぞろぞろやってきては水場を汚して去って行く。それでも数はそう多くは無かったが。人間どもが通り過ぎたあとはいつも掃除が大変で…あの日も後始末をしていたら、人間どものあとから竜人族<ドラグニス>が押し寄せてきたんだ。あっという間の出来事で、何が起きたかも分からない。気がつけば、近くのオアシスにいた仲間も皆いなくなっていた」
女は腹立たしげに足を組んだ。ユッドは女の高さが変わっていないこと、――つまり足を組んだまま元の位置に浮かんでいることに気づいたが、思わず上げそうになった驚きの声を我慢して飲み込んだ。今は、話の腰を折っていい場面ではない。
 「汚されたオアシスを…仲間の消えた水場を点々として逃げた。東の方へ、荒野を越えて…それで、ここまで来たんだ」
浮かんだまま、女は大きな溜息をついた。「…新しい住処を見つけるにしても、どっちへ向かえばいいのかも分からない」
 「新しい領界を作るまで、ここに住んでもいいですよ」リュカは女を見上げて同情したような口調で言う。「荒野のオアシスとでは勝手が違うと思いますが、広さなら十分ありますし。」
 「お心遣いは感謝する、しかし――」
胡散臭そうな目で、ちらりとユッドのほうを見る。
 「あー、えっと…。オレは別に、ここに住んでるわけじゃないから。」彼は慌てて言った。「帰る途中だったんだ。その、明日には砦に戻る」
 「ふーん…」
何か言いたげな顔でユッドをじろじろ眺め回したあと、納得がいかないという表情で、小さく呟いた。「ま、領界<ファリア>の掟は、そこの領界主<ファリア=エンダ>の決めることだから…」
 リュカは、何も言わずに曖昧な微笑みを二人に向けた。
 やがて、彼は話を打ち切るように、静かに言った。
 「フィリメイア、この先に森の水源があります。体力を回復してきては?」
 「水源?!」
女は眼を輝かせた。「行って来ます!」言うが早いか、飛ぶように、いや、文字通り"飛"んで、小さな窓を擦り抜けるようにして外に飛び出していった。ユッドがぽかんとしているのを見て、リュカはくすくす笑う。
 「そ、そんなに笑うなよ。その…。妖精族なんて、見るの初めてなんだしさ…」
 「人間に比べれば数が少ないですしね」
ちょっと肩をすくめて、フィリメイアの擦り抜けていった窓に近づいていく。外はもうすっかり夜になっている。木々の生い茂る森の中には夜行性の動物たちの声が響き、涼しい春の夜風が流れこんでくる。それに混じって、かすかに、あの花の香りがした。
 「なあ、さっきの話だけど。ここに住んでるのは本当にあんただけなのか? こんな広い森なのに」
 「ええ。領界に領界主<ファリア=エンダ>しかいない、というのは珍しく無いですよ。妖精族<フィモータル>は寿命があってないようなものなので、人間ほど頻繁には増えないんです」
 「ああ、そうか。あんたも、人間よりはずっと年上なのか」ユッドは頭をかく。「いや、悪い。つい見た目通りなつもりで話してた。そうだよな、何千年も生きるっていう種族じゃ、家族はどうしてんのかとか聞いてもしょうがないか」
 「……。」
僅かな沈黙。それから、リュカは、それとなく話題を変えた。
 「フィリメイアの言ったことが気になってるんです。領界が竜人族<ドラグニス>に奪われた、という話。オアシス、と言ってましたが…、この近くの地名ではないですよね? 場所は判りますか?」
 「ああ、ちょっと待ってろよ。えーっと…」
言いながら、ユッドは肩に提げていた革鞄の中を探った。この辺りの地形の簡易地図は、斥候に出る時に受け取っている。丸めて防水紙に包んでいた包みを探り当てると、彼はそれを、部屋の真ん中の丸テーブルの上に広げた。
 「これは…話に聞く、地図、とかいうものですか」
リュカは興味深そうに図を眺めている。
 「そうだよ、妖精族はこういうのは使わないんだっけ? 見方を説明するとだ、この細長いのがルーヴァ川。この×印が俺の来た砦。で、こっちが街道。あと近くの村、今いるこの森は…、これだな。」指で、次々と図の上をなぞっていく。「で、オアシスってのは、多分――この、地図のはしっこに切れてる荒野の向こう。ここに、ほら。ユヴェールって書いてあるだろ」
 「…人間の文字は読めないんです」
 「あ、そうか。えーっと…ユヴェールっていうのは、海の国。荒野の西側にあるでかい国だよ。オレたちのいる東側にも幾つか国がある。荒野はその間にあって…南のほうから竜人族が北上してくる通り道にあるんだ」
地図にない場所は、指で机の上をなぞるようにして説明する。真剣な眼差しで見つめているリュカを見ていると、つい、相手が人間でないことを忘れてしまいそうになる。思いのほか居心地のいい、この家のせいもあるかもしれない。
 「今まで、竜人族<ドラグニス>が妖精族<フィモータル>と戦った話は聞いたことがありません」
 「ああ、オレも聞いたことないな。けど、さっきのフィリメイア、だっけ? あの妖精族が言うんなら、正しいんじゃないか」
 「だとすると、今までに起きたことのない事象が起きています。人間ならともかく、妖精族<フィモータル>の領界は、竜人族<ドラグニス>が力技で破れるものではないはず…――」
少年は、口元に手をやった。「一体どうやって? そんなことが可能なら…もしも、他の領界も同じように攻撃されていたら…」
 「まさか。あいつら、人間だけじゃなくて、あんたら妖精族まで敵に回すつもりだっていうのか」
 「妖精族<フィモータル>はあまり纏まって行動しないんです。遠くで何か起きていても、自分の"領界"に関係なければ、気づきようがない…」
 「……。」
 「説明をありがとう、ユッド。そろそろフィリメイアの様子を見てきます。休むときは、そこの長椅子か、上のハンモックを使ってください。」
言い残して、リュカは入口から歩いて外に出て行った。一人残されたユッドは、しばしどうするか悩んだあと、天井近くに揺れているハンモックのほうを試してみることにした。
 もう外は真っ暗だ。
 それなのに、灯りもない家の中は足元が見えるほどの明るさで、ユッドの目でもどこに何があるのか見分けがつく。それがどうしてなのかに気づいたのは、ハンモック目指して壁のハシゴを登り始めた時だった。部屋の四隅に目立たないよう、明るい輝きを放つ石が埋め込まれて、その光が壁に反射して家の中を明るくしているのだ。
 (本当に人間の家みたいなつくりなんだな、ここ)
そのお陰か、異界に迷い込んだ不安はない。木の弦で編んだハンモックに滑り込むと、どっと疲れが押し寄せてくる。官給の派手な色をした上着を脱いで枕代わりに畳みながら、彼は思わず溜息をついていた。
 (はあ、今日は色々ありすぎた…)
竜人に毒矢で殺されかけ、妖精に命を救われただけでも、一生分の経験を一日でたしたような気分だ。それどころか妖精と竜人の戦いを目撃し、領界に招かれ、妖精族の家に泊めてもらうことになるとは。
 (明日、砦に帰ったらカリムの爺さんに自慢できるな。明日には…帰…れる…)
瞼が落ち、思考が途切れる。
 深い眠りに落ちてゆくユッドの側を、銀色の輝きをまとう蝶が一匹、壁をすりぬけて、ふわりとどこかへ消えていった。


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