17 Interlude 〜 アイユールの丘


 薄暗がりの中で、ふと気配に眼を覚ます。視線だけを向けると、少女が壁の窪みのランプに油を足そうとしているのが見えた。白い横顔には、青い瞳だけが見えている。泣いているように見えた。
 ユッドは、全く気づかずに深く眠り込んでいる。微かな衣擦れ以外は音も立てずに、作業を追えた少女は油さしを手に、すべるように部屋を出て行く。リュカはそっとベッドを抜け出し、後を追った。真っ暗だが、ランプの油が切れ掛かる時刻なら夜明け前だろう。地下の岩の裂け目は水の流れ落ちる音だけで静まり返っている。最初に案内された広間のような場所にも母娘の姿はなく、白い影のような少女以外に誰もいない。影は途中で立ち止まると、手にしていたものを置いてから、外に続く道の方へと歩いていく。冷たい夜明けの風が、裸足の足元を吹きぬけていく。
 視界が開けた。
 空はまだ暗く、乳白色の霧が丘の周囲を包み込んでいる。岩陰に馬が二頭つながれて、首を垂れて眠っている。リュカが後ろをついてきていることにはとっくに気づいているはずなのに、小柄な少女は振り返りも、立ち止まりもせず、視線を合わせようともせず、黙々と仕事だけをこなしていた。飼い葉桶と水桶の中身を確かめ、まだ眠っていたそうな馬には触れずに、リュカの脇をすり抜けて立ち去ろうとする。
 思わず、その腕を掴んだ。びっくりするほどその腕は冷たく、見た目よりずっと細い。一瞬だけ、はっとしたように視線を上げたものの、少女はすぐに顔を伏せた。
 「待って。君も領界主<ファリア=エンダ>の娘?」
 「……。」
返事は無い。
 「名前は?」
 「……。フィルダーナ」
か細い、消え入りそうな声だ。少女がひどく怯えているのに気づいて、リュカは手を離した。
 「ごめん、何かするつもりじゃ…。フィオーネが何も言わなかったから、気になってたんだ」
フィルダーナと名乗るこの少女が、娘たちの中で一段劣る扱いを受けているのは間違いない。名も呼ばれず、視線もくれられず、裸足のまま夜明けから使用人のように働かされているのだから。けれど、一体何故なのだろう。たとえ実の親でも、領界主とのそりが合わなければ、自分の領界を得るために旅に出ることがあるのは、リュカも知っていた。
 「わたし、嫌われてるから」
少女は、自分の青い瞳に手をやりながら、ぽつりと言った。「この目のせいなの。気にしないで」
 「目の?」
 「似てないの。髪も…肌も」
言いながら、少女は母とは違う僅かに縮れた髪を、ぎゅっときつく握りしめた。「わたしは醜い。見ないでください」
 「そう言われたのか」
 「……。」
沈黙。少女の手に、明るくなってゆく空の下、うっすらと殴られたようなあざがるのが見えた。リュカは、困ったように頭に手をやった。こんな風に俯いて、小さく縮こまったまま生きている妖精族がいるとは思ってもみなかった。
 「君は、醜くはないよ。可愛いと思うけどな」
 「…?」
 「本当だよ。青い瞳も綺麗だと思う。髪が少し縮れてるくらい気にならないよ。…僕なんて、しょっちゅう人間に間違われる」
顔を上げ、フィルダーナはおそるおそる口を開く。
 「わたしも、最初は人間かと思った」
 「だろう? 多分、母<マール>がそんな風に作ったんだ。人間とうまく話せるように、って。」
 「…だから、人間と旅をしてるの?」
リュカは、頷いてみせる。少女の視線が、ふいに遠くに向けられた。
 「旅、いいな。わたしは、ここしか知らない。草原の向こうへは行けない。人間は怖い…」
風が抜き抜けていく。
 リュカが口を開きかけたとき、それより早く、少女が息を呑んで体を震わせるのが判った。夜が明けつつある空の下を凝視している。風とともに流れてくる気配が、リュカにも感じ取れた。
 「…竜人族<ドラグニス>!」
そう遠くは無い場所。まとまって移動しようとしている。数は…、数が多い。嫌な予感がする。彼は、急いでフィルダーナに告げる。
 「馬の準備をしておいて。ユッドを起こしてくるから!」
そして、丘の地下へと元来た道を駆け戻った。敵の群れが向かう方角は、この丘ではなかった。
 あの方角は――レスカトーレだ。


<前へ表紙へ次へ>