■16


 少女は何も喋らず、近づいてきた二人を丘の地下へと視線だけで誘った。地下と言うのは、文字通り丘の地下で、判りづらい場所に岩の裂け目が通路のように地下深くに繋がっているのだった。
 「…この、中?」
振り返って、少女は頷いた。小枝のように細い手足に、わずかに縮れた肩までの短い髪。リュカと同じか、それよりにも少し年下くらいの姿をしているが、妖精族の年齢は見た目からでは想像がつかない。何かに怯えたような視線が一瞬だけリュカのほうに向けられ、直ぐに逸らされた。片方の瞳は金、もう片方が青。
 (珍しいな、オッドアイか…)
少女の裸足が、ぺたぺたと青灰色の岩の表面を踏んでいく。馬は、裂け目の入り口に繋いでおくしかなかった。暗い通路はどこまで続いているのかわからない。リュカのほうを見ると、彼は、顔を上げて頷いてみせた。これが意図した訪問ではなく、招かれたのだということはユッドにも何となく判っていた。竜人族が潜む中で夜を過ごすよりは、妖精族のもとで一夜の宿を借りるほうが、ずっといい。
 やがて、岩の隙間に反響するような水の音が響いてきた。地下水脈だ。
 それとともに、どこからか、くすくすと女たちの笑い声が響いてくる。
 『ようこそ、アイユールの丘へ。』
 『ようこそ』
 『ようこそ』
艶やかな声、甲高い声、媚びるような声
 「久し振りの旅人じゃの」
 「人間の若い男」
 「妖精族もいるわ。男は珍しい」
 「でもまた幼い」
鈴の鳴るような笑い声が三重奏となって聞こえる。目を凝らすと、ぼんやりとした光の中に幾つもの白い影が重なり合っていた。狭い岩の裂け目は広間のような空間に繋がっていた。水は、その空間を流れ落ちているようだった。リュカが一歩、前に進み出る。
 「お招きいただき、ありがとうございます。アイユールの領界主<ファリア=エンダ>殿。僕はサウィルの森のリュカ。こっちは友達のユッド」
それから、妖精族の言葉で何か付け加えた。
 薄暗がりに目が慣れてきて、ユッドにも、そこにいる三人の妖精族がはっきり見えるようになっていた。そう、三人だ。全員、象牙のような白い肌に、金色に輝く瞳をしている。長い髪は水のように肩や足を流れ落ち、もたれかかっているクッションのような大きな岩を覆い隠している。端正な顔立ちには、三者三様の表情が浮かんでいた。中央にいる、一番年かさの、だが妙齢の豊満な女性は目を細めてこちらを値踏みするように、その左右にいる姉妹らしき少女たちは、笑いあい、囁きあいながら、好奇の眼差しをちらちらと向けてくる。
 ちらと脇を見ると、ここまで案内してくれた小柄な少女は、背景の一部に徹するかのように押し黙り、体を小さくして影に潜んでいる。
 「私はフィオーネ」
ようやく、中央の婦人が口を開き、名乗った。「こちらは娘たち。フィリンナと、フィレーラ」…もう一人の、背景となっている少女の名は、呼ばれないままだ。
 「外の世界の話を聞かせておくれ。汚らわしい竜人族<ドラグニス>は、まだ近くにいるの?」
 「ええ」
リュカが答える。妙に緊張した声だ。「僕たちが追いかけてきた敵です。この近くには、以前から?」
 「うむ」
フィオーネが肉付きの良い体を揺らしながら頷いた。隠すところの少ない服のせいで、僅かな動きでも肌があらわになり、目のやりどころに困る。
 「あの手この手を使って、この領界<ファリア>を落とそうとしておるのじゃ。」
 「…ここを? なぜ」
 「知れたこと。あやつらにとっては、人間族<ヒューリット>同様に妖精族<フィモータル>も邪魔だからじゃよ。奪った土地を自分たちのものとしたい。ことに、この平原は岩陰も多くてあやつらには住みやすく映るのじゃろう」
その口調からするに、竜人族は、つい最近この辺りにやってきたわけではなさそうだ。思わず、ユッドが尋ねる。
 「そんなに長いこと竜人族がウロついてたのに、人間は誰も気がつかなかったのか?」
女性は、うっすらと笑みを口元に浮かべた。
 「この丘の周辺には、人間族<ヒューリット>は近づかぬゆえにな。わらわたちは、昔から"どういうわけか"、人間族<ヒューリット>どもに恐れられてきたのじゃ」
くすくすと、左右の娘たちがいたずらっぽく笑う。
 「惑わしの霧」
 「帰らずの平原」
それから、妖精族の言葉でリュカに向かって何か言った。
 「……。」
リュカが何か言いたげな顔をしたが、実際には黙ったまま。
 「数は?」
代わりに、ユッドが続ける。
 「さあてな。近づいてくるのは、いつも五匹かそここらじゃが…。どこかに巣でも作ったかもしれんな。無論、我が領界<ファリア>からは離れた場所に。」
言葉を切って、白い手を差し上げひらひらと振る。「さ、今はおつかれじゃろう。少し休んでこられよ。案内させる」
 壁の一部と化していた少女が、案内する、というように、再び二人の前に立った。顔立ちはフィオーネの娘たちに似ているのに、こちらはまるで人形のように無表情で、一言も喋らない。リュカが歩き出したので、ユッドも、それ以上の質問は我慢して後に続いた。広間のような空間からさらに奥、通路になった岩の裂け目の奥に、綺麗に整えられた部屋がある。それは、高級な宿のような立派な家具調度のそろった部屋だ。
 妖精族の住処というから、てっきり草のベッドでもあるのかと思っていたユッドは驚いた。
 床に敷かれた分厚い絨毯の上にはクッションが何重にも積み重ねられ、壁の窪みの置いたランプが部屋の中をぼんやりと照らし出している。洒落た模様のあるテーブルの上には銀の杯とワイン入りのガラス瓶。そして、果物を盛りつけた籠。古めかしく上等な椅子。大きなソファに、ベッドもある。ぽかんとして、彼はしばらく部屋の入り口に佇んだままだった。
 「待って」
何も言わず、そのまま出て行こうとする少女を、リュカが呼び止めた。片方ずつ色の違う瞳が、かすかに動く。
 「外にいる馬に、水と草をやってくれる?」
 「……。」
黙ったまま頷いて、少女は、音もなく風のように出て行ってしまった。
 「すごいな、まるで宮殿だ。」
ユッドは、少しはしゃいでいた。「これが地下だなんて思えない。驚いたな、妖精族って本当はこんな暮らしをしてるのか。リュカのとこも人間っぽいなと思ってたけど、こっちは――」
 「これは、ちょっとやりすぎですよ。」
溜息をつきながら、リュカは椅子を見下ろした。「それより、どう思います? フィオーネの話。竜人族がこの領界を狙ってるなんて」
 「有り得ない話じゃないとは思う。ここが手に入れば人間に気づかれない絶好の攻撃拠点になる。妖精族の住処は必ず水があるわけだし、あいつらだつて生きていくのに水は使う」
 「だとすると、マリッドの町が襲われたのもそのせいなんでしょうか? 人間の町ではなく、ラーフィーのほうが本当の目的だったんだと…。」
水となって消えてしまった妖精族のことを語るとき、少年の表情は悲しみを思い出すように僅かに翳る。
 「それに、あの不気味な竜人族のことも。あれは人間ではありませんでした。見た目はともかく…気配は、完全に竜人族だった。」
 「ああ、そうだった。あんなのがいるなんて聞いたことがない。おまけに、人間の言葉も話してた」
絨毯の上に腰を下ろしながら、ユッドも考え込む。
 「人間の言葉…。そうだよな、人間と取引が出来るんなら、人間の言葉が喋れる奴がいたっておかしくはない。人間のほうが竜人族の言葉を話すのは無理だろうし」
あの人間に似た姿をした竜人が、武器商人との取引をとりまとめていたのだろうか。人間の言葉を翻訳して、"人間の知恵"を使って、妖精族の領界や人間の砦を攻める指揮を取って、――だとしたら、あの竜人は、一体"何者"なのか。
 「何とかして、あいつの正体を探らないとだな…」
呟きながら何とはなしにもたれかかったクッションの山が思いのほか気持ちよく、ユッドは、思わず目を閉じた。体が柔らかい山の中に埋もれて行きそうになる。今までに眠ったどんな宿のベッドよりも、実家の寝床よりも上等で、肌触りも良く、完璧だ。
 「それにしても、リュカのところ以外にも人間を領界に入れてくれる妖精族がいたとは思わなかったな」
仰向けになったまま、彼は、なんとはなしに呟いた。「ちょっと派手だけど親切な人たちじゃないか。」
 「いえ…多分、ここは…」
リュカが口ごもる。
 「…今夜は、気をつけていたほうがいいと思います。眠りすぎないで下さいね」
 「え?」
思わず目を開けて起き上がる。
 「食べ物や飲み物は、あまり口にしないほうがいいですよ。妖精族<フィモータル>の持て成しは、…少し、変わっている」
少年は、何か言いづらそうな顔をして椅子から立ち上がると、出入り口にかかっていたドア代わりの布に手をかける。
 「?」
謎めいた言葉とともに外に出て空く。
 首を傾げていたとき、リュカが出て行ったばかりの布が音もなくまくれあがった。盛装した少女たちが壷を抱えて風のように部屋の中に舞い込んでくる。まるで、邪魔者がいなくなるのを見計らっていたかのように。
 「こんばんはぁー。お邪魔しますね」
 「すこし、お話してくださらない? 外のお話を聞かせてくださいな」
くすくすと笑いながら、いいともいわないうちにユッドの両脇に腰を降ろす。帯につけた鈴が涼やかな音をたて、あらわな白い肌が容赦なく目の前に迫ってきた。
 「うわ、ちょ…」
 「うふふ、さあ一杯どうぞ。一族秘伝の蜜酒ですのよ」
 「外の殿方が来るのは久し振りなんですの。くつろいでいらして」
白い腕がうろたえているユッドを力もかけずに容易く押さえつけ、腰から剣を取り上げ、ブーツと上着を脱がせる。気がつくと、黄金色のとろりとした液体の入った杯を手に持たされていた。甘い、頭の芯が痺れるような香りがする。美しい風貌を持つ少女たちが、左右からしっとりと体をもたせかけてくる。
 「ねえ、あなたは兵士? そうでしょう、引き締まった腕をしているわ」
 「戦場に出たことはあるの? 戦いは辛い? あたしたちが忘れさせてあげましょうか」
聞いたことも無い甘美な響きを持つ魅惑的な声か囁きかける。クッションの谷に埋もれて身動きが取れない。このまま、身を任せていたら…
 白い腕がユッドの首に回された。細い金色の瞳が近づいて来る。
 ――その一瞬、脳裏にキッと睨みつけるような、大きな別の瞳が閃いた。
 はっとして、ユッドは反射的に腕を振りほどいていた。そのはずみで杯が転がり落ち、金色の液体が絨毯の上に零れ落ちる。
 「あ」
しまった、と思うのと同時に、甘い香りが遠ざかってゆく。
 「あーあ、失敗ね」
すぐ近くで聞こえた、いかにも残念そうな声は、さっきまで聞いていた甘美な響きを失っている。少女たちはユッドを睨みつけると、ふいとそっぽを向きながら立ち上がった。
 「あの子に聞いたのね」
 「あの子は同族だもの、気がつくわ。仕方ない」
 「残念ね、若くて好みだったのに」
 「そうね、残念」
 「な、…何の、ことだ?」
ユッドは慌てた。そして、立ち上がろうとして、ズボンのベルトがいつの間にか外されていることに気づいて真っ赤になった。
 「お、お前たち、何をするつもりだったんだ?!」
 「決まってるでしょお? 妖精族の領界に男が招かれる時は――そういうコト」
 「初めてだったの? なら、黙って従ってくれれば優しくしてあげたのに」
少女たちは――いや、少女の姿をした妖精族の女たちは、もはや純真そうな仮面を捨て去っていた。
 「最近じゃ、滅多に若い男がかからない。楽しく遊べると思ったのに」
 「つまんない。久し振りの男だったのに」
 「あんたたちは…妖精族なんだろ?! オレは、人間だぞ!」
 「だから?」
 「妖精族は…その、そういうのは同族とやることじゃないのか?!」
女たちは、首を傾げる。
 「どうして?」
 「あたしたち、子供が欲しいわけじゃない。遊びたいだけ」
 「妖精族に男は滅多に居ないし、居ても気難しい」
 「人間としたほうが楽しい」
 「すぐに枯れてしまうけど」
くすくすと笑う。もし、うっかり杯の飲み物を飲んでしまっていたら、どうなっていたのだろう。ユッドは、ぞっとした。と同時に、怒りが込み上げてくる。
 「人間は玩具じゃないぞ!」
 「あら、人間が望むのよ」
と、フィリンナ。
 「そうよ。あなたにも選ばせてあげた」
 「そんなの――、騙すようなものじゃないか! い、いきなり抱きつかれたりして…」
そこへ、見計らったかのようにリュカが戻って来た。女たちはすぐさまリュカに食って掛かる。
 「あんたのせいよ、どうしてくれるの」
 「この人間に教えたでしょう」
 「教えてませんよ。守護の魔法だって掛けてません。他の領界<ファリア>の掟には逆らわない、口出しをしない。それが決まりだ」
 「えー」
 「単に、あなたたちが友人の好みじゃなかったからだと思います。」
フィリンナとフィレーラは、ぷうっと頬を膨らませて足を踏み鳴らした。
 「何よ、まだ生まれたてのくせに。ふん」
 「だから同族の男は嫌いなの。つまんない、遊べない」
 「……。」
深い溜息。リュカは、言い返すのも面倒なのか黙ってベッドのほうに歩いていく。妖精族の女たちも、腹立たしげに、だがそれ以上は何もせず、風を起こしながら去って行った。あとには、香水の様な不思議な甘い香りだけが漂っている。後には、ぽかんとしたままのユッドが取り残されている。
 「今のは…どういう…?」
 「この領界<ファリア>では、気に入った人間族<ヒューリット>の男性を誘い込んで持て成す代わり、彼女たちが飽きるまで恋人役をつとめさせられるんですよ。珍しくないですよ、…妖精族の世界では。」
リュカは、諦めのような口調だ。「悪気は無いんです、命までとるわけじゃないし。彼女たちは思う存分遊べて、人間のほうは…その、何日か、何ヶ月かの楽しい思い出が残る。人間だって、そういうのが好きな人はいるでしょう?」
 「……。」
ユッドには、返す言葉が見つからなかった。深い森で妖精族にかどわかされたまま姿を消した美しい男の話。湖の妖精に連れ去られた英雄の話。そんな物語は、子供の頃に読んだ記憶がある。今の今まで、すっかり忘れていたけれど。…あれは、単なるお伽噺ではなかった、ということなのか。
 「でもそれも、一度拒絶すれば終わりです。彼女たちには彼女たちなりの意地がある。拒絶された者に再び言い寄ることはない。それが、ここの掟ですから。」
小さなあくび。リュカは、ベッドに横になろうとしている。「今夜はもう何もありませんよ。ゆっくり休ませてもらって、明日早く発ちましょう…。」
 ユッドは、クッションの上に腰を下ろしたまま壁の窪みの中で揺れる灯りを眺めていた。それから、そっと立ち上がってベッドに近づいた。疲れていたのか、リュカは既に規則正しい寝息をたてている。
 (こうして見ると、まるっきり人間だな…)
最初に出会ったのがリュカだったせいで、なんとなく、妖精族は人間に近い価値観を持つのだと思い込んでいた。けれど、ここの妖精族たちは全く違う。今までに出会った他の妖精たち、フィリメイアやラーフィーも、フィオーネたちも。姿もそうだ。皆、肌も髪も真っ白で、雰囲気はつかみどころがなく、幻のよう。そして、人間の善悪とは違う判断基準と、行動原理を持っている。
 今ならはっきりと判る。旅の連れである、この少年だけが違っている。
 人間のような姿で人間の言葉を喋る竜人と、人間にしか見えない姿を持つ妖精。敵と、味方。
 ベッドの脇に畳んでおかれていた毛布を取り上げると、ユッドはそれを静かにリュカの体にかけ、自分はソファのほうに横になった。リュカの言うとおりなら、今夜はもう何もないはずだ。
 眼を閉じて闇に意識をこらしていると、岩壁の向こうを流れるかすかな水の音が聞こえた。地下水脈の流れが、地底深くの妖精族の住処を包んでいた。


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