■13
 木立の間から薄っすらと朝の光が差し込んでくる。
 泉の上に広がる空はもう、明け方の紫がかった青い色だ。泉の側にしゃがみこんでいたリュカが立ち上がる。木立の根元に腰を下ろして待っていたユッドも、顔を上げた。
 「もう、いいのか?」
訪ねると、少年は頷いた。
 「ここは――どうなるんだ」
 「…領界主<ファリア=エンダ>を失った土地は、誰のものでもない、ただの土地に戻ります。今はまだラーフィーの力が残っていますが、消えるまでそう時間はかからないでしょう」
落ち着いた、いつもの口調。ユッドは少しほっとする。戦いが終わった直後のリュカは、明らかに動揺していた。焦り、怒り、悲しみ。単時間で変わっていった表情のどれも、普段はあまり激しい表情を出さない彼にしては珍しいものばかりだった。
 「出来ることは、大してありません。行きましょうか」
歩き出そうとしたとき、二人は、木立の間に積もる落ち葉を踏みしめてこちらに向かって歩いてくる男の姿に気が付いた。それは、グレイだった。おっかなびっくり、太い木立に触れながら歩いていた彼は、リュカたちを見て少し驚いたような顔をした。
 「こんなところで何をしとる」
 「グレイさんこそ。」
 「ああ、その――わしは、確かめに…」大柄な男は、ぼそぼそと言って落ち着かなさげに辺りを見回した。「ここの――妖精が死んだと聞いて…中に入れるかと思って…あの妖精が竜人族に殺されたというのは、ほ、本当なのか?」
 「ええ」
リュカは、短く返した。そして、眼を伏せる。
 「…そうか」
深く大きな溜息をつきながら木立の間を見上げる。何百年もかけて育て上げられた、小さくても深い森。濃い緑の気配と水の匂いが満ちている。けれどそれも、もうすぐ消えてしまうだろう。男は、初めて目の当たりにする純粋な緑に眼を奪われていた。
 「綺麗な森だな。こんな場所だとは思いもしなかった」
 「ここはもう、誰のものでもない。あなた方の好きにしていい土地ですよ」
すれ違いながら、リュカは静かな声で呟く。「でももし望んでいいのなら…、このまま、そっとしておいて欲しい。これは、彼女があなたたちを助けようとした結果なのだから」
 「……。」
森の出口には、まだ、いくばくかの町の人々が身を寄せ合っていた。女性たちが身を寄せ合い、疲れ切った子供たちはその膝に頭を乗せて眠っている。比較的体力のある男たちは、リオネス砦からやってきた兵士たちとともに消火活動を手伝ったり、焼け跡から見つけ出された遺体を回収したりしている。
 町は完全に焼け落ちていた。けれど、町の住民のほとんどは逃げ出せたようだ。
 砦の方からは、支援物資を載せた荷車が次々と到着している。万事が順調に進んでいて、今からではもう、手伝える場所は無さそうだった。辺りを見回していた時、リュカがふと、鼻をひくつかせた。
 「そういえばあの匂い、消えてますね」
 「匂い? ああ、そういえば」
風向きが変わったせいもあるが、息をするのも苦しいほどの悪臭がほとんど消えうせている。そもそも、あの臭いは何だったのか。
 臭気を放っていた焚き火の場所に戻ってみると、そこでは丁度、ラーメドが取り仕切って調査が行われているところだった。サニエルもいる。目が合ったとたん、サラエルは、じろりとユッドをねめつけた。
 「手伝いもせずに何処に行っていた」
 「どこにって…。」ユッドは軽くむっとする。「上官でもないあんたに、いちいち報告する必要あるのか? 兵士長の許可は貰ってたよ。」
サニエルはちらりとラーメドを見、特に否定しないのを見て、聞こえないよう小さく舌打ちして手元に視線を戻す。だが、それは"フリ"だけで、実際はまだ、こちらの様子を伺っている。それが判っていても、ユッドは、構うものかと思った。
 「その臭いやつの正体を調べてるんですか? 何ですか、それ」
 「西の国で使う儀式用の香料じゃないかという話だ。割れた壷が近くで見つかった」
腕組みをして、難しい顔で調査の手はずを監督しながらラーメドが答える。「こいつもそうだが、問題は、武装した竜人のほうだな」彼は、ちょうどサニエルが調べている、最後に倒した竜人の躯を見やる。「新種なのか、あるいは部族の違いなのか。少なくとも、こんな竜人の記録は今までに見たことが無い」
 「やっぱり、そうですよね。」
竜人族の文化レベルは低く、人間から奪った剣や斧を手にしていることはあっても、自ら作り出すことは出来ない。盾やその他の防具は持たず、馬や船といった乗り物にも乗れない。
 …はずだった。
 「防具はまだ、分かります。一番信じがたいのは、この、銀の腕輪です」と、サニエル。「武装は人間のものを真似たのかとも思いますが、これは…明らかに装飾品だ」
言いながら、若い兵士はブーツの先でうろこに覆われた竜人の腕を軽く蹴った。銀の輝きが、太陽の輝きを反射して鈍く光る。
 と、ラーメドの視線が違和感を捕らえた。
 「待て。なんだ? この手は」
膝をつきながら、ラーメドは腕輪を嵌めた竜人の腕をつかんで持ち上げ、眉を寄せた。「指が五本もあるぞ」
 「それがどうかしましたか」
 「知らねぇのか? 竜人の指は普通は四本。つうかなんだこりゃ、ウロコが妙に薄いな。奇形か? まるで人間の手じゃねぇか」
サニエルは興味をそそられたようだ。
 「他の竜人の死体も持ち帰って、違いを調べてみます。それにしても…」彼は口元に手をやった。「竜人の死体が臭いのは知っていましたが、ここまでとは」
 「こいつらは死ぬとあっという間に腐る。そこらの魚なんかよりよっぽど早いぞ。剥製にも出来んから、調べるなら早くやったほうがいい」
袖口で鼻と口を押さえながら、サニエルはちらと、平然とした表情で口元も押さえていないラーメドのほうを見る。
 「兵士長は、もう馴れていらっしゃるので?」
 「流石に二十年近くも戦ってりゃあな。ま、ただ、匂いは人間のほうが強烈だ。酷いもんだぞ、人間のほうはな。こんなもんじゃない」
 「……。」
口元を押さえたまま表情を歪めながら、サニエルは、必死に吐き気を抑えているようだった。振り返って、ラーメドはユッドたちの方を見た。
 「お前ら、こいつと戦ってる時に何か気が付いたことは?」
 「防具をつけてること、くらいですよ。それと、その臭いやつのこと。」
 「ラーフィーを領界<ファリア>の外におびき出して殺した。"人間の知恵"です」
 「ふうむ。人間の防具に、人間っぽい手に、人間らしい小ざかしい知恵、な。」ラーメドは頭をかいた。「それに、少し前に例の武器商人がこの町を通過してるってんだろ? こりゃあ…どう考えても、最悪の方向にしか行かねぇな」呟いてから、ユッドに視線をやる。「どう思う?」
 「えっ?」
 「考えるのは、お前のほうが得意だろう? このままじゃあ消耗戦だ。お前ならこの先、どう戦う」
 「……。」
一瞬焦ったが、すぐに思考は冷静さを取り戻す。実を言うと、レイレの泉の側でリュカを待っている間、ずっとそのことを考えていたのだ。
 渡れるはずのなかった川の反対側にまで、竜人が出現するようになったこと。
 人間と同じような装備をつけた竜人の出現。
 妖精族の領界。
 人間の協力者…。
 「ずっと気になってたことがあるんです。竜人族は、そもそもなぜ人間の集落を襲うのか」
 「ほう」
 「人間にも妖精族にも攻撃を仕掛けているのは、他種族は必要ないと考えているからだと思います。つまり、連中の目的は勢力圏の拡大。だとすると、いま攻めて来ているのは先遣隊のようなもので、指示を出している本体がどこかにいるはずだと思うんです」
 「だが、竜人族に国はないぞ。あいつらは小規模な群れでしか動かん。今までも散発的に暴れまわるだけで、組織立ったところはなかった」
 「"大進攻"の時も、ですか?」
 「…それは」
ラーメドは、少し考え込むような素振りを見せた。「確かに数は多かった。見たことも無いような群れで、しかし…。」
 「国とまでは行かなくても、誰かが取り仕切っているのかもしれません」
リュカが言う。
 「竜人族<ドラグニス>が人間族<ヒューリット>と何らかの取引をしていることは確実です。それなら取引の代表者がいるはずなんです。それが誰で、どこにいるのかを突き止めないと」
 「だが、どうやって突き止める? 竜人族は捕らえて尋問できるような相手じゃねぇぞ」
 「それなら、取引相手…人間族<ヒューリット>の武器商人のほうを追いかけるしかないですね」
 「アリだな。顔と名前くらい判れば、なんとかなるかも。ラーメドさん、町の人に聞き込みしてもいいですか」
 「それなら、とっくに報告書は出来上がってる」
と、ラーメド。
 「問題の武器商人はとっくにグロッサリアだ。国境を越えることになる。ルナリア軍として表立って動くわけにはいかん」
 「……。」
つまりそれは、少人数で、目立たないよう一般人を装って追跡するのなら可能だということ。
 ユッドはリュカのほうに視線をやった。リュカは、小さく頷き返す。その眼差しを見れば、答えは聞くまでも無かった。ラーメドのほうを見ると、男は腕組みのまま、じっと答えを待っている。
 「やりますよ。オレたち二人で必ず突き止めます。休暇申請は…何て書けばいいですかね?」
 「その必要はない。休暇じゃ給料は入らないからな、これは俺が命じた特別任務ってことにしよう。フレイザーには俺から伝えておく」
 「いいんですか?」
 「ああ。その代わり、絶対に逃がすな。ここで尻尾を見失ったら取り返しがつかんことになる」
にやりとして、男はくるりと踵を返した。
 「待ってろ、馬を連れて来る。それと当面の路銀も必要だろう。ユッド、ちょっと付き合え」
 「あ、はい」
調査している兵士たちは何も気づいていない。ただ雑談しているとしか思っていないはずだ。サニエルだけが、不審げな視線をそれとなくこちらに向けていたけれど。
 その場を離れ、十分に距離を置いたと思ったところで、ラーメドは、歩調を緩めて言った。
 「グロッサリアは水場が少ない。あいつの体調に気をつけてやってくれ」
囁くような声で、だが、よく聞こえるようにはっきりとした口調で。まだよく意味を飲み込めていない顔のユッドを真顔で見下ろして、男は付け加えた。
 「妖精族は、何もしなくても生きているだけで魔力を消費する。魔力と生命力は同じだ。魔力が尽きれば命に関わることにもなる」
 「リュカのこと…ですか?」
沈黙。だがそれは、肯定の意味だ。
 「どうして、そんなことをオレに?」
 「……。」
 「妖精族のことに詳しいのは、サウィルの森の先代の領界主と知り合いだったからですか? 竜人族と戦う時に使っていた剣、リュカのものと同じだった。その剣、――先代に貰ったものなんですよね?」
 「リュカが話したのか」
 「そうです。」
ラーメドは、足を止めた。そして、思いがけない言葉を口にした。
 「俺はな、あいつの母親を死なせた男だ」
 「…え? それは、どういう意味ですか」
 「言ったとおりだ。妖精族の魔力は、生命力と同じなんだ。その魔力を他人に譲渡する契約の魔法がある。誓約<セイン>と引き換えに、相手に加護を与える魔法だ。それを、あいつの母親は俺に、…俺を竜人族と戦わせるために使った」
言葉の裏に、複雑な感情が揺れるのが判った。男の眼は、ユッドのほうに向けられてはいたがユッドを見てはいなかった。
 「俺の誓いは"竜人族との戦いを終わらせる"ということ。妖精族との契約は、絶対だ。強力な加護を得られる代わり、誓約<セイン>を破れば命を落とす。…先に死ぬのは俺のほうだと思っていた。だが違った。セフィーラは…最後まで俺との契約を切ろうとしなかった。そして死んだ。"大進攻"の時――俺の代わりにな。」
言葉が出てこなかった。
 リュカは、それを知っていた。だから、最初からラーメドに対してはあんな態度を…。
 男が、小さく口の端を釣り上げるのが見えた。
 「ま、昔の話だ。」
 「ラーメドさん…」
 「馬、二頭借りるぞ!」
砦から来ていた兵士たちに声をかけると、ラーメドは一箇所に集められていた馬たちの中から駿馬を選んで二頭ぶんの手綱を、懐から取り出した重たい包みと一緒にユッドに手渡す。
 「あいつは、母親にそっくりだ。きっとギリギリになっても逃げたりしない。無茶をしそうなら止めてくれ。…頼んだぞ」
そう言って男は、ユッドの肩をぽんぽんと叩いて馬の手綱を渡した。調査現場のほうへ戻っていくラーメドの背中を見送りながら、ユッドは、それ以上、何も聞くことは出来なかった。
 朝日が登り、光が射し始める。
 町越しに長く延びた影が、町の直ぐ側にある黒々とした木立のほうへも手を伸ばす。主を失った森は、それでも、まだどこか近寄りがたい気配を漂わせたままで佇んでいた。


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