■11


 日々の訓練の厳しさは相変わらずだったが、さすがに毎日続いているうちに体は慣れてきた。新しい堀も形は完成し、竜人族の襲撃で壊された建物もほぼ修復された。一時は相次いでいた除隊希望者も一段落し、ユッドを含む残った新兵たちの間には、余裕も少しは生まれ始めていた。
 だが、これが次の襲撃までの仮初めの平和でしかないことは、誰しもがよく分かっていた。前回の夜襲から三週間。いつ次の襲撃が起きてもおかしくない。そして、前線の砦はもう、ここしかないのだ。
 訓練の合間、一息ついていたユッドのところにエリンがやって来たのは、最初の出会いの夜から数日後のことだった。
 「あ、居た! ねえ、ちょっと」
 「え?」
汗を拭っていたユッドは、話しかけられてもきょとんとしていた。誰だったのか―― 一呼吸置いてようやく名前を思い出す。
 「ああ! エリン、だっけ」
 「そうよ。忘れてたの? 酷いわね」
 「そういうわけじゃ…吃驚したんだよ、こんなところに来るなんて」
同室のディーシュをはじめ、近くにいた同年輩の新兵たちがざわついている。このむさくるしい砦には年頃の娘などほぼいないから無理もない。上半身裸で開放的に汗を乾かしていた者などは、慌てて物陰に隠れ出す始末だ。もっとも、エリンはそんなところまで目に入っていないようだが。
 「聞いたの。あなた、妖精族と仲いいんですって? その間、一緒にいた子でしょ? どうして紹介してくれなかったのよ」
 「どうしてって…。」ユッドは呆れ顔になった。「あんた自分でずっと喋ってたし、聞かなかったじゃないか」
 「そうだったったけ? まあいいわ。とにかく、もう一度会ってみたいの。紹介してよ」
強引で有無を言わさぬ口調。それだけ言うなり、エリンはもう先に立って歩き始めている。
 「ちょっ… 今すぐ?!」
 「いつがいいの?」
これは断れなさそうだ。仕方なく、ユッドは彼女のあとに続いた。どうせ今日はもう、これで終わりだ。休憩をかねて少し歩き回るくらいならいいだろう。
 リュカは、昼間の砦の中を自由に歩き回っていて見付けにくい。自分の森に帰っていて居ないこともあるはずだが、厩舎で訊ねると、馬は借りていっていないという。それなら近くにいるはずだ。人に尋ねながら歩いているうちに、二人はいつのまにか砦の端の川べりに出ていた。
 「いないわねえ」
エリンは、がっかりした様子で幅の広い川の向こう側の荒野を見やった。「どこか外へ散歩に出かけちゃったのかしら」
 「そうかも。…ていうか、別にオレが紹介することないじゃないか。見かけたら話しかければいい」
 「それで、ちゃんとお話してくれるの?」
 「当たり前だ」
 「…妖精族って、人間とはあまり話してくれないものだと思っていたから」
彼女の口調からは、先ほどまでの勢いは亡くなっていた。川向こうをぼんやり眺めている視線に気づいて、ユッドは、この娘に少し興味を持った。
 「そういや、君は兵士長の養女なんだって言ってたよな。あの人はもうずっと砦に勤めてるはずだけど…どういう縁でそうなったんだ?」
 「助けてもらったの。あたし、ここのずっと西の方の町で生まれたのよ」
はっとした。
 「…"大進攻"か」
 「ええ。」
視線の先に広がる、リオネス砦の西側の荒野。その方向には――もう、人の集落は一つもない。
 「町で生き残ったのは数十人だった。本当の両親はその時に死んだわ。あたしはまだ子供で身寄りも無かったから、引き受けてくれたのよ。少しくらい恩返ししたいの。だからここへ来た」
 「…なるほどな」
穏やかに話している時のエリンは、町で見かける年頃の娘たちとそう変わらなかった。よほど良いお嬢様学校にでも入れられていたのか、こんな男だらけの辺境では珍しく身なりを整えて、いかにも町の雰囲気を漂わせている。それだけに、ラーメドが彼女をここで働かせることに反対するのも良く判った。生涯の半分を戦いに費やしてきた男は、養い子には町での平穏な暮らしを与えたかったのだ。
 並んで立ったまま、二人は無言に、何となく西の荒野を見つめていた。
 と、丁度その時、川向こうに人影がひとつ現われた。馬も連れていない。リュカだ。
 「あれ?! あんなとこにいる。どうやって…」
目が合うと、少年は軽くこちらに手を振って、まるで小路の上を渡るかのように川の流れの上を歩き出した。呆気にとられている二人の目の前で、彼は、流れている水面を平然と横切ってくる。
 「リュカ、お前…!」
 「どうしました?」
きょとんとした表情だ。
 「すごい、妖精族って水の上を歩けるの? 知らなかった。どうやってるの」
 「どう、と言われても…。ただ、歩いているだけですよ。特に何も」
リュカは不思議そうに首を傾げている。逆に、それが驚きだった。
 「ちょうど、あなたに会いたいと思ってたところなの」
と、エリン。「この間は、ゆっくりお話出来なかったから。」
 「覚えてますよ」
少年は、曖昧な笑みを浮かべた。「エリン、でしたよね。…何か、ご用でしたか?」
 「妖精族となんて話したことなかったからね。ねえ、あなた、この間の夜みんなとご飯食べてたでしょう。人間の食べ物も食べられるの? 好きなものってあるの?」
 「好きなもの?」
 「あたし料理は得意なの。好きなものがあれば作ってあげられるわよ」
 「おい、おい」
ユッドは思わず苦笑する。「食い物で釣る気か? 子供じゃないんだから」
 「あら、仲良くなるには有効な手段じゃない。誰だって美味しいものは好きでしょ」
 「まあ…そうなんだけど…」
 「ねえ。何か好きなものは?」
エリンに覗き込まれながら、リュカは、困ったような顔をしながら小さな声で答えた。
 「焼きたてのパンは…美味しかったです」
 「パン? ああ、そっか! 妖精族だとそういうののほうがいいのね!」
エリンは両手を打ち合わせた。「じゃあ、こんど作って持ってくるわね!」
 「え、でも…」
 「心配いらないわよ、あたし、食事係だから。パンを焼くのは得意なの。心配しないで!」
 「……。」
何か言いたげな顔をしながらも、リュカは口を閉ざした。エリンは、ひとりご機嫌になっている。
 「あ、そうだ。お父さんは何が好きなのかな? 何か作ってあげたいんだけど…あれから全然つかまえられないし、誰に聞いても良く知らないっていうのよね。あんまり人と話しないみたいで」
 「カリムに聞けばいいんじゃないのかな。」と、ユッド。「古参だし、一番付き合いが長いはずだ」
 「そうなの?」
 「今度紹介するよ。でも、カリムも兵士長のことはあまり話してくれないんだよな…。」
彼は砦に来たばかりの頃のことを思い出していた。今にして思えばずいぶんミーハーなことをしたものだが、巷で有名な"英雄"について何か知らないかと聞いてみたことがあるのだ。けれど、その話題を振った時はいつも、決まって渋い顔と濁した答えだけが返ってきた。当たり障りの無い、世間で言われているような噂話でさえ、老兵は語ろうとはしなかった。今なら判る。――ここでの長い年月は、生易しい体験ではなかったのだと。
 「いいわ、それじゃ皆の分のパンを焼く」
エリンは、一人で決めてしまった。
 「また、ここに来れば遭えるかしら。リュカ、明日のお昼過ぎくらいにここに来てくれる?」
 「えっと…いいですよ。でも…」
 「じゃ、またね!」
強引に約束を取り決めて、エリンは、さっさと砦のほうへ戻って行く。置いてけぼりにそれたユッドは、呆気にとられたままだ。隣でリュカが苦笑している。
 「押し切られちゃいましたね。」
 「ああ…何なんだ、あの勢い」強引なのは確かだが、しかし、どこか抗いがたい魅力がある。弾むような声も、人を真っ直ぐに見つめてくる、明るい色をした大きな目も。「…そういえば、今日はどこへ行ってたんだ? 川向こうにいたけど」頭の中を占めていた娘の顔を慌てて振り払うと、ユッドは、リュカに話しかけた。
 「竜人族の気配が残っていないか、探していたんです。かすかな気配だけはあるんです。近くを通っていることは間違いない…でも、どの方向に、どれくらいの数が移動したのかが分からない」
 「わざと避けてる?」
 「かもしれません。見回りは、道に沿ってますよね。だとすると、その道をわざと避けていれば見付けることが出来ない」
 「こっちの巡廻ルートを読まれてる、ってことか。」
その可能性は、以前からユッドもうっすらと考えていた。町や村を繋ぐ細い道は決まった時間で迷わず一回りして帰ってくるには有効だが、何処をいつ通るかが決まっていて、避けるのは簡単だ。夜盗は人を襲うから、必ず街道沿いに出る。道沿いの網を張れば捕まえることが出来る。だが、竜人族は、そうではない。
 「…巡廻ルートを変更できないか、副指令に相談してみるよ。もし、微かにでも近くを通った気配があったら教えてくれ」
 「判りました」
リュカとは、そこで別れた。ユッドのほうは、その足で真っ直ぐに丘の上の司令塔へと向かった。以前は司令塔のあたりは用もなしに近づく場所ではなかったが、いちど面識が出来てしまうと、それほど恐れる場所でも無くなっていた。
 ちょうど丘の上に続くを登りかけた時、行く手を塞ぐ人影があった。誰だろうと顔を上げたユッドは、そこに、自分と同じ青と銀の上着をぱりっと着こなした、金髪の男を見出していた。
 「サニエル…。」
男は、冷たい視線をユッドに向けていた。
 「手が早いな。もう兵士長の娘と懇意になったのか」
 「な、…そういうんじゃ」
言い返そうとするユッドの表情を見て、サニエルは皮肉っぽく唇の端をつりあげた。同じ軍学校を卒業したとはいえ相手は数年先輩で、しかも、家柄もはるかに上だ。この砦での評価も高く、普段は司令室に入り浸っているから、遠目に見て名前は知っていても、今までまともに言葉を交わしたこともない。というよりほとんど無視されてきた。いつでも自信たっぷりのサニエルは、辛うじて士官候補に収まっている新兵などとは住む世界が違う、と言わんばかりだ。
 そのサニエルが、一体何の用なのだろう。
 「来い。フレイザー司令がお呼びだ。貴様の午後の訓練は免除されている」
 「…フレイザー"司令"?」
 「本日づけで昇格された。中央からのお達しだ」
それだけ言うと、質問は後にしろと言わんばかりにくるりと背を向けて、先に立ってどんどん歩き始める。ユッドは呆気にとられたまま、しばらくその場に立ち尽くしていた。
 だが、ついていくしかない。足早に後を追いながら、ユッドは、一体何の用だろうといぶかしんでいた。


 司令室に入るのは、着任の挨拶いらい二度目だ。辺境の前線基地らしく何の飾り気もない、質素な煉瓦作りの部屋の中には、会議用の円卓が一つ。壁には、この辺りの詳細な地形図が貼り付けられている。
 「来たか」
地図の前に待っていたフレイザーが振り返る。隣には、先日の斥候任務で一緒だったウェイン・ラトー。サニエルが馴れた態度でさっと敬礼し、慌ててユッドもそれに倣った。
 「来てもらったのはほかでもない。まだ公表はしていないが、中央から正式に、私にローウェル司令の後任をまかせるとの通達があった。その話はもう彼にしたかな? ウェリントン君」
 「は。伝えております」
サニエルが答える。
 「ではその続きからだ。中央からの回答では、近日中の増援は見込めない。砦の人員不足は深刻だ。そんなわけで、ラトー君を副指令代理とすることになった」
 「え…え? あーえっと、昇進おめでとうございます…?」
 「仮着任だよ、名目だけでお給料は上がらないんだ」
ウェインは苦笑している。
 「そう、彼はまだ若い。私も経験不足のところはある。そこで、だ。君たち二人には、我々二人の補佐官の役割を担ってもらいたい。士官候補生としての訓練にもなるだろう。具体的には、末端への司令・伝令が主になるだろうがな。頼めるか?」
 「えっと…勿論、構いません。全力は尽くします」
答えながら、それとなく隣のサニエルのほうを見た。彼は直立不動のままぴくりともしていない。どうせサニエルのことだ、既にこの件は了承済みで、今更答える必要はないのだろう。本来なら喜ぶべきところだが、何となく、サニエルと一緒に仕事をするのだけは苦手だと思った。
 「ではラトー君。二人に説明を。それから――」
 「司令」
背筋を伸ばしたまま、サニエルが口を開いた。
 「私は既に、司令室での仕事をある程度こなしております。一通りのことは分かっているつもりですので、わざわざ副指令代理殿のお時間をとる必要はありません。急ぎの任務があれば、むしろそちらを代行させていただきたい」
 「ほう」
フレイザーに視線を投げかけられたウェインが、小さく頷く。
 「じゃあ、来月調達する予定の食料の試算を代わりに頼めるか? 今の在庫量と先月の実績はそこにある。」
 「かしこまりました。」
テーブルの端に積み上げられていた書類をとりあげてざっと一通り眼を通したあと、サニエルは、それらを抱えてひとつお辞儀をして部屋を出て行った。ユッドはぽかんとした表情でそれを見送っている。
 「ここって、食料の計算なんかもするんですか?」
 「勿論だとも。司令室のほかにどこでやるんだね」
ウェインが苦笑している。
 「武器在庫の管理、日雇い労働者の給料計算、入隊者の受け入れ、事故や戦闘による負傷者の戦線離脱に伴う各種手続き。司令室の仕事の大半は事務作業だ。軍学校で習う読み書きはそのためのものなんだぞ」
 「いや…それは何となく分かってますが…、ここって、前線基地なんですよね?」
 「前線だからこそ、だ。余分な非戦闘員を雇い入れる余裕がない。事務員がいないなら我々自身でやるしかないのさ。さ、というわけで、まず君にはここでの仕事のやり方を覚えてもらおうか。」
面倒なことになったな、とユッドは思った。座学は得意なほうだが、まさか経理をやらされるとは思ってもみなかった。厳しい訓練が好きなわけでもないが、まだそちらのほうが何も考えなくていいぶん気が楽だ。つくづく自分は軍隊に向いていないな、などと思ってしまう。
 「そうだ、君にも今日から司令室脇の宿舎に移ってもらうよ。そのほうが仕事がしやすいだろう」
 「ええ? 今日からですか?」
 「なんだ、嬉しくないのか」
 「いや、まあ…嬉しい、ですけど」
司令室の脇にある士官用宿舎はすべて個室で、部屋も広めなのは知っている。だがこんな風に、ある日とつぜん、しかもまだ何の実績も立てられていないうちから移動することになるとは思ってもみなかった。
 「では、解散と…」
 「あ、待ってください」
ここに来るはずだった当初の目的を思い出し、ユッドは慌てて口を挟んだ。「もう一つ、提案があるんです。斥候任務のことで」
 「提案? 何だね」
 「ルートを変更できませんか。今の巡廻ルートは既に竜人族に読まれている可能性があります。身を隠すために、わざと避けているかもしれない」
フレイザーとウェインは、顔を見合わせた。奇妙な間。ユッドは内心、冷や汗をかいていた。出すぎた真似をするなと叱られるか、頭ごなしに否定されるのではないかと思ったのだ。だが、返って来たのは彼の予想とは間逆な返答だった。
 「貴重な意見を有難う、まさに我々もそれを検討していたところだ。ちょうどついさっき、ラーメドにもその話を持ちかけられたところでね」
 「えっ?!」
 「彼も同じことを言っていたよ。巡廻の網に引っ掛からないのは、意図してそれをかいくぐっているからだとね」
顔が熱くなってくる。いつの間にか、気づいているのは自分だけだと思いあがっていたのだ。長年、竜人族と戦ってきた熟練の兵なら気づかないはずもない。その可能性を考えても見なかった。
 「失礼しました、余計なことを」
 「いや、構わないよ。君の発想がいつも的を射ていることは確かだ。我々にとっては、それもまた貴重な戦力だ」
慇懃な笑みを浮かべて、フレイザーはユッドに退室するようそれとなく身振りで示した。ひとつお辞儀をして、彼は、火照る顔を押さえながら廊下に出た。
 司令塔を出ると、ラーメドとカリムがそこにいて、何やら話し込んでいた。逃げるように出てきたユッドを見て、にやりと笑って声をかける。
 「よう、終わったのか?」
 「え?」
 「仕事の話を貰ったんだろう。大抜擢だな」
カリムもにこにこしている。「昇進の祝いを兼ねて、どうだ。今日は少し飲みにいかんか? 奢ってやるぞ」
 「飲みにって…」
砦の中には、小さな酒場が一軒だけある。配給される三度の食事とは別に、兵士たちが砦に勤務した給料の中から代価を支払って自由に飲み食いする場所で、士官や古参兵たちがよく出入りしている場所だ。新兵たちは滅多に寄り付かず、ユッド自身もそこで対価を支払ったことは一度もない。
 「酒は、いけるんだろう?」
 「まあ少しは…でも…」
 「いいじゃねえか。たまには若い奴がいたほうが面白い」
笑いながら、ラーメドはユッドの首に腕を回した。「おし、行こうぜ。続きの話はあっちでやろう」
 「ハメを外しすぎるなよ」
歩き出す二人の男に挟まれて、ユッドは、出来るだけ目立たないよう背を縮めていた。


 給料日まではまだ日があり、時間も早いとあって、居酒屋にはそれほど人はいなかった。飲んでいるのは今日が非番の者か、雑務に関わっている者くらい。ここは砦の中で唯一、ハメを外しても許される場所だ。ここで日ごろの鬱憤をぶちまけている者も少なくないのか、自然と話し声ば大きくなり、人の数のわりに賑やかだった。
 「まあ座れ。ユッド、何を飲む? 奢りだから、好きなものを飲んでいい」
 「じゃあ普通にエールで…」
 「なんだ、本当に普通だな。ワインでも頼めばいいのに。それとも、舌が肥えすぎてこんなチンケな酒場のワインじゃ合わんのか」
 「そういや、お前、貴族の家柄なんだって?」
 「いや…下級貴族ですよ…。いわゆる最下流。ちょっと金持ちな商人のほうがいい暮らしをしてます」
 「それでもいい家なんだろ。見てりゃ判るさ、育ちがいいってのは」
周囲に釣られて、三人の声も大きくなっていく。カリムが手を上げて給仕を呼び、三人分の酒を注文した。小さなテーブルの上にはちびた蝋燭の灯が小さく燃え、薄暗い中に独特の熱気が漂っている。
 「そういえば、エリンがラーメドさんのことを聞きたがってましたよ」
 「んー? 俺のことって、何を」
 「好きな食べ物の話とか。あまり話をしてなかったんですか?」
 「んー、まあ…話すこともないしな…。」
つまみの炒り豆を指先でいじりながら、男は、どこか遠くを眺めている。
 「話せることといったら、戦いの話。血なまぐさい話ばっかりだ。あいつにそんな話をしてもなあ」
 「女だから戦いの話はだめってことですか?」
 「そういうわけじゃないんだが…ただ、話すのは得意じゃないんだ。」
 「ごく普通の話でもいいんですよ、多分。たとえば、竜人がどういう種族で、どこからやって来るのか、とか。」
 「それくらいなら話は出来そうだな」カリムが笑う。「どうだラーメド? 娘に説明するつもりでやってみろ」
 「はあ? 竜人は、――うーん、そうだなあ。数は多いはずなんだ、南の暑い砂漠で生まれる種族で…確か、たまごを砂の熱で孵すんじゃなかったっけ? この辺りの気候じゃ暮らしていけないのは確かだなあ。水が嫌いなんだ、寒いのも」
 「じゃあどうして攻めてくるんですか」
 「知るか。こっちが聞きたいくらいだ。けど、聞いてみようにも言葉が通じねえし、そもそも話せる相手じゃない。単純に、人間って種族が嫌いなのかもな」
給仕が三人分のジョッキを置いていく。ラーメドはそれを取り上げるなり、あっという間に飲み干し、そのまま腕を上げた。「おかわり!」
 「相変わらずのザルだな、お前は」
向かいの席でカリムが苦笑している。
 「飲んでも酔わねぇんだよ、体質的に。」
 「そうかい? 新兵の頃は普通に酔ってたと思ったがねえ。一度、泡吹いたお前さんを医務室に担ぎこんだのを覚えてるよ。あの頃はお互い、まだ若かったな」
 「嘘付け。二十年くらい前の話だろ? あの時点であんた、もういい年だったじゃねぇか」
 「何を言う、まだ白髪も一本もなかったし、髪だって、ほれ、このあたりまであったんだぞ」
 「そーかぁ? あと三センチは後ろだった気がするけどなぁ?」
ユッドは自分の分を手にとりながら、古参兵たちの昔話にじっと耳を傾けている。二人はまるで、ユッドがそこにいるのを忘れたかのようだった。
 「昔は、ここもこんなに厳重じゃなかったな。前線がもっと先のほうにあって、せいぜい柵で囲ってある見張り台くらいなもんだった。主な任務は見回りだったし」
 「十五年前までだな。ソルナレイクの陥落、あれでようやく上層部の連中のケツに火がついた」
 「街道の交差点にある重要都市だったからな。竜人族が攻め込んだなんて話を聞いても誰も本気にしちゃいなかった。確か、そのまま再建されなかったんだったよな?」
 「そのはずだ。かつての町の住人はほぼ皆殺し。生き残った一部も攫われて奴隷にされちまったって話で人が戻らんまま放棄されたと聞く。ソレナレイクから南のほうは、今はだいぶ寂れてるって話だよ」
追加の酒が置かれる。お代わりの大ジョッキも半分ほど一気に流し込んだあと、ラーメドは、ふいに真面目な顔になって手元に視線を落とした。
 「…もどかしいな。いくら倒してもキリがねぇ。」
 「いつまで経っても終わらん戦争ってのは、辛いもんだな」
カリムも応じて、酒杯を飲み干すと、ひとつげっぷをして腰を浮かした。
 「じゃあま、わしはそろそろおいとまするとしよう」
 「おい、もう行くのか? 早すぎるぞ。まだ飲めるだろう」
 「新兵どもの手前、千鳥足になるわけにもいかんからな」
最古参の老兵は、そう言って薄くなった頭を手で撫でた。「いつ襲撃があるかわからん。そっちも、ほどほどにな。」
 「分かってるよ! ったく、心配しねぇでも酔ったりしねぇよ」
ぶつぶつ言いながら頬をつくラーメドは、確かに、全く酔っているようには見えなかった。ほんの少し頬に赤味が差しているだけで、それすらも酔ったフリの演技ではないかと思えてくる。
 ジョッキを取り上げながら、男は、ぼそりと訊ねた。
 「――お前は、どうしてここへ来た?」
 「えっ?」
 「軍学校卒なら、もっといい赴任地を選べただろう。貴族の家名があるなら尚更だ。わざわざこんな辺境に来たのは、希望を出したからじゃないのか?」
 「それは…。」
彼は迷った。けれど誤魔化す理由はなかった。だから正直に、答えた。
 「…実家から、逃げたかっただけですよ。うちには優秀な兄がいるので、比べられるのに疲れてた。」
 「そうか」
ジョッキの残りを流しこんで、男は、小さく溜息をついた。
 「俺は、どうしてここへ来たんだったかな…。」
かつて憧れていた英雄、伝説のように思っていたその人物は、いつの間にか向かい合わせで酒を飲む、普通の人間になっていた。
 誰しもが思いを抱え、それぞれの人生を賭けて生きている。ここではそれが、前線の日常と常に重なり合っている。つまり、「生」と、「死」と。


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