10 Interlude 〜リオネス砦


 その夜は胸騒ぎがして、なかなか寝付けそうになかった。
 仕方なく男は床を出て、ゆっくりとした足取りで川のほとりに向かった。砦のほとんどは寝静まり、静けさが辺りに満ちている。丘の半ほどで足をとめ、見張り台の上でちらつく小さな輝きを見やり、それから、上着のポケットに手を突っ込みながら再び歩き出す。
 砦に暮らすようになってから、ほぼ二十年。
 それは今まで生きてきた人生のちょうど半分に当たる時間でもある。
 兵募集の広告に惹かれ、割のいい仕事だと片田舎の山岳地方から出稼ぎにやって来たは、まだ十代の頃だった。当初の任務は、荒野を越えて迷い込んでくる竜人族の"威嚇"と"追い払い"。それは巧くいっているように見えた――少なくとも、何年かの間は。情勢が変わったのは、最初の数年が過ぎた頃だった。南にある小国二つの首都が、ほぼ同時に陥落したという報せが届いたときのことだった。急襲、圧倒的な戦闘力。多くの人間が殺され、残りは攫われた。徹底的に破壊された村や町の惨状の報が伝わるにつれ、周辺諸国に動揺は広まっていった。
 その時から、荒野に面した国々、及び竜人族の辿り着く可能性のあるすべての地方が、厳戒態勢に入った。当時生態もほとんど知られていなかった人間よりはるかに肉体的な強靭さを持つ凶暴で残忍な異種族を前に、人間たちは大急ぎで対応策を練り上げなくてはならなくなった。防衛に成功した国は生き延び、失敗した国は容赦なく責め滅ぼされた。多くの町や村が焼かれた。
 だが今の若い兵士たちは、その惨劇の時代を知らない。あの頃の、絶望的な空気の最前線にいた兵士たちのうち今も現役で砦に残っているのは、数人だけだ。


 川べりに辿り着いた男は、一つ息をついて流れに片手を差し入れた。北の山脈から流れ落ちてくるルーヴァ川の水は、夏でも冷たい。しばらく手を浸しているうちに、眠気は完全に消えていた。
 ふと、背後にほんの微かな気配を感じた。
 いぶかしみながら振り返り、しばらく眺めたすえに気配の主を見つけ出す。物陰に、闇に溶け込むようにして立っている一人の少年がいる。男は一瞬驚いた顔になったが、少年の眼差しに気づいて、すぐに元の表情を取り戻す。
 「…お前か。」
押し殺した、できるだけ冷静を装った声。だがそれは、普段の彼からすると幾分違う声色になっている。リュカは、黙ったままじっと男を見つめている。その瞳を見つめていた男は、ふと、僅かに眼を細めた。
 「セラに…良く似てるな」
ぴく、とリュカの眉が動く。
 「そんな風に呼んでいたんですか」
 「ああ、まあ…」視線が遠くへと彷徨う。「昔のことだ…。」
 「それほど昔でもない」
リュカは、目の前の男を睨みつける。「彼女がどれだけ苦しんでたか…どんな風に死んでいったのか見せてあげたかったですよ。あんな風に…それなのに…最期まで、あなたが生き残れたかどうかを気にしていた。自分の生命力まで魔力に変換して、弱っていきながらずっと。」
 「……。俺のせい、だな」
ラーメドは、悲しげな顔で口元を歪めた。それから、川の方へと顔を向けた。
 「許してくれとは言わない。お前の母親を殺したのは、確かに俺だ」
 「僕は、ただ…」
 「償いはまだ終わってない。約束したんだ。必ず、この戦いを終わらせる。――それが、俺の誓約<セイン>だった」
強く唇を噛み、リュカは背を向ける。
 「果たすまで、死なないことですね」
 「おい、リュカ!」
歩き出そうとした少年の名を、男は呼ぶ。
 「俺の役目はここにある。お前の役目は何だ? セフィーラが残したものを無駄にするな。お前には守るべき領界がある。森へ戻れ。この戦いは、お前には関係ない」
 「関係ない?」
振り返って、リュカはきっと相手を睨みつけ、きっぱりと言った。
 「サウィルの森は…我が領界<ファリア>は、助けを求める隣人を拒絶しないのが掟です。どうしてそんなことを言うんですか?」
それだけ言って、返す言葉を思いつけないでいる男をその場に残し、月明かりの届かない、視界の奥へと去って行った。
 「"隣人"、…か。」
星明りの下で、男は小さく笑う。それは、かつて見ず知らずの他種族だった自分を救い、棲家に受け入れてくれた女性の言葉と重なった。
 「なあセラ、お前の息子は、本当にお前に良く似てるなあ…」
全身から息を吐き出すように大きな溜息をつきながら、ラーメドは、崩れるようにその場に腰を下ろした。忘れようとしても忘れることの出来ない眼差しとともに、喪失と後悔の感触が、胸に蘇ってくる。まさか、その眼差しともう一度、出会うことになるとは。

 そこにあるのは、"英雄"ではなく、ただ一人の苦悩する男の姿だった。


<前へ表紙へ次へ>