■1


 夕刻が迫る日差しの中、銀のしぶきを上げて流れるルーヴァ川からほど近い平原を、馬が一頭きりで疾走していた。
 馬上の若い兵士は決死の形相で馬に拍車を当て続け、馬は口の端に白く泡を吹きながら乱れた足で走り続けている。だが、それも長くは続かない。
 がくりと前足を折り、崩れ落ちる馬の背から投げ出されるようにして飛び降りたユッドは、顔を上げて唇を噛む。白い泡を吹いてもがく馬の腹に刺さる黒い鏃――それは紛れもなく、彼の所属するリオネス砦がその進攻を食い止めようとして戦っている"敵"のもの。抜けないよう先端部分を細工した特殊な形の鏃は、根元近くまで傷口に沈み込んでいる。
 (くそ…)
矢の先に猛毒が塗られていることはわかっている。それに、引き抜いたところでもう遅い。毒はすぐに全身に回る。自分用の解毒剤すら持っていないのだ。可愛そうだが、どうすることも出来なかった。
 苦しみもがく馬をその場に残し、ユッドは自分の足で走り始めた。ぐずぐずしている暇は無かった。敵は、すぐ近くに潜んでいる。見つかったら終わりだ。何とかして、見つかる前に川に出なければ。
 ――だが、そんな望みを容赦なく打ち消すかのように、耳元に弓弦の弾かれる音が響く。
 振り返ると視界の端に、うろこに覆われた巨体が眼を爛々と光らせ、矢を番えながら立ち上がろうとしているのが見えた。絵でしか見たことの無い存在が、絵で見た以上の威圧感で容赦なく迫ってくる。
 (竜人族…!)
唇を噛んで、ユッドは腰の武器に手をかけた。けれど一瞬だけ沸いてきた戦おうという気概も、矢を番えようとした竜人の後ろに更にもう一体が隠れているのに気づいた瞬間に、一気に萎える。瞬時に脳は撤退の判断を下し、踵を返すと一目散に走り出す。恐怖よりも先に、混乱が脳内を埋め尽くす。
 (なんで、こんなところに…なんで…こんな…聞いてないぞ!)
 斥候からの帰還中。
 もう少しでルーヴァ川の支流ほとりに出られるはずだった。竜人族は元々が熱い砂漠地方に住み、水を嫌う。前線基地となっているリオネス砦はルーヴァ川に面し、砦の背後には平原と森が広がっている。竜人族は川や泉のような水気の多い場所には滅多に近づかない。川を越えて来ることはなく、平原の見回りは主に野党など人間対策のもので――新人でも出来る簡単な任務――の、はずだった。
 そう聞いていた。だから帰り道は熟練のカリムとは別れて、一人で辿っていた…それなのに。


 ヒュウッ、と耳もとで風が唸り、思考が途切れた。矢がすぐ側を通り過ぎたのだ。
 後ろから竜人特有の吼えるような怒声と重たい足音が響いてくる。見た目はトカゲのようでも、走ると人の速度とそう変わらない。しかも毒矢の使い手でもある。馬無しに逃げ切るのが難しいのは判っていた。
 それでも、こんなところで死にたくはない。
 砦に配属されて間もなく、この辺りには不慣れなユッドは、焦りすぎていた。走り出す方角を間違えた、と気づいた時にはもう遅かった。川の流れからはむしろ遠ざかり、向かっていく先には、黒々とした木立が見え初めている。
 「あっ」
矢が肩先を掠める。腕に痛みが走ったのと、動揺したはずみで足が絡まって視界が滑ったのがほぼ同時。
 「うわ、あああっ」
地面に出来た段差が草で見えなかったのだ。ユッドはバランスを崩し、斜面を勢いよく転がり落ちた。いや、――多分、転がり落ちたのだろう。頭の中は真っ白になっていた。頭上に、竜人族らしき黒い影が揺れている。だが、追いかけてはこない。どうせ助からない高さだと思ったのか、取るに足りない相手を追いかけて、坂の下まで行くのが面倒だったのか。
 ようやく僅かな理性が戻って来たとき、ユッドは、大の字になって草の上に転がっていた。
 口の中で血の味がする。
 まだ生きていることを確認するため、何度も大きく呼吸して、それからようやくゆっくりと体を起こす。その瞬間、脳を突くような痛みが走った。
 「――痛ッ」
思わず声を上げて肩を押さえた。手にべったりと付く赤い血。切り裂かれた上着の下で、傷が熱を帯びているのが判る。そして血は、押さえた指先から溢れるように流れ出してくる。
 (毒…)
ぞくり、と背筋に冷たいものが走った。
 竜人族の使う黒い矢に塗られた砂漠の毒にやられたら、血が止まらなくなり、発熱して三日以内に死ぬという。解毒剤は長引く戦乱で常に不足していて、前線基地では備蓄があることすら稀だった。もし仮に砦まで辿り着けたとしても――徒歩ではそれさえ難しいが――、薬の在庫があるかどうかは分からない。
 (……くそ)
それでも、ここで死ぬよりは生きるほうに賭けたかった。
 少しでも出血を抑えようと傷口を強く縛り、ユッドはよろめきながら立ち上がった。ふわりと漂う、場違いな花の香り。転がり落ちた弾みで押しつぶしてしまった花弁が散らばっている。
 さっきの竜人たちの姿は、もう見えなくなっていた。トドメを刺すほどの価値もない、と看做されたのか。それが悔しくもあり、救いでもあった。腰の剣がまだ折れていないことを確かめると、彼は、歩き出す方角を見定めた。
 (…くそっ、何でこんなことに…)
一歩歩くごとに、傷口の痛みが増していく。毒のせいで血が止まらない。縛った上から滲み出した赤い血が、ぽたり、ぽたりと滴り落ちて、足元に咲く名も知らない白い花の花弁を汚していく。
 まさか竜人側の斥候が川を越えてきているなんて、誰が予想しただろう。カリムは何も言っていなかった。ということは、気づいていないのだ。竜人族が川のこちら側まで侵入してきているなど、まだ誰も知らない――だとしたら、これこそ、一刻も早く報告しなければならない事態なのに。それなのに…
 「うあっ」
足が絡まり、情けない声とともに崩れ落ちる。息が出来ない。歩いているうちに毒が回ってきたのだ。腕に巻いた布は、すでに血で真っ赤に染まっていた。
 空気が、うまく吸い込めない。花畑の中で立ち上がろうともがきながら、ユッドは、無意識のうちに地面ごと花を握り締めていた。
 白い花弁が舞い散る。
 それとともに香りが視界一杯に広がる。
 一瞬、脳裏を掠めたのは、実家のたたずまいと両親と、渋い顔をした兄の横顔だった。高等学校を首席で卒業し、早々に役人として就職した優秀で何事もそつなくこなす長男。頭の出来では絶対に敵わない。だから同じ道を選ぶことは出来なかった。
 "男なら剣を手に、戦場で名を挙げてみたい"
けれどそんなユッドの苦し紛れの言い訳の真意さえ、兄にはとっくに見抜かれていた。
 (こんなことになるなら…、兄貴の言うこと聞いとけば良かったな)
兵士になるにしてもせめて、内地の安全地帯を志願しろ。そう何度も繰り返された。お前は決して英雄にはなれない人間なのだから…と。それが正しいと頭ではわかっていたのに。
 諦めかけたその時、聞き慣れない誰かの声が、遠のきそうになる意識を呼び戻した。
 「良かった、まだ生きてる」
閉じかけた眼をもう一度開いたとき、ユッドは最初、自分が見ているものが何なのかよく判らなかった。それは男のようでもあり、女のようでもあった。整った中世的な顔立ち。けれど、まだ大人ではない。
 どこからともなく現われた小柄なその人物は、ユッドの側にしゃがみこんで、毒矢にやられたほうの腕を取り上げようとしていた。
 「じっとしていて。すぐに終わりますから」
言いながら、傷口にしばっていた布を解いて指先で傷に触れた。手元が隠れていて何をしているのかは見えないが、冷たい、清涼な感覚が熱をもっていた傷口を包み込んでいくのが判った。それと同時に、肺を圧迫していた息苦しさが消えていく。
 「もう大丈夫。大きく息を吸って」
そう言われて吸い込んだ音は、ユッド自身驚くほど大きかった。体が欲するまま、彼は何度も花の香りごと空気を吸い込んだ。助けてくれた人物は、静かな笑顔でそれを見つめている。鮮やかな緑の瞳に、流れ落ちるような細い黒髪、ぴったりとした黒っぽい服の輪郭からするに、どうやら少年のようだ。護身用なのか小さな黒い剣を二本、左右それぞれの腰に提げている以外、馬も持ち物も見当たらない。不思議に思いながら、ユッドは口を開いた。
 「助かったよ。オレは王国騎士のユッド・クレストフォーレス。―ええっと、まあ、騎士"見習い"なんだけど…あんたは?」
 「僕はリュカ。苦しくないですか? 他に痛いところは?」
 「大丈夫、…だと思う。」
 やがて空気が肺に満ち足りると、ユッドにもようやく、冷静に周囲を見回す余裕が出来た。
白い花――見たこともない白い花の一面の花畑。それに豊かな草原。遠くのほうに、黒に近い濃い色をした森の木立が見えている。川を目指していたはずなのに、香りにつられて無意識に森の近くに引き寄せられていたのだ。
 (ここは…)
見回りの巡廻コースには入っていない。だが出発前に地図を確認した時に、確かにこの森を見た覚えがあった。
 妖精族の"領界"――大きな木々が鬱蒼と茂る豊かな森だ。都の近くでは見かけなくなった深い緑の輝き。他種族を拒絶する結界に包まれた、近づいてはならない場所。
 ユッドは慌てて、草を払いながら立ち上がった。
 「まずいぞ。ここにいちゃまずい」
 「どうしたんですか?」
 「"領界"だよ。あの森には妖精族が住んでるから近づくなって言われてて」
 「ああ」
少年は、こともなげに言う。「別にいいですよ」
 「"いい"?」
 「追われていたんでしょう? 悪意もない怪我人を、追い出したりしませんから」
 「そりゃ人間ならそうかもしれないけどさ。 妖精族は、"領界"に人間が入り込むのを嫌うんだ。腹を立てると魔法で木かなんかに変えられるって話もあるし」
確かにそう聞いていた。王都の辺りには大きな森や山はなく、妖精族を見たことのある者などほとんどいなかったが、噂だけは誰でも知っている。人間とも竜人とも異なる種族である妖精族は、澄んだ水の近くでないと生きられない。そのため、主に水源となる場所に領界と呼ばれる結界を作って棲み、水を汚す他種族を遠ざけている。そのくらいは常識で…。
 少年は、困ったように微笑んだ。
 「確かに、勝手に出入りされるのは困りますけどね」
 「……?」
数秒の沈黙。
 はっとして、ユッドは自分の腕を見直した。痛みが完全に消えている。切り裂かれた上着の隙間、毒矢にやられた傷口が、きれいに塞がっているのだ。毒を消しただけではなく、傷まで癒せる。こんなことができるのは、人間ではない存在だけだ。
 「まさか、あんた…」
 「ええ、これでもれっきとた妖精族<フィモータル>なんですよ。あの森に住んでいます。そうは見えないかもしれませんが」
細い、暗い森の奥と同じ色をした髪が揺れた。
 そう、その少年は、ユッドがそれまで聞いていた話とも、文献で見る姿とも全然違っていた。巷で知られる妖精族の姿といえば、髪も服も真っ白で古風な"美女"だ。不老長命で見た目が若くても数千年を生きている者さえいるといい、性格は気位が高いか気まぐれで、異なる価値観を持ち、言葉さえ通じず、人間とは相容れない存在ということになっている。
 目の前にいるこの少年は、まるきり正反対だ。確かに端正な顔立ちではあるものの、見た目からは人間としか思えない。
 「ユッドは、この辺りは初めてなんですか?」
うろたえているユッドを面白そうに見上げながら、少年は、ごく普通の人間の言葉で話しかけてくる。
 「まあ…そう。最近ルナリアの都から赴任してきて、今は砦に…川のほとりにある砦にいるんだ。今日は斥候任務で外に出てて…」
 「じゃあ、案内しますよ。領界の縁を通っていけば、竜人<ドラグニス>とは遭遇せずに川に出られます」
 「いや、けど…」
 「折角助けたのに、すぐに死なれると困りますよ。」
そう言われては、断るわけにもいかなかった。リュカは、まるで半分宙に浮いているかのような足取りで殆ど花畑を乱さずに先を歩いてゆく。人間そのものの見た目と、人間離れした雰囲気と能力。そのちぐはぐな取り合わせが、妖精の領界と人間の領域の境目さえ曖昧にさせる。
 確かなことは、自分が命を救われた、ということ。
 (ここの妖精族は、きっと変わり者なんだろう。人間にだって色々いる。妖精族だって…。)
頭をかくと、ユッドは、その後ろを人間らしく乱雑に、香りをかき混ぜながら歩き出した。


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