■Prologue 〜 リオネス砦


 短い春が終わり、夏へ変わろうとしていた。
 当番制の見張りの責任は重大で、ユッドはいささか緊張した面持ちで眼前に広がる荒野を注意深く見守っていた。くすんだ色をした集落の焼け跡がぽつりと見えている、人気のない荒れた平原。川向こうのその方角に、人間の住む町はない。荒野の向こうには岩と砂だらけの不毛な砂漠があり、――それを越えた先には「海の国」がある。かつては、砂漠を越えて海へと向こう道もあった。けれど今や、その街道は死の道と化している。
 一年中で最も浮き立つ季節ではあるものの、最前線の基地であるリオネス砦には浮ついた気持ちになる余裕などなかった。ユッドが配属されてから、まだ、砦が直接襲撃を受けたことはない。だが、ほとんど三日に一度は敵影発見の急使が届くし、一週間に一度は戦闘のための出撃がある。軍学校を卒業して現場に配属されたばかりで実線経験も何もないユッドのような新兵が出撃を命じられることは無いものの、緊張した雰囲気は、新兵の兵舎までも否応無く届く。
 ユッドは新兵だった。王都から配属されてまだ、一ヶ月も経っていない。今年ようやく軍学校を卒業したばかり。士官候補とは名ばかりで、実家は末席貴族。腕が立たないわけでもないが、実技の成績は平凡で、士官候補に残れたのは主に座学の成績ゆえだった。
 けれど、彼は王都に残ることを選ばなかった。
 前線基地で現場の経験を積みたい。それが叶わないなら、なるべく王都の実家から遠い場所に赴任したい。
 家族の反対を押し切って、そうして送り出されたのがここだった。おおむね平和な今のルナリアで唯一、緊迫した日常とともにある場所。そしてここでは、学位も知識も関係なく、実戦経験がすべてだった。


 戦いの始まりは、もう、二十年近く前になる。
 それは唐突に始まった。はるか南方の荒地に暮らしていたはずの竜人族が、人間の住む領域への進攻を開始したのだ。
 何の備えもしていなかった幾つかの小国は瞬く間に滅ぼされ、ほとんどの人間が殺されるか、奴隷として連れ去られた。人の住処を奪った竜人たちは、そこを植民地としてさらに数を増やし、爆発的に数を増やしながら次々と人間たちの領域を手に入れた。元より、人間よりはるかに強靭な肉体と生命力を持つ種族だ。同数ならば人間たちに勝ち目はない。それを何とか押し留め続けてきたのは、竜人族の二倍ある寿命と人間の「数」と「道具」。そして地の利。…だったはずなのだが…。


 ユッドは、見張り台の上でひとつ溜息をついた。
 この基地が「最前線」であることの意味。それはつまり、ここより先、西の荒野に近い町や集落は、「国」ごとすべて滅ぼされてしまったということ。
 今や、砦の前を流れるルーヴァ川は人間族の最後の防衛線だった。水を嫌う竜人族は、大きな川を越えるのに難儀する。けれど、はるか北のレイノリア山脈より流れ落ちるこの流れを越えた東側には、大きな川は流れていないのだ。


 鈍い鐘の音が、丘に響き渡る。
 見張りの交代時間を告げる音だ。交代要員として見張り台に上がってきたのは同じくらいに砦に配属された新兵で、一言、二言交わして引継ぎを終えると、ユッドはその足で兵舎のほうに向かって歩き出す。
 それを呼び止めたのは、同じように丘から下る道に向かっていた年配の男だった。
 「おう、ユッド。いま終わりか?」
 「そうだけど」
 「これから用事はあるのか」
それはユッドにとってこの砦での数少ない親しい相手、カリムという名の古参兵だった。禿げ上がった頭はすでに真っ白で、好々爺のような顔をしているが、かつては"英雄"ラーメドとともに前線に出ていたこともあるという経験豊富な兵士で、日焼けした腕には今も太い筋肉が盛り上がっている。
 予定はないと答えると、カリムは、まるで孫に接するかのようにくしゃりと顔に皺を寄せて笑った。
 「なら付き合え。これから巡廻に出るところでな。ついでに、このあたりの道順を教えてやろう。」
 「巡廻?」
 「はっはっ、そんな顔するな。なあに、ちょっとした散歩みたいなもんだ。見回るのは、川のこっち側だけだ」
笑いながら、カリムが歩き出す。「竜人族が攻めてくる前は、ここの砦は近隣の街道の防衛が主な任務だった。野党やら、野犬やらと戦うためにな。砦と近隣の町の間の巡廻は、その頃の名残だ。竜人族よりは盗賊の方が怖くないだろう?」
 「そりゃそうですよ、少なくとも人間なんだから。」
竜人族を実際に見たことはない。肉が腐りやすく、剥製ですら保存が出来ないために前線から遠い都では絵姿だけが出回っている。軍学校の教材用に使われていたその絵に描かれた姿は、二足歩行をする大きなトカゲとしか言いようがなく、濁った瞳や人間より不気味そのものだった。
 「地図は見たな? 主要な道と、川と砦の方角は覚えているだろうな」
 「もちろん。」ユッドは、食堂の壁に貼り出されて、いつでも確認できるようになっていた大判の簡略化された地図と、そこに書き込まれた何本もの定期巡廻ルートの線のことを思い出していた。「ただ、地図の端に塗りつぶされてる場所があった。あそこは? 近づくな、としか書かれてなかったけど」
 カリムの表情がわずかにこわばった。
 「あれは…妖精族の領界だ」
 「え? 妖精族?」ユッドは驚いていた。「この辺りって、妖精族がいるんだ」
 「そうだ。それで理由は判るだろう? サウィルの森には近づくな。帰ってこられなくなる」
妖精族――それも実際には見たことのない、絵でしか知らない種族だ。人間と敵対はしない。が、味方をすることも無い。そもそも滅多に姿を見られることもなく、"領界"と呼ばれる自ら作り出した縄張りに近づかれない限り、他の種族には無関心だ。
 「見てみたい、などと絶対に思うなよ」
振り返って、カリムは厳しい顔でそう言った。「好奇心で出かけてもロクなことにはならん。森で迷ってべそをかきながら戻ってくるのがオチだ」
 「判ってるよ…。」
 「なら、いいがな。」
視線を進行方向に戻しながら、カリムは、続いて巡廻に出る道順やこまごまとした注意点の話を始めた。それらを聞き流しながら、ユッドは、胸の奥から湧き上がってくる楽しみを抑え切れなかった。ようやく、見張り以外の仕事が出来る。それも、砦の外に出られる。
 一瞬、脳裏に、先に配属された若い兵士の、つんとした横顔が浮かんだ。優秀で何を頼まれてもそつなくこなす、少し年上のその兵士は、いつも外回りの重要なお使いを頼まれている。同じ軍学校卒ということもあって、何かにつけてユッドと比較される目障りな存在だった。今は追いつけなくても、いつかは――。


 ――それが、ほんの半日前の出来事。
 その時はまだ、その選択が何を意味するのか、その時にユッドには知る由も無かった。


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