昨日、リーマンたちが訪れたのは、森の入り口から、そう遠くない場所のはずだった。
 木を伐りだした後の切り株が並び、切り拓かれて明るい日差しの下で、のどかな野原になっている。町の子供たちも、よく遊びに来る辺りだ。落ちた木の実から自然に生えた、若い細い木が何本か生えているほかは背の低い下草ばかりで、影を落とすものは何もない。
 だが、この辺りで手に入るのは、夕食のかまどのための小枝くらいだ。
 「リーマンの話では、太い木材を切り出しに、普段よりも奥まで入ったらしい。」
ヴォラートは、辺りに視線を巡らせる。
 「日暮れ時とはいえ、まだ明るい時分だった。…エルム、何か分かるか」
 「いえ、何も」
無口な金髪の男は、むっつりした表情で答えた。片手に弓を抱えたまま、注意深く地面を眺めている。
 「目立つ草の乱れは、昨日、馬の駆けた跡だけです。その他は、人の踏みならした跡…しかしそれも、町の者が枝を取りに来た程度のものでしょう。ここではありません」
 「よし。ではもう少し奥のほうまで入る。各自、周りに注意を払うように」
エルムは何も言わず先頭に立って、大股に森のほうへ近づいていく。草の流れ、地面にかすかに残る足跡、木の枝の折れた跡…そういったものから、森の中で起きた出来事を、時間を遡って探り出そうとしているようだった。
 若い兵士たちの視線に気づいて、ヴォラートは笑った。
 「無愛想な男だが、生まれながらのレンジャーだ。北の山岳地方の生まれでな。何か異常があれば、必ず見つける」
この口調から、このエルムという男にヴォラートが絶対の信を置いていることが伺えた。だが、ラニルスは、あまり意識をしたことも、一年近く城に暮らしているのに姿を見た覚えさえ記憶に無かった。

 「ここですね」
森の中でエルムに追いついたとき、彼の前には、大きく乱れた草むらがあった。森の中に入って、5分ほど歩いた辺りだ。
 木屑が、辺りに散っている。何度か伐り付けた樹皮は大きくはがれ、辺りには、まだ木屑のかおりが漂っている。流れ出た樹液に、小さな甲虫が群がっていた。
 「ここで、木に斧打ち込んだんでしょう。二人で…。」
確かに、斧を打ち込んだ跡は一本の幹の両側にある。近くには、ひきずって帰るときに使うつもりだったらしく、太い荒縄が束ねられたまま落ちている。
 「そして、どちらかが何かに気づいて手を止めた。振り返り…一歩」
つぶやきながら、エルムはゆっくりと歩き出す。草の上には、何か跡があるようには見えないのに、何かに導かれるように、暗がりの奥へと歩いていく。
 「二歩。三歩。…そこで、足を止めた。誰かがいる。”誰だ?”」
彼は顔を上げ、真っ直ぐに暗闇をにらんだ。「その瞬間、相手は逃げ出した。彼は追いかけた。”待て”と。…だが」
 エルムは茂みの向こうを覗き込んだ。ヴォラートが近づく。
 「リーマンは、ここで怪我を負わされたのだな。」
静かな声で言い、乾いた黒い血の落ちた広い葉の草を見下ろした。
 側には、落ち葉に埋もれるようにして斧が落ちている。
 エルムは振り返り、ふっ、と頭上を見上げた。
 「大きいですね。」
 「ん?」
 「その男です。身長は…ああ、僕よりも大きいかな。頭一つ分は」
頭上に張り出す、木の小枝が不自然に折れていた。ラニルスは、今朝、食堂で聞いた話を、思い出していた。”悪魔のような、のっぽの男。真っ黒なマントで…”
 「だが、そいつだけではあるまい。」
ヴォラートは、振り返ってラニルスたちの立つ辺りを見回した。
 「リーマンの連れて行った連中が、無能だったとも思えん。向かっていくことは出来んでも、腰を抜かして逃げられなかったほど臆病でもあるまい」
 「4人はいたでしょう」
エルムは、平然とした顔で言う。
 「逃げ道をふさいだ者が2人。1人が、すばやく近寄って、いちばん近くにいた兵士を殴り倒した。…残りの兵士たちは、リーマンが指示して逃がした。自身は剣を抜いたのでしょうが…戦いにはならなかった。長身の男は何もせずにその場を立ち去った。逃げた兵士たちは」
彼は別の方向に向かって歩き出す。
 その方向には、小さな沢があった。湖から流れ出した細い水の流れが、岩の隙間を通って、森を抜けていく。沢蟹がいて、子供たちにとっては絶好の遊び場だ。
 「一人は、暗がりに足をとられ、そこで転んだ」
苔むした平たい石が、天と地を逆さに転がっている。側には、人が濡れた落ち葉の上を滑ったらしい、派手な跡がついている。
 「そしてもう一人は、向かい側から来た誰かと格闘になったらしい。ほら、そこに」
沢を渡りきる直前の流れの中に、斧の柄が見えていた。
 「握り締めたままだった武器を、とっさに振り回したのでしょう。」
 「なるほど。では、不審な連中が来たのは、沢の向こう側だということか。」
ヴォラートは、足を滑らせないよう慎重に、沢の下へと降りて行く。水の深さは、くるぶしまでも無い。小さな、茶色い蟹たちが慌てふためいて逃げ出していく。 
 ラニルスたち3人は、指示の無いまま、沢のほとりで待っているしかなかった。
 「やっぱ、山賊かなんかじゃねーのかな。相手が兵士じゃ金目のもん持ってないしさ、襲っても仕方が無いから見逃したんじゃねーのか」
一緒に来た兵士たちのうちの1人、そばかすだらけの若者、ヘイズが、もう1人の仲間に話しかける。
 「そうだよな。この辺りには、もう居ないのかも」
 「……。」
そうかもしれない。だが、そうでないかもしれない。
 腑に落ちないことがあった。もし山賊だとしたら、どうして、武器を奪わなかったのだろう。質の高いものではないにせよ、落ちている斧を拾い上げて、何かの足しにすることくらい出来たはずだ。リーマンや若い兵士たちの武器も、そうだ。
 それに、最初から見逃すつもりなら、何故、リーマンを襲ったりしたのか…。
 …もしかして、リーマンだけが戦場経験のある、その場にいた兵士たちのリーダー的な存在だったからか?
 だから最初に傷を負わせ、残った兵士たちをやすやすと追いたてたのか。何故…。
 「隊長!」
ラニルスは、正式な呼び方で呼んだ。ヴォラートが顔を上げる。
 「おれは、その辺りを見てきます。いいでしょうか」
 「ああ、だが、あまり遠くへは行くなよ。ヘイズ、ハイセン、お前たちもだ」
 「分かりました」
軽く気をつけをして答えると、二人は顔を見合わせ、すでに歩き出しているラニルスの後に続いた。
 木立の間を通り抜けてくる日差しは明るく、落ち葉の上に明るいまだら模様を描く。
 すぐそこに、湖がすかし見えていた。ここからでは城は見えないが、水のきらめきが見えている限り、道に迷うことは無い。
 「隊長たち、何か見つけるかな」
ヘイズは、すでにやる気を無くしたように言った。「あー。明日には、もう戦いが始まっちまう。なあー、ラニルス。お前、平気そうな顔してるけど、怖くないのか」
 「…怖いさ。」
 「本当かよ。」
正直に言えば、自分の気持ちは、分かりかねていた。
 だが、もしも戦うことが嫌だとしても、他にどんな選択肢があるだろう。
 ここ以外に、いる場所は無い。ラギのように家族はいないし、ユオンのような実家も無かった。幼い時、育ててくれた親戚の家に帰ることは出来たが、それよりも、ヴォラートのもとに引き取られてからの時間の印象が強く、長く、…それ以外の時間が、すぐには思い浮かばなかった。その記憶の全てを、無駄なものにしたくない。
 「なあ、そういや、明日来るのも、あいつなのかな」
 「…!」
ラニルスは、胸のうちに浮かんだその名前を見透かされたような気がして、反射的に振り返った。その反応を見て、口を滑らせたハイセンは、慌てて言い直した。
 「すまん。なんでもない、気にしないでくれ」
 「いや…。」
気にするべきだ、と、ラニルスは思った。誰も言わないが、誰もがそれを、一番に気にかけている。
 「おれは、ユオンのことは、まだ友達だと思ってる。」 
 「分かる。俺らにだって、フラウムヴェルに残った仲間がいるんだ」
陽気だったヘイズの顔が、一瞬にして曇った。「明日は、敵になってるかもしれねぇんだ。」
 「そ、そんなことあるもんか。ずっと一緒に見習いからやってきた仲なんだぞ。たった一年で変わるなんて、そんなことあるもんか。」
 「そう思いたいさ。けどさ…」
ずっと押さえつけようとしていた不安は、ひとたび漏れ出すと止まらなかった。
 それは、今、城にいる誰もが抱えているはずの不安だった。ひとたび戦いとなれば、かつての仲間たちに剣を振りかざすことになる。それも、自分たちが望んだわけでもない戦いで。
 ラニルスは、足を止めた。――遠くまで来過ぎてしまったようだ。振り返っても、声の届く範囲にヴォラートたちは居ない。ここには、自分たち3人だけだ。
 ふいに、胸にざわめくような不安を覚えた彼は、足を止めた。
 湖は、まだ木立の向こうに見えている。それほど頻繁ではないとはいえ、町の人間も木の実拾いにやってくる場所だ。木の枝には、実のなる木にしるしをつけたつもりか、色あせた青い紐が枝に巻きつけられ、揺れている。風がさわさわと頭上の枝を揺らしている。
 大声で叫べば、聞こえるくらいの距離だった。にもかかわらず、ラニルスは、言い知れない不安を胸に感じていた。
 ふいに硬くなったラニルスの表情を見て、後から追いついてきた2人は、首を傾げた。
 「どうしたんだ? 急に」
 「…忘れたのか。この森では、昨日、リーマンが”斬られ”たんだぞ」
はっとして、ヘイズとハイセンの表情が引き締る。
 ラニルスは、辺りに耳を澄ませた。
 かさり、とも音のしない静寂。だが、その静寂が、いつもとは僅かに異なっているような気がした。小動物たちは、この不自然な緊張感を読み取って、どこかへ隠れてしまっているのかもしれない。
 「なあ、そろそろ…」
不安にかられたハイセンが口を開いた、その時だった。きりきりと、沈黙を裂いて何か硬いものを締め上げるような音が、微かに耳に届いた。
 ラニルスは、木立の合間に、何か、きらりと光るものを見た。音と、光。「伏せろ!」――彼はそれが何なのか、はっきり分からぬまま反射的に叫びながら、腰から剣を抜いた。木漏れ日に反射した光、剣と、森の暗闇を切り裂いてきた、一筋の風と。…2つは激しくぶつかり合い、双方が弾けとんだ。
 足元の落ち葉に、短く太い矢がぽとりと落ちる。
 ラニルスは剣を取り落とし、右手を押さえた。遠距離から放たれたとはいえ、矢は、まだ勢いを失っていなかった。弾いた手には痺れが走り、骨が震えている。
 「ラニルス!」
駆け寄ろうとしたヘイズは、はっとして森の奥を見た。いつの間に現れたのか、暗い服を纏った数人が、剣を手にこちらへ走ってくる。軽装のためほとんど足音もせず、服は森の背景に溶け込む色をしている。
 「わあああっ」
 「――早く、逃げろ! 隊長たちに知らせろっ」
ハイセンは一目散に駆け出した。ヘイズは振り返り、ためらいがちに、何度か、襲撃者たちとラニルスを見比べ…それから走り出す。2人が逃げるのを見て、暗い服の男たちはそちらへ向きを変えた。どうあっても、逃がさないつもりだ。
 ラニルスは剣を拾い上げようとしたが、痺れたままの手では、剣は掴みきれなかった。
 落ち葉を踏む、かすかな音が近くで聞こえた。彼は顔を上げる。真っ黒なマントの男が、木立の間から歩いてくる。
 ”悪魔のような男…”
 ラニルスの頭に過ぎったのは、ヘイズたちの噂話を聞いていたせいではない。もし聞いていなかったとしても、やはり、同じ印象を持っただろう。
 女のように長く伸ばした髪と、整った顔立ち。だが、口元に浮かぶ冷酷な笑みは、この世の終わりまで決して緩むことのない、絶対的な非情さを思わせた。
 「お前が…リーマンを…」
左手で剣を持ち、ゆっくりと後に下がりながら、ラニルスは、ふいに自分の見ているものに気がついた。
 耳だ。
 エリッサと同じ、先のほうが尖った特徴ある耳が、髪の間から見えている。近づいてきたとき、黒いマントの下には、美しい模様の描かれた柄が見えた。
 男は、あと数歩のところまで近づくと、すらりと剣を抜いた。逃げ場は無い。
 木漏れ日に反射した細い銀の輝きが、ラニルスの目を捉える。彼は無意識のうちに呟いた。
 「フェノールの剣…?」
男は振り上げた手をそのまま止め、かすかに眉を寄せ、不審そうにラニルスを見下ろす。
 その一瞬が、ラニルスを救った。
 さっきヘイズたちの走っていったほうから叫び声が聞こえ、剣の打ち合う音が響いた。ヴォラートたちが駆けつけたのだ。
 エルムが立ったままの姿勢から矢を放つ。だが、男は振り向きざま、難なく飛んできた矢を切り落とした。木で出来た矢の柄が、真っ二つになって地面に落ちる。
 ヘイズとハイセンを追っていった2人は、敵わないと見たのか、最初から戦うつもりはなかったのか、既に逃げ出していた。
 「ラニルス!」
抜き身の剣を下げたまま、ヴォラートが駆けてくる。
 「ほう、あれは」
男は目を細め、呟いた。…その声は、ラニルスにしか聞こえなかったが、始終口を閉ざしていたこの男が喋るのは、これが初めてのことだ
 数歩のところまで駆けつけると、ヴォラートは、慣れた動作で剣を構えた。鋭い眼光が長身の男を見据える。
 「部下に手を出すな。相手は、ここにいる」
 「……。」
男はちらりと、森の奥を見た。さっき矢が飛んできた方角だ。
 「ヴォラート、森の中に弓兵がいる!」
ラニルスが名を呼ぶと、男は、口元を大きくゆがめ、ぞっとするような目つきで、ヴォラートの持つ剣を見つめた。
 「そうか。お前が、”守護者ヴォラート”、<ガーディア>の主か」
 「なに?」
 「動くな」
男はふいに良く響く声で、向こうから矢で狙っていたエルムに言った。かなり離れているはずなのに、エルムはぴくりと反応した。聞こえているらしい。
 「動けば、この男を射抜く」
それは、同時に、ヴォラートへの警告でもある。ラニルスは、はっとして森の奥を振り返った。狙われているのは、自分なのか?
 「貴様らの狙いは何だ」
去ろうとする男の背に向けて、ヴォラートは問うた。返事は無い。
 剣はマントの下に収められ、柄の模様はもう見えなかった。だが、それは、紛れも無くヴォラートの手にいる剣と同じものだ。ラニルスが”フェノールの剣”と言った時、男は確かに、動きを止めた。

 さわさわと風が吹き、去っていく男の姿と気配が完全に消えた。
 長く続いた緊張がようやく解けたとき、ラニルスは、向こうから泣き声にも似た声が漏れるのを聞いた。固唾を呑んで見守っていたヘイズとハイセンが、肩抱き合って崩れ落ちるのが見えた。
 「…去ったか。」
ヴォラートは剣を収め、ラニルスのほうに近づいてきた。
 「怪我は無いか」
 「少し、右手を痛めたくらいだよ。大したことない」
大股に歩み寄ってきたエルムが、側に落ちていた太い矢を拾い上げる。
 「中型の機械式交差弓ですね。巻き上げ機を使って発射する、武装を貫くためのクロスボウのものです。…距離があったから良かったようなものの、もう少し近ければ、剣ごと貫かれていたかもしれません」
それを聞いて、ラニルスはぞっとした。あのとき、とっさに剣を抜かなかったら、…偶然、その剣で矢が弾かれていなかったら、今頃は。
 「やはり4人、いたか。それも一人は、相当の使い手のようだ」
 「…この矢は、この国では使われていないものですね」
エルムは憮然とした顔で矢を一瞥すると、証拠品として、自分の矢筒の中にしまった。
 昼は真ん中まで過ぎていた。森の中での収穫は、十分すぎるほどだ。
 「戻るぞ。皆に報告せねばならん。」
右手の痺れは、まだ少し残っている。ラニルスは、右手でを、硬く握り締めたままの左手の上に置いた。自分でも気づかないうちに、左手は、それ自身の力では離せないほどに強く、剣の柄を握り締めていたのだった。
 

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