何か嫌な夢を見たようで、その日、ラニルスは朝から気分が良くなかった。
 とめどなく湧き出してくる悪夢から逃れようと、森の中を走り回っているうちに朝になり、まだ醒めきらぬ頭で寝具を片付ける。
 朝食と点呼のため食堂に集まった兵士たちは、夕べの事件のことを口々に言い合っている。
 「よう、ラニルス。お前なら何か知ってるんじゃないのか? 何があったのか」
隣から、年上のそばかすの兵士が肘でつっついてきた。
 「おれもよく知らないけど…。森の中に、伏兵がいたとかって、話は聞いた」
 「伏兵? じゃやっぱ噂は本当なのかな。森の中に奴らの基地が作られてて、草原にいる隊は陽動だって話」
 「陽動…。」
 「そうさ。俺たちが町の表門を防ぎに回ったら、裏から城に攻め込むって寸法さ。森からの道は細いし、すぐ側が水だから戦うには不便だが、無防備だろ?」
さも、自分は頭がよいといわんばかりの口ぶりだった。
 確かに、そうだ。
 いちどに一人しか通れないような、足場の悪い細い道だが、そこを抜ければ城にいちばん楽に攻め込める。まして、こちらが全く気づいていなければ。城からは、湖のほとりの潅木や、茂みの中に邪魔されてよく見えない。隠れながら人が近づくには、うってつけだ。
 「けが人が出たのは不幸だったが、気がついたことは幸いだったな。これで、奴らに裏をかかれずに済むというわけだ。
 「――でも、どのくらいの数が森に潜んでいるんだろう。武装は? ルーン公の軍は、草原にいるんだろう。他にも、王を裏切った軍がいるのか。」
 「それなんだがな」
向かいにいた兵士が、乗り出してささやいた。
 「昨日、怪我して戻ってきた奴から聞いたんだが…幸い、そいつは軽い怪我で済んだんだけど、何でも、悪魔みたいな顔した、真っ黒なマントの気味の悪い男を見たっていうんだ。」
 「悪魔…? 男? そいつにやられたのか」
 「いや。そいつはただ薄気味悪く笑ってるだけで、手を出してはこなかったらしい。いやにのっぽな男だったらしい。何者だって聞こうとしたとたんに、後ろから殴られたんだと。もしかしたら、戦争の混乱に乗じて空き巣に入ろうとしてた夜盗ってセンもあるんじゃないか」
だといいんだが、と、ラニルスは顎に手をやった。リーマンの口ぶりでは、そんなふうではなかったし、もしきちんとした訓練を受けていない、ただの夜盗なら、リーマンがあんな傷を負うはずはない。
 「静かにしろ、お前たち! 点呼を取る。食事が済んだら、各自、朝の日課を済ませ、10時に再び広場に集合! いいな」
身を乗り出していた兵士は、しぶしぶといった表情で席に戻った。

 日課というのは、掃除や点検のことだ。若い兵士たちは見習いの頃から、兵舎や武器庫、練習場など持ち場の掃除をさせられる。武具の手入れはもちろん、使っていないときも、篭手や帷子が錆びないようこまめな掃除が必要だった。
 今は、戦いが近いとあって、どれもぴかぴかに磨き上げられ、いつでも使えるよう並べられていたが、数としては少なかった。
 ラニルスは、ほか数人と、並べられた武器の点検当番だった。槍と盾、それに弓。城壁の間から使う大型の石弓の設置や操作が出来る者は、あまりいない。そして、矢も少ないため、実質、使えるのは数機だけといった具合だった。
 当番のうち2人が、その、いしゆみを使える兵だったため、ラニルスは1人で槍の束を数えていた。
 エリッサが訪ねてきたのは、ちょうどその時だった。
 「おはよう。」
 「あ、…お、お早よう。」
こんな早い時間にやって来るとは思わなかった。
 「早いじゃないか、びっくりした」
 「昨日借りた服を返しに来たの。それに、仕事、まだやりかけだから。」
エリッサは、洗濯の済んだ自分の服を着ていた。赤いスカーフも、昨日と同じだ。
 ラニルスの視線に気がついた少女は、片手を髪にやった。
 「ごめん、昨日は…悪いこと言っちまって」
 「ううん。いいの、気にしてるわけじゃないから。ただ、目立つのが嫌だから隠してるだけ」
小さな声で言うと、それきり話題を打ち切って、壁のほうに目をやった。
 「…これが、この城にある全部の武器ってわけね。あ、昨日、私が磨いたのもある」
 「さっそく数に入れておいたよ。あと、残りのはそっちに立てかけてある」
ラニルスは、朝日の斜めに差し込む、明るい窓際を指した。掃除のために持ってきたバケツいっぱいの水が、ちょうど、光を反射してキラキラと眩しく輝いている。
 「ちょうどいいじゃない。ねえ、ここ、借りてもいい?」
 「いいけど。…それじゃ、おれは集合があるから行くよ。あとでまた来る」
 「うん。分かった」
エリッサは、道具を広げながら、壁際にしゃがみこんでいた。
 その腰に、皮で作られた真新しい鞘がつけられていることに、ラニルスは気づいた。金の鎖で飾った鞘に収められているのは、昨日武器庫から拾い上げた短剣だろう。鞘はハイネセンが作ったものかもしれないし、彼女自身が作ったのかもしれない。
 在るべき場所に戻れたその剣は、眩しく輝いて見えた。朝の光のせいだけではなく。…


 広場には、仕事を終えた兵士たちが既に集まっていた。
 「全員揃ったか!」
太いどら声を出して、怒鳴っているこわもての男は、ライナーという。ヴォラートより少し年下だが、根っからの軍人で、規律や規則にうるさい、若い兵士たちにとっては恐怖の的だ。
 「気をつけ! 注目。…分かっているだろうが、この城は今、逆賊たちの攻撃にさらされようとしている。援軍が到着するまでの間、お前たちが国王陛下を守るのだぞ!」
さわさわと、小さなささやき声が、ためらいがちにあちこちから起こる。
 「シモン公はすぐさま要請に応じ、150の軍をこの城に差し向けた。草原にあるルーンの軍勢は挟み撃ちである。」
それまで、この城が守りきれれば…の、話だ。
 「敵軍の数は、およそ200」
ライナーは、恐れもなく、その数字を言ってのけた。
 「我らは100に過ぎぬ。不利は承知。だが、1日だけ…。1日だけは、全力で持ちこたえよ! シモン公の援軍は、5日目には到着するであろう!」
わっ、と声が上がった。
 だが、それは喚起でも発起でもなく、ただの雑音に過ぎなかった。皆が異口同音に口を開き、隣の者や、仲間たちと喋り始めたからだった。まとまりの無い、この声こそが彼らの現状であり、いまだ迷いから抜け出せないでいる、ありのままの姿だった。
 「……。」
ラニルスは、じっと兵士たちの様子を見つめている、ヴォラートのほうを見た。腰の剣に手をかけたまま微動だにしない兵士長は、いつにも増して、表情が読めなかった。
 「静まれ。」
低い、その一言が、波のようなざわめきを端からさっと鎮めた。
 ややあって、ヴォラートはゆっくりと口を開く。 
 「明日には使者が来る。その時、最終的な回答が成されるだろう。無論、国王陛下のお心は決まっておられる。…お前たちは、各自、城の防衛を固めよ。町の者を避難させる手はずを整えよ。よいか、何一つ見落とすな。そして、ただ1日のために切っ先を研ぎ澄ますのだ。」
若い兵士たちの表情に緊張がみなぎり、年配の兵士たちは両足をととのえ、真っ直ぐに立つ。今、この、半数以上が戦いを知らぬ兵士たちを一つにまとめるものがあるとすれば、主に、ヴォラートその人の集める尊敬と、信頼によってだった。
 「…森のことも気になるな。もし伏兵が居るのだとしたら…。誰かが、偵察にゆかねばならぬ」
独り言にしては少し大きな呟きを漏らしたとき、ラニルスは、既に叔父の近くまで来ていた。
 「おれも行きます」
最初から、そのつもりだった。ヴォラートが、自ら危険な偵察の任に就くことは分かっていた。
 「お前がか、ラニルス。」
 「足手まといにはなりません。」
 「…だ、そうだ。どうする、ライナー」
 「は」
赤ら顔の大柄な男は、ちらりとラニルスを見、それから、ヴォラートのほうに真っ直ぐに顔を向けた。
 「恐れながら、腕には遜色ないものと。本人も覚悟はしておりましょう、志願者としてお連れ下さい」
 「お前のことだ、世辞ではあるまいな。…いいだろう、だが、城を一歩出れば、そこは戦場だ。森で危険と出会ったとき、己の身は己で守れ。」
 「分かっています」
ヴォラートは、ひとつ頷いて広場のほうに目を遣った。ほとんどは各自の受け持ちへと散って行ったが、まだ何人かが残っている。
 「ヘイズ! ハイセン!」
呼び止められた兵士たちが、振り返る。一人は飼い葉のような色の髪をしたそばかすだらけ、もう一人はのっぽの若者だ。どちらも、今日、食堂でラニルスの側の席に座っていた。
 「お前たちも来い。南の森へ、斥候に出かける。」
呼ばれた二人の若者は顔を見合わせ、どちらからともなく苦笑を漏らした。噂の現場を自分たちの目で確かめられる、という好奇心と…不安。その気持ちは、ラニルスにもよく分かった。
 「ライナー、後は頼んだ」
 「お任せを。ご無事のお戻りを願っております」
斥候には、もう1人、エルムという熟練の弓兵が同行することになった。誰もその素性を知らないが、見た目の若さとは裏腹に、もう10年も兵を務めて来たような雰囲気がある。
 若い兵士たちは、出かける前に、各自、手甲をつけ、服の下には鎖かたびらを着けるよう言われた。たかが城から半刻の森に行くにしては、あまりにも重装備だったが、今や、そのくらいの警戒が必要だった。
 昨夜から硬く閉ざされていた裏門が重々しく開かれ、ヴォラートを先頭に、エルムを最後尾に、一列になった斥候隊が出てゆく。
 湖に面した細い道を、森に向かってくねくねと下り降りながら、ラニルスはふと、エリッサには何も言わずに来たことを思い出した。
 森に出かけるだけだから、夕方までには戻れるはずだ。そう、何事もなければ。…もし何かあったとしても、無事、今日中に帰り着ける。城の者ではない彼女に、何もかも話す必用はないだろう。
 「ラニルス、森に入ったら気を吹くな」
背中越しに、ヴォラートが言った。「リーマンのことで付いてきたのかもしれんが、感情は時として判断力を鈍らせる」
 「分かっています」
と、ラニルスは答える。親しくしていた兵士のひとりが怪我をしたから−−、そんな理由だけではない。 
 ラニルスは、マントごしに腰の剣に触れた。何でもお見通しのヴォラートにも、まだ、見えていないものがある


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